私たちの原点、灰色の町
本日は4話一挙にアップします。
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叡聖歴1956年、一般的な意味で特別な年号ではないけれど、私にとっては大切な年だった。
あの頃、国民は決して豊かではないけれど、経済は上向きで皆訳もなく未来は良くなると信じていたし、まだ情に厚く近所づきあいがあった時代だった。
色んな道具が裕福な家庭にはだいたい普及し終り、一般家庭にもちらほら普及し始めて、皆がやっきになって様々な家電を手に入れようと頑張っていた頃だ。
どの家の主婦も冷蔵庫を手に入れたがったし、もし冷蔵庫が手に入ったら次は電気洗濯機って感じだったなぁ。
電気は普及しているけれど家電はまだまだで、巷の人々の生活は素朴だった。
首都とか大きな都会では違ったとは思うけど、私が住んでいた国内第二の都市の郊外、そこのおじさん達はワイシャツやポロシャツなんて洒落た物を着ておらず、丸首の白い下着のシャツにズボンとつっかけ、そして腰のベルトには手ぬぐいがぶら下がっているところまでがデフォと言えただろう。
お父さんによると私たちが住み着くほんの数年前まではこの辺りはぺんぺん草が生えていて、人がたくさん住むなんて誰も想像もしていなかった場所だった。
でも、国全体の経済が上向いて来て人口が田舎から都市に流れ込んで行き、昔はほとんど建物の無かったこの辺りまで、のっぺりしたコンクリート丸出しの集合住宅が何軒も建って団地を形成していたのだ。
これには鉄道やバスなどの交通網の発達が関係していたと思う。
私達の町、礫里地区には当時鉄道は無くバスだけだったけどね。
同じ様な建物が何十とあり、コンクリートの灰色が目立っているんだよね。
だから灰色の町。
我ながら良いネーミングセンスをしていると思うよ。
ウチはその集合住宅12号館の1階にある食堂で繁盛していたし、父さんは今でもそこで食堂を続けており、もちろん繁盛している。
お父さんの料理は美味しいからね。
この団地の集合住宅は4階建てで外階段が建物の右と左に一つずつあった。
各階に4軒の住宅があり、一つの階段の両脇に1戸ずつ配置されていた。
ウチは1階の2つの外階段に挟まれた2軒分を店舗に、その隣、一番左の1軒分をウチの居住スペースとして使っていた。
つまり3軒分を一気に購入し、食堂に改造したのだ。
右側の階段の向こう端が管理人室で、年寄り夫婦の管理人さんが住んでいた。
12号館には管理人さんが居たけど、11号館から15号館までを担当していたので、11~15号館で管理人室があるのはウチの建物だけだった。
隣の11号館の1階には4つの店舗が入っていた。
食料品店、古着屋、散髪屋、雑貨屋だ。
これらの店舗のスペースは小さく、店の奥が各店舗の持ち主の居住スペースとなっている事に比べると、ウチの店のスペースはとても広い。
そしてそんな広さにも関わらずいつも繁盛していた。
昼間は麺を中心に、夜はこの辺りには飲み屋が無かったので飲み屋に早変わり。
と言っても都会にある様な綺麗な女の人がお酌してくれる店なんかじゃない。
美味しいツマミを食べながら、仲間と飲む、まぁ、所謂居酒屋だね。
ウチのお父さんの料理はほっぺたが落ちるくらい美味しいからねぇ。
当時、私は5歳で幼稚園に通っていた。
幼稚園にはこの辺りの5歳以上の子供たちが全員通っていた。
12号館には小学生はいても、幼稚園児は私だけだ。
でも11号館と13号館には同じ幼稚園に通っている子がいる。
マリちゃんとハナちゃんだけれど、ただ、あんまり気が合わなかったんだよね。
残念ながら。
なんかナヨナヨしていて、おままごとしかしないんだよ。
それに、偶に私を入れてくれても、父親役しかさせてくれなかったしね。
おままごとでお母さん役以外、何が楽しいの?ってもんでしょ。
だから、幼稚園から戻ると私は大抵お父さんのお店の中で遊んでたよ。
そうじゃなかったらお店の前の道でチョークを使ってお絵描き、さもなければ目の前にある団地専用の公園のブランコが私の定位置。
ただ、ブランコは人気があったから、ずっと乗るとか出来ないのが玉に瑕なんだったんだよね。
それが当時の私の日常。
色んな物があって、同時に色んな物がまだ揃っていない灰色の町。
礫里地区、私たちが幼少期を、そして青年期を過ごした町。
懐かしくとても愛おしい時代だった。
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叡聖歴1956年 礫里地区
「あのぉ、上の階に越して来たヤマと申します。近くの瓦工場に勤める事になりました。こちらは妻のソルと息子のガオです。これ、つまらない物ですが、よろしくお願いします」
ある日、ウチの上の階に引っ越してきたと言う一家がウチの食堂に入って来た。
お引越しの挨拶餅を持って来たのは背の高いごま塩頭、そのおじさんはとてもゴツイ顔で手がとても大きい、そしてこの辺では見かけない様な都会的なスレンダー美人さんと、これまた都会的な黒目黒髪の私くらいの男の子を連れていた。
う~ん、この引越餅は手作りじゃなく、11号館の食料品店で売ってるやつだ。
これ、あんまり美味しくないんだよなぁ~。
2点減点かな~。
「これはこれは、ご丁寧に。ウチはご覧の通りのしがない食堂で、私はタオ、ウチのはミナ、そしてこの子はタマ。あっちのベビーベッドの中で寝ているのが次女のミル。タマは5歳なので幼稚園なんだけど、そちらのガオちゃんは何歳なんだい」
「ああ、ウチのガオは4歳です」
「幼稚園は?」
「ええ、通わせようと思っているんです」
この辺りは共働きの家が多いので、本来なら5歳から通い始める幼稚園も前倒しにして3歳、4歳から通わす家があるんだよね。
だからお父さんはガオの幼稚園について尋ねたんだろうね。
「明日もウチのがタマを幼稚園へ連れて行くので、良かったら一緒にどうかな?」
「ええ、お願いします」
ごま塩頭のおじさんは嬉しそうに頷いたけれど、都会的美人のソルおばさんはずっと眉間に皺が寄ったままだ。
グレーの髪に緑っぽく見える灰色の目。
美人だとは思うけれど、ちょっと険のある顔つき。
ウチの店に入ってからずーっと気難し気な顔を一度も崩していない。
胸は無いけど所謂モデル体型なので洋服が映えるからか、着道楽っぽい洒落た服を着ている。
オジサンの服はその辺の男の人と同じ冴えない服装なのに、自分と息子の服だけはパリっとした服だ。
私が最初にガオに会った時の印象は都会的なハンサムなんだけど、4歳の男の子にしたらとても大人しいって事も印象に残った。
この辺りの男の子たちは角刈りっぽい髪型の子やあっさり坊主も多い。
そして一日中駆けずり回り、何より五月蠅い。
でも、ガオは黒い長髪で、着ている服もきちんとしている。
ニコリとも笑わないし、挨拶の時もちょこんと頭を下げただけだ。
まぁ、大人しい子の方が御しやすいからいいんだけどね。
それにしても顔が良いからマリちゃんやハナちゃんがキャピキャピ寄って来そうだなぁ。
※つっかけ⇒サンダルの関西地方の言い方。アジアン風の架空の町なので関西は関係ないんだけれども、首都ではなく第二の都市郊外というのを強調したく、サンダルではなくつっかけにしました。