第1講 ヒエロ覚醒概論
『羽に触るな 見かけたら近くの係へ』
神京大学の総合棟、正面入り口の傍には学生生活に関する掲示板がある。宗教勧誘やハラスメントへの注意を促すポスターと一緒に、その文言が印字された紙が貼られている。
貼り紙は掲示板ごと隕石に押し潰された。
総合棟に、直径1m前後の無数の隕石が横殴りの雨の如く降り注ぐ。隕石は教室の窓ガラスを突き破り、その先の学生に次々と命中する。
非常サイレンに駆られて、学生や教員は次々と逃げ出す。死屍累々の教室に生きた人間はただ一人だけだった。
「た、助けて……!」
女子大生、蒲田恵子は瓦礫で足が埋もれて逃げ遅れてしまった。近くにいるのは、机の下に避難して机ごと潰された友達だけだった。
窓の向こうを覗くと、こちらに向かう隕石。観念して目を閉じた。
いつまで経っても、その隕石は来なかった。
恐る恐る目を開けると、誰かが隕石の前に立ち塞がっていた。涙目の蒲田にははっきりとは見えないが、群青色の翼が生えた鳥人間のようだった。
鳥人間は、巨石を教室の隅へ投げ捨てると、割れた窓を潜り抜けどこかへ飛び去った。
それ以上、隕石は降ってこなかった。緊張の糸が切れた蒲田が意識を手放す。彼女にはその鳥人間に見覚えがあったような気がした。
「……こちら神京大学前です。本日の午前9時ごろ、ヒエロによる襲撃があったとのことです。警察の調べによりますと、2体のヒエロの戦闘が確認されており、うち1体は『ウォーター』と推定される個体とのことです。あちら、見えるでしょうか。校舎のあちこちにですね、隕石のようなものが……」
レポーターが手をかざした先に、カメラが向けられる。コンクリートの壁や煉瓦の道にめり込んだままの隕石がそこかしこにある。
「……続報が入り次第、またお伝えします。それでは……」
一通り話し終えて中継を切ろうとした時だった。
「どうもこんにちは」
レポーターとカメラの間に何者かが割り込んだ。一瞬考え込んだスタッフ一同が状況を理解すると、悲鳴を上げながら後ずさった。
割り込んだのは人間ではなかった。バンダナ、エプロン、ゴーグルをつけた全身水色のロボットのようであった。一言で表すなら、掃除をするときの服装を模しているようであった。
「ヒ、ヒエロだ!」
一人がそう叫ぶと、周囲の人間は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「あ、まだ逃げないでくださいね!今日こそは世界中に放送しますから!」
その怪人は軽くかがむと10mもの高さを弧を描きながら飛び跳ね、逃げているレポーターの前に着地した。怯えるその手からマイクを取り上げると、カメラの前にあっという間に戻って声高々に語り出した。
「えー皆様!この地球から人類が消えたらどうなるか考えたことがあるでしょうか?この星に住む生命、空気、水、星、宇宙、時間、物理法則、思い出に心、それが全て!全てなくなったらどうなるでしょう!考えただけでワクワクしますよね!?」
熱が入ってきたのか、カメラを掴んで自分の面前まで寄せ、ついには子どもを高い高いように持ち上げていた。
「あなたの愛する人を思い浮かべてください。その愛する人は炭素水素酸素その他元素で構成され、神経を通る電気信号に基づいて行動していることでしょう。それに恋心を抱いているあなたもおんなじ。それがもし!なくなったら!原子と電気、そしてそれらが生み出した感情がなくなったら!どうでしょうか!ちょっとでも興味が湧きませんか!?」
少し冷静になったのか、ゆっくりとカメラを下ろし、改めてカメラに問いかけた。
「興味が出てきた、語り合いたいという方はぜひ、神京大学へお越しください。サークル『完全抹消会』はあなたをお待ちしております。……と」
一通り演説し終えると、怪人は草むらの陰に目をやった。そこには先程逃げ出したスタッフ一同が隠れていて、予備のカメラを持ち出して怪人の様子を撮影していた。
「どうでした?」
怪人の問いかけに、スタッフの一人が答えた。
「……放送されてないですね」
「え?」
「ヒエロの襲撃に遭った時点で中継が終了するので……」
そう言われると怪人は露骨に肩を落とした。
「先に言ってよ……」
「また今度でいいって〜ひっく」
突然どこからか女の声がした。音の出所は怪人の右手の甲についた、鉛色で正方形の小さな箱からだった。
「会長起きた?」
「最初から起きてっ……るって〜」
怪人が会長と呼ぶその女は、酔っ払っているのか呂律が回っていない。
「あーごめん会長、あのヒエロは取り逃した。多分覚醒された。今日中に始末する」
「うー、こっちこそアレの整備忘れたからごめんごめん。ひっく、気にしない気にしない」
「頼むから酔っ払ったまま作業しないでよね。じゃなきゃ会費払わないよ?」
「勘弁してよお〜。ちゃんとやるからさ〜」
「頼むよ。それじゃあテレビ局の皆さん、今日はこの辺で。次こそは流してくださいね?」
そう告げると、怪人は懐から水筒を取り出し、蓋を開けると中身を地面へ。出来上がった水溜まりにヒョイと飛び込むと、穴に落ちたように吸い込まれ消えてしまった。
隕石が止んだ構内を一人走り抜ける男がいた。男子学生、稲見秀人だ。辺りでまだ煙立ち込める隕石を気にも留めず、どこかへ向かっている。
その途中、壮年の男と出会した。すれ違いざま、その男が稲見に声をかけた。
「稲見くん。そろそろ2コマ目が始まるよ。間に合わないんじゃないか?」
「すいません!彼女が無事かどうか確認させてください!」
稲見は振り向きもせず大声で返答して校舎の中へ入っていった。
「……お若いなあ」
校舎の階段を駆け上がり、ある教室へ辿り着く。そこには気絶した蒲田が横たわっていた。
「けーちゃん!」
彼女の下へ駆け寄り、乗っかっていた瓦礫をどかして抱え上げる。それによって、蒲田も目を覚ました。
「しゅーちん……」
彼氏のあだ名を呼ぶ蒲田。見たところ脚に擦り傷が多いが出血には至ってないようだった。
「ああよかった……!本当に良かった……!」
抱き寄せたまま大泣きする稲見。それに釣られて蒲田も何かが崩れるように泣き出した。
「ねえ、また新しいヒエロが出たんだって」
「ウォーターも出たんだって?この大学どうなっちゃうんだろうね」
「新しいやつが倒してくれないかなー」
「無理無理。ヒエロってどいつもおんなじでしょ」
ヒエロ出現により全ての講義が中止になり、一斉下校となった。家に帰る人混みに、稲見たちも混ざっていた。その途中、今回の事件の噂話が自然と聞こえてきた。
ヒエロと呼ばれる怪物がこの世界にはいる。普通の人間がある日突然ヒエロになり、欲望と暴虐の限りを尽くす。その規模たるや半径数10kmで収まればいい方で、時には世界中に災害をもたらす。
そんなヒエロのとある一個体が、この神京大学に度々出没している。
ヒエロ・ウォーター。全ての抹消を願うヒエロである。
「おいおい稲見くんどうしたの?彼女と一緒に帰るところ?」
「ねえねえ俺たちと一緒に帰らない?このあとみんなで集まる予定でさあ。よければ恵子ちゃんもどう?」
声をかけてきたのはサークルの先輩の安田と木嶋だった。
「いえ結構です」
「そんなこと言わずにさあ〜。楽しいよ?」
「怪我してるんでパスします。ほらけーちゃん行こう」
稲見と蒲田はこのサークルに入ったことを後悔していた。新歓に参加した時、やたら女の子を囲いたがる先輩たちに嫌気が差し、一緒に抜け出したのが二人の馴れ初めだった。それなのにサークルのメンバーは獲物を逃がさないかのようにずっと突っかかってくる。二人の悩みの種だった。
なんとか振り切り、帰路に着こうとした時だった。
被害を受けていない綺麗な壁が一瞬で瓦礫となった。破壊された壁から何かが勢いよく飛び出て、反対側の校舎の壁に叩きつけられた。
「な、何!?」
土煙が収まると、二人の見知った人が倒れていた。同じサークルの美作佳織だった。
「佳織ちゃん!?」
「一体どうしたんだ!?」
二人は駆け寄って美作を抱きかかえた。彼女は小さく呻き声を発しながら、自分が飛び出してきた方向を指差した。
壁に開けられた穴の向こうには、テレビ班を襲ったヒエロがいた。
「あ、どうも。その人渡していただけます?ちょーっと聞きたいことがございましてね。」
「ヒエロ・ウォーター……!」
稲見は二人を庇うようにヒエロの前に立ち塞がった。
「二人とも逃げて!ここは俺に任せろ!」
「しゅーちん!?相手はヒエロだよ!?」
「大丈夫、秘策があるからさ。けーちゃんは俺が絶対守る」
「しゅ、しゅーちん……。でも……」
「心配すんなって。けーちゃんが生きてる限り俺は負けないからさ」
「しゅーちん……」
「えー、手荒なことはしないからさっさと……」
怪人が言い切る前に、稲見は懐から何かを取り出した。小さな羽ペンだった。
「そ……それをなんでしゅーちんが……!」
驚く蒲田をよそに、稲見は羽ペンを放り投げた。放物線を描き地に落ちるはずのそれは途中で軌道を変え、彼の周りを回りながら宙に文字を書き出した。
稲見の周りを文字で埋め尽くした瞬間、文字が一斉に彼の体に貼り付いた。彼の全身が陶器のように砕け、中から何かが現れた。
青い鳥人間……ヒエロ・ファルコンがそこにいた。彼の顔面右半分には直線で形作った目のようなものがついていた。
「あ!あんた今朝の!」
「けーちゃん、向こうに隠れてて」
蒲田はファルコンが他のヒエロとは違い、正気なのだと直感した。彼に託すような眼差しで頷くと、そそくさと物陰に隠れた。
「今朝の失態を取り返させてもらう!覚悟!」
「けーちゃんやみんなをこれ以上傷つけるのは許さない。俺がみんなを守る!」
「へっ、平和も戦争も全て消してやる!」
ウォーターは大きく踏み込み、一瞬でファルコンの前に。しかしその動きは見えていた。
ハヤブサの能力。高い視力で相手の一挙一動を捉え、次の行動を予測できる。掃除屋の右腕の力みから、右手で殴ってくることが読めた。
そして予測通り、右拳を振りかぶってきた。身をを軽く傾げ躱し、カウンターのボディブローを決めようとした。
その時だった。右頬の痛みと共に9時の方向へ吹き飛ぶ。校舎に激突し、修理仕立ての壁にクレーターができた。
ファルコンにはなにが起きたか理解出来なかった。
「しゅーやん!あいつなんか水をこう、手の横からブシャーって出して、それでぐるんってコマみたいに回って、こう、横から殴ったんだよ!」
影から見ていた蒲田が呼びかけた。言われて辺りを見ると、地面がウォーターを中心に弓形に濡れていた。躱されたストレートパンチを、水を出した反動で無理矢理軌道を変えたのだと、理解した。
(そうだ、俺たち二人の力ならこいつを倒せる。あいつを倒して、けーちゃんを守るんだ……!)
ファルコンは俄然希望が見えた。窪みから身を起こす彼に向かって、ウォーターはまた歩き出した。
裏拳だ。ストレートでも余裕で躱せる。そう予想しながら、敵から飛んでくる拳を見定めようとした。
が、またファルコンは壁に叩きつけられた。今度は手から水を直接噴射してきて、回避する間もなくクレーターに磔にされた。数秒放水を受けたのち、その場に崩れ落ちる。蒲田は何も言えず、呆然としていた。
「ふっふっふっどうです」
ウォーターは水が滴るガントレットを稲見に見せつける。
「前回の戦闘で動体視力が高いことはわかってます。だけど見えない攻撃、見えても対処できない攻撃にはどうしようもなさそうですね。目の良さに頼ってると負けますぜ?」
「ぐ……俺は……俺は……!」
「だから大人しくさっきの子と羽ペンを渡して……」
「縺代?縺。繧?s繧貞ョ医k繧薙□?∫オカ蟇セ?∽ス輔′縺ゅ▲縺ヲ繧りェー縺ォ繧りァヲ繧峨○縺ェ縺?%縺ョ縺セ縺セ縺倥c縺ゅ>縺、繧峨?繧ゅ?縺ォ縺ェ縺」縺。繧?≧邨カ蟇セ豁「繧√k雖後□雖後□」
ファルコンから発せられたのは音とも声とも区別がつかない何かだった。言い終えると、彼の全身に文字が浮かび上がり、彼のものでは何い声がした。
<コンクルージョン ファルコン>
「あ」
ウォーターが振り返ると、空に無数の黒い影が見える。隕石だ。
視線を外した瞬間を狙って、稲見は蒲田を抱き抱え、空へ飛翔した。
「いや逃げるなって!あーもー!」
バケツ状のパーツに付いたボタンの一つを押し、誰かと連絡を取る。
「俺俺!アレアレ!アレ頼む!」
「しゅーちん!どうしたのしゅーちん!?」
「安心して。けーちゃんを傷つける奴らののさばる大学なんて俺が潰してやるから」
構内に、赤熱した無数の閃光が降り注ぐ。激突する轟音の切れ目に悲鳴とサイレンが聞こえる。
「今朝はごめんね、この隕石特定の人に当てないようコントロールできなくてさ、悪かったよ。でももう大丈夫。これからはずっと守ってあげるからさ」
そういいながら、二人の元へ落ちてきた隕石を拳で粉砕する。
「しゅーちん……お願い、やめて。こんなのしゅーちんらしくないよ……」
泣きそうになりながら訴えるが、表情の変わらないヒエロの顔では通じたかどうかわからない。ただ毅然と押し黙っているだけだ。
「誰か!誰か!」
その時だった。一瞬大きく揺れたかと思うと蒲田の身体は宙に放り出されていた。自由落下する彼女を何かが追いかけ、その腕を掴んだ。
「しゅ、しゅーちん……?」
稲見ではなかった。ゼリーのような柔らかい感触の手、その主は今し方ファルコンと戦っていたウォーターだった。
「嫌ー!離してー!」
ウォーターは手を離した。叫びながら落ちる蒲田を、追いかけてもう一度掴んだ。
「嫌じゃないんです?」
「かおりんみたいに殺す気なんでしょ!?」
「かおりんって、さっきぶっ飛ばしたあの人?あれはヒエロですぜ?」
「そ、そんな訳……」
「生身の人間がコンクリートを突き破れる訳ないでしょ!んなことしたらペシャンコですよ!ペシャンコ!ヒエロになってて壁がぶっ壊れた直後に変身解除されたから無事だったんですよ!」
蒲田は言われてから気がついた。何も言い返せず黙り込んでいると、ゆっくりと地面に降ろされた。
「それじゃあおたくの彼氏さんシバいて来ます。終わるまでそこの避難口に隠れといてくださいね」
そう言い残すとあっという間に空高くへ。蒲田は唖然としながら空を見上げることしかできなかった。
「どこだ!?どこへ落ちた!?」
突撃で怯んだファルコンが立て直し、下方に落ちていった蒲田を探し回る。そこへ上に回り込んだウォーターがさらに追撃、もう一度吹き飛ばした。
「さあチキン、年貢の納め時ですぜ。今朝はコレがメンテ中だったんでね」
踵で自分が乗っている箒を小突く。箒型飛行ユニット、バトルホーキは威勢よく火を噴いた。
「貴様か!貴様が突き落としたんだな!」
「ああ、あの人ですか?助けたから大丈夫……」
「嘘をつくな!よくもやりやがったな!」
全身の文字が一層輝きを増す。それに合わせて半径100mはあるであろう隕石がファルコンの前に現れる。
「潰れて死ね!」
迫り来る隕石に対し、ウォーターはホーキで突っ込む。その途中、手元のニコーズを左手で叩くとその側面から水が溢れるように流れ出始めた。
隕石がウォーターのいた地点を通過。するとホーキだけが隕石を貫通し、ファルコンに襲いかかってきた。距離に余裕がある。簡単に躱せる。
彼の視界いっぱいが水色の怪人で塞がる。何が起きたか、ファルコンには一瞬理解できなかった。
ぶつかる直前に隕石を飛び越えたことで、岩塊を突き進んで遅れていたホーキより先に辿り着いたのだ。
認識した頃には手遅れだった。ニコーズから爆発したかのごとく大量の水が放出。地上からは無から滝が生まれたように見えた。
ファルコンの身体は水圧に耐え切れずバラバラになった。地面に落ちた破片は一斉に爆発し、その跡には五体満足で弱り切った稲見がいた。
「これで終わりかな……」
遅れてブルーマーに乗ったウォーターが降りてきた。満身創痍の彼の元に歩み寄り、近くに砕け散った羽根ペンがあるのを確認した。
「よーしよしよし、ちゃんと倒した」
ニコーズに差さっている羽根ペンを取り出すと、ヒエロの身体が箱の中に吸い込まれ、中から本体が現れた。神京大学の学生、野富良蓮だ。
欠片を嬉々として拾い集める野富良をよそに、蒲田が彼氏の下へ駆けつけ、上体を抱き抱ええた。
「しゅーちん……」
「ごめん……本当にごめん……」
「お取り込み中のところすいません。佳織って人どこに行きました?」
野富良が二人に尋ねる。見渡すが、どこにもいない。
「おかしいな……あの距離で倒されていないはずはない。まさか………」
野富良が何かに思い当たったのと同時に、稲見がつぶやく。
「……あのサークルには絶対に近づかないでくれ……」
「え?」
「ん?」
力尽きたのか、それ以上言う前に気絶してしまった。警察が到着するまで、彼女はずっと稲見の名を叫び続けていた。
感想や誤字脱字の指摘があると幸いです。