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異世界恋愛(要素を含む)の短編

堅物侯爵令息から言い渡された婚約破棄を、「では婚約破棄会場で」と受けて立った結果

作者: 有沢楓

「ミルドレッド嬢、君との婚約を破棄させてもらう」


 ついにきたか。

 子爵家令嬢ミルドレッド・ファラーはとび色の瞳で、8歳から婚約者であった青年を見つめた。

 侯爵家の次男であるテレンス・エインズワースは同い年の17歳。

 国を興した由緒正しい四騎士の血統に連なり、本人もまたそれを誇りに思い、騎士としての将来を期待されている青年。実際に彼の盾には、一人前の証として家の紋章“熊と剣”を描くことが許されていた。


 切れ長の青い瞳が涼やかな顔立ち。さらりとした銀髪を長く伸ばして組紐と編んでいるのは、エインズワース家に伝わる古い騎士の誓いだそうだ。

 先祖たる北方の民族に多い白い肌と長身の体躯に、服の上からでも見て取れる引き締まったシルエットは鍛錬の賜物だろう。今立っている学院高等部の優雅な廊下よりも、訓練場の土や城の石積みが似合う。


 性格も真面目すぎるきらいはあるものの、浮ついたところがない。両親も兄弟も人格者と評判だ。

 だから優良物件だと、女子生徒から親しげに声を掛けられているのを見かけたことがある。

 だが、彼は笑わないし、婚約者がいるからと女子生徒とは1メートルは距離を保って会話する。


 ……いや、正確には笑わなくなった、だ。

 それは婚約者のミルドレッドに対しても同じで、中等部に進学して以降は笑った顔を見たことがないのだ。

 とはいえとび色の髪に瞳という平凡な色。淑女らしい趣味もなく気の利いた会話のひとつもできないミルドレッドは、子供の頃だってろくに彼を笑顔にできた記憶がない。女生徒が声をかけるのも愛のない政略結婚だと誰の目にも映るから。

 だからつまらない女との不本意な婚約に不自由な思いをしてついに心を閉ざしたのだと――だから今年になって会う回数が有意に減ったのだ、とミルドレッドは感じていた。


「……そうですか」


 笑顔どころか決意を秘めた顔に応じながら、ミルドレッドは、意味のある会話をしたのはいつぶりだったろうと思い出そうとして、やめた。


 まだ幼かった初等部までは、それなりの友好関係を築けていたと思う。

 中等部に入ってから、あからさまに距離を取られ始めた。特に物理的には少なくとも半径50センチ以内に近づくことはない。入ってしまいそうになったらすかさず離れる。

 たまのパーティーも不参加か、共には行かない。ミルドレッドは実兄が、テレンスも実妹だけをエスコートしていた。


 それでも両家が取り決めた顔合わせのノルマはちゃんとこなし、イベントごとには花やプレゼントは贈ってくれた。

 花は薔薇や百合などだけでなく野草や雑草も取り混ぜての奇妙なもので、プレゼントはどうも妹や母親が選んだものを、使用人によって届けられるだけだったが。


 高等部に入るとその顔合わせが月に2回になり、それも急用などで断られることが増えた。

 せめて会話だけでもとたまにお茶に誘っても、鍛錬を理由に断られる。

 実際、口実をつけて屋敷を訪ねてみたら、走り込みや剣の稽古ばかりしているのをこの目で見た。侯爵夫妻・ご兄弟・使用人全ての証言も得たので、間違いない。

 要するに、彼の日常にミルドレッドの存在は不要なのだ。


 ――そんな中、ここひと月ほど急にテレンスの笑顔が増えたと、クラスメイトの彼の友人が、ミルドレッドに伝えて来ていた。

 結婚する気持ちがとうとう決まったのか、とニヤニヤたずねられて返してしまった無の表情に、悟らせてしまったようで謝られたが。


「驚かないのだな」

「はい」


 こうなるのではないかという予感はあった。

 ここ数年、王都の学院では婚約破棄の嵐が吹き荒れていた。

 堅物な彼でも、いやだからこそ、そのような生き方があると感化されたのかもしれない。真面目な人ほどタガが外れるとすごいのだと小耳にはさんだことがある。

 特に今年は名だたる貴族の令息令嬢たちが「真実の愛」や「自由」を求めて次々に婚約破棄を叩きつけ、今年で成立は9件になる。

 ――そして栄えある10件目がこれという訳だ。


「破棄は承りますが、条件につきましてご希望は」

「破棄についての話し合いだが、一週間後でどうだろうか。家を挟まず学院で行いたい」


 ミルドレッドは、久々に彼が二文以上続けて話したのを聞いたな、と思った。

 ふうと息を吐くと、鞄の中から運悪く……いや運良く持ち歩いているファイルから一枚の用紙を取り出した。

 通りかかると婚約破棄を言い渡しそうな現場に出くわしてしまうから、すかさず渡すために持ち歩く癖がついてしまった。


「ではこの婚約破棄会場の利用申請書に、希望の日時を記入してください。会場の予約開始はひと月前からですが、その日は丁度、空きがあります。もしもっとお早めが良いなら……」

「いや、君がいいなら、それでいい」

「承知しました。でももし、急に婚約破棄したくなった場合、お急ぎコースには別途会場を利用するためのオプション料金がかかります」


 ミルドレッドが説明すれば、ここでたいていはすぐさまタダで、好きな場所で婚約破棄したい側に嫌な顔をされるのだが、堅物婚約者は申請用紙を受け取って、生真面目に頷いた。


「そうか。本当は今すぐでもいいくらいだが、君にも準備があるだろう。……では急で済まないが、それまでに弁護人を選んでおいて欲しい」

「いえ、流れは分かっています」


 ――やはり私が何度、風紀委員として破棄被害者の弁護に立ったかご存知ではないのですね。


 諦めていたつもりだったが、久しぶりの会話が婚約破棄であることに少なからず動揺していたらしい。

 そんな皮肉を言いそうになって、ミルドレッドは別の言葉を、ギリギリ皮肉にならないかもしれない、程度の言葉を口にした。


「テレンス様はとうに選ばれていたのですね」

「……いや、わたしには必要ない」


 何故だろう、とミルドレッドは思う。

 今までの経験上、言い出す側はそれなりに計画的で、有利な条件を勝ち取るために準備していたのに。


「……ではまた」

「さようなら」


 たん、と床を鳴らして姿勢よく踵を返す青年の背を、ミルドレッドは唇を引き結んで見つめた。そうして、


「何故毎回『ではまた』などと言うのかしら。ろくに『また』があったためしもないのに……」


 誰も聞いていないのをいいことに密やかに悪態を吐くと、きたる申請に備えるために風紀委員の委員会室へと向かった。



***



 貴族間の婚約が大よそ政略的に両家の間で取り決められる契約であれば、破棄もそうでならなくてはならない。

 ――というのが今までの一般的な“常識”であったが、近年子どもの権利の拡大が何やらとかで婚約の無効化や破棄が、本人でも可能になった。

 そこにきて身分性別を問わない平等な教育のため、共学の学校まで建てられるようになったのだから、自由に異性と交流できるようになった子供たちが「大人の事情など知らん」と言い出すのも当然のことだ。

 だからこの学院に入れる貴族の親たちにとっても、婚約破棄はある程度親の想定内に入りつつあった。


「とはいえ、多すぎですよねえ。それにあの真面目が服を着て歩いているような人が、政略結婚の破棄を自分から言い出すなんて。何の影響ですかね、悪いものでも食べたとか?」


 風紀委員会に割り当てられた趣味のいい一室。

 ソファの上で書類のチェックをしつつ軽口を叩く子爵家令息の後輩・カインに、ミルドレッドは書類の必要事項を確認しつつ頷いた。

 小柄で可愛らしい顔立ちの彼は口数も多く、テレンスと正反対で話しやすい。

 それに代々の委員長の「(取り締まられる・取り締まる側の)風紀は実家の爵位と関係ない」という方針によって、この場所は良い意味でも取り繕う必要がなかった。


「最近笑うようになったと聞いていたから、何か大きな変化があったのは間違いないと思うけど」

「本当に心当たりないんですか」

「残念ながら……もう残念という気持ちもほとんど残ってないけど……そう、思い付くのは……笑顔の鍛錬」

「鍛錬?」

「式典で笑う必要があるとか、子どもとの交流会でにらめっこをするから負けるためとか? それとも好きな人でもできたとかね。好きな人の前ではカイン君も笑顔でしょう」


 カインには幼馴染のとても仲の良い婚約者がいて、刺激が最近足りないとか言いながらも毎日揃って昼食をとっているのを知っている。


「女っ気のないエインズワース先輩が? ミルドレッド先輩以外の女子に自分から声をかけたところ見たことないですよ」

「……なら、恋愛小説にでも感化されたとか。女子の間で大流行していて、婚約破棄件数の上昇の原因の一つだと、先月アンケート調査で出ていたしね」


 続けられる、年頃の女子にしては悲壮な想像に、慌てたようにカインが声を上ずらせる。


「ああ、もしかしてあの『男爵令嬢のどきどき成り上がり! 婚約破棄は慰謝料を添えて』のシリーズですか?」

「『男爵令嬢の成り上がり! どきどき』……ええっと、何……そんなタイトルだったの」


 ミルドレッドの興味は専ら実用書や図鑑や旅行記で、小説はほとんど読まない。


「男子も読んでるんですよあれ。主人公の男爵令嬢が魅力的なのはもちろん、振り回される当て馬男子たちにそれぞれ女子生徒のファンが付いてるので、研究するんだっていって。でもエインズワース先輩がそんなの読むかなあ」

「カイン君、詳しいね……ああ、そうか」


 風紀委員として取り締まる方なせいか、クラスメイトともそういう「学業に不要なものを持ち込む」回し読みの場からはそれとなく外されている。

 でも普通は婚約者とそんな話もするだろう。

 ミルドレッドがテレンスとここ数年そんな他愛無い雑談をしたのは――思い出せないということは、ない、ということだ。


「……いえ、笑顔の原因は逆で。何かがあったのでなくて、なくなったから。婚約破棄するハードルが下がっているから――遂に破棄できるんだって笑顔なのかもしれない」


 笑顔を作るミルドレッドにカインが気の毒そうな視線を向けると、


「これは逆にチャンスなんじゃないの、ミーちゃん?」


 ローテーブルを挟んでその反対側で、茶菓子を無限につまんでいた先輩、オリアーナがのんびりと言った。

 美しい顔立ちと風紀委員長という立場、何より侯爵令嬢という肩書きに相応しくないくしゃくしゃの紫がかった髪がばさりと広がる。これは天然モノで、曰く地毛の生徒たちを守るために必要らしいが、だらけている姿を見るとやや疑わしく思える、そんな先輩だ。


「委員長。その猫のような呼び方はおやめくださいと前から」

「テレンスに直接聞けるじゃない、何で婚約破棄するんだって」

「……」


 正直なところ、聞きたくなかった。

 いつの間にか会話が続かず会うことも避けられ続ければ、疲れてしまったのだ。


「どうせこのまま破棄をしなくとも、良い関係など築けそうにありません。ならば理由などどうでも良いでしょう」

「いや、良くはないでしょ。こっちの有責になったら困る」

「いえ、私に特別な非がない限り非難も慰謝料の請求もされないでしょう。

 もし好きな方ができたとして、流行の小説は、その――『慰謝料を添えて』? のようなタイトルからすると、婚約破棄をする方が慰謝料を支払う話なのでしょう。読んでいたら、むしろ頭から信じて実行する可能性があります。

 そんな風に一方的に慰謝料を払われる、勝手に幕引きされるというのも嫌ですので」

「変な信頼はあるんだね」

「過ちをごまかしたところは見たことがありません。自分の失敗が他者のせいになりそうなら、誤解を解くため名乗り出るような方です」


 いやいや、とオリアーナは肩をすくめる。 


「今までの対応を考慮してさ、出来る限りむしりとってやればいいのに。知っての通り婚約破棄の決闘なんて一部じゃ呼ばれてるんだよ? 今までの破棄の弁護だってさんざんやり合ってきたんだから、遠慮なしでいけるでしょう」


 うつむくミルドレッドに彼女は「それにさ」と続ける。


「遠慮するなら受けなきゃ良かったのに。ご両親に報告して両家で解決すればいいでしょ」

「私から利用申請書をお渡ししました。テレンス様がそう望まれたので何か理由があるのだと」

「望んだ? あのテレンスが?」

「はい。『破棄についての話し合いだが、一週間後でどうだろうか。家を挟まず学院で行いたい』と」


 ミルドレッドが彼の言葉を再現すると、オリアーナは唸った。


「うーん、そうか、それは……なんか違う気もするけどなあ。会場でしなくてもいいって言ってるとも解釈できる」

「どちらにしても、私たちには立会人がいた方が良いと思います。

 そして風紀委員としても、今後の私の婚約のためにも、円滑円満な婚約破棄は目指したいです。

 それに、副委員長が婚約破棄会場を利用したと評判になれば、利用率をさらに高められそうですよ」


 その言葉に、カインが資料をテーブルにばさりと置くと、心配そうな、呆れたような目を向けた。


「副委員長が婚約破棄されて身をもって治安維持に貢献するって、見世物じゃないですか」


 もっともだとミルドレッドは思うが、これも次善の策なのだ。


 婚約破棄と言っても、昔はひっそりと生徒二人きりで話し合われていたらしい。

 しかし周囲を味方にしたい、証人も欲しい、という生徒たちが増えたのか、昨今風紀の乱れは著しかった。

 たまに開かれる学院内のパーティーやイベント後、校門などで衆目を集める形で行われており、たびたび行事が滞ったり、授業や通行の邪魔になった。


 そこで風紀委員会は、学院は生徒の自治の裁量を大きさをいかして、婚約破棄の会場を校内に用意して運営を始めた。

 これは互いの実家の力関係による不当な圧力がかからないよう、経緯を両家にも文書で提出して生徒を少しでも守る意味もあった。

 理不尽な婚約破棄にショック受けた生徒には弁護人が付き、友人などで相応しい人物が誰もいない場合などには委員が弁護をする――ので、ミルドレッドも買って出ていた。

 事前の申請があれば証人も採用できる。

 そしてもちろん傍聴席。


「……どうせ侯爵家の令息が婚約破棄をしたなんて噂、すぐ広まります。一方的に婚約破棄された女だと噂が広まるくらいなら、正々堂々と受けて立ちたいんです。そして公正公平中立な場を、あなたの思い通りになんてさせないってテレンス様に」


 その返答に、カインは首を緩く横に振った。


「……気持ちは分かりましたけど……」

「まあまあカイン、見世物になんかさせないよ。その日はこっそりやるからさ」

「こっそりってどうやるんですか」

「そりゃあ、立会人の欄にわたしの名前を書くからさ」


 そうカインに言いながら、合間合間にナッツのクッキーを放り込む姿を見ていればミルドレッドは覚悟を決める。

 オリアーナはテレンスのエインズワース家とは親戚関係に当たり、テレンスと初めて会ったのも彼女主催のお茶会でだったから多少なりとも責任を感じているのだろう。


「お心遣いありがとうございます」

「ま、多少の目撃者がいた方がいいから、当日はカインもおいで。あと信用できそうな友人を呼んでもいいよ」

「傍聴者を立会人が操作するってどうなんですか」


 カインが首を傾げ、オリアーナは苦笑する。


「もし厄介事が起こった場合に備えてね――さ、ミルドレッド。手伝うから紙をちょうだい。あいつの行動を知ってるだけ書いてあげるからさ」

「……親戚だからですか?」

「そうそう。でも気にしないでいいよ。あいつに比べたらわたしの把握してる行動なんて可愛いもんだから」



***



 一週間後の夕方、婚約破棄会場の外に使用中の札がこっそりとかけられた。

 傍聴席にはカインとその婚約者のふたりだけ。校舎の端にあるため通りがかりに見に来る生徒は他にいなかった――誰も口外しなかったから。人目を集めたい場合には、たいてい本人が宣伝するのだ。


「いやあ、今になって婚約破棄を言い出すと思わなかったよ、テレンス?」


 オリアーナは最奥のまるで裁判官席のような教卓の向こうから、教室中央に立つテレンスに声をかける。命令を待つ騎士のような風情、こんな場所でも絵になる。

 テレンスから1メートルは距離を置いてミルドレッドも立っていたが、彼女は平凡過ぎて距離も遠すぎて、他人にしか見えないなと冷静に考えた。


「……」

「返事は、テレンス?」 


 ミルドレッドは、きっとオリアーナの揶揄では表情を変えないだろうと思っていたが、彼は意外にも柳眉をひそめた。


「もう互いに子供ではない。妻となる人以外にその名で呼ばれたくはない」

「だってさ、ミーちゃん」

「その名で彼女を呼ぶな。……全ての生徒は紳士淑女として扱うべきだ、と校則にある」


 彼の言い分では婚約者も単なる女生徒のひとりの扱いだ。淑女らしい扱いをしてもらったかはなはだ疑問だけど――とミルドレッドは思った。が、一理ある。


「確かに立会人が馴れ馴れしいのは、風紀委員会への信用を損ないます」

「先輩、立会人が煽らないでください」


 ミルドレッドと、傍聴席のカインから指摘が飛ぶと、オリアーナは「ついつい、ごめんね」と笑う。

 

「……じゃあ、二人とも席について」


 オリアーナの言葉で二人は背を向け合って反対方向に動く。

 立っていた中央のスペースを挟んで両側に長机が用意されており、二人はそれを回り込んで向かい合った。

 テレンスの方は学院の制服をピシッと着こなし、騎士見習いらしい無駄のない動きには威厳がある。

 が、ミルドレッドも今日は負けていない。手に、気合を入れるための扇を持っている。少々重いのは、風紀委員会用の骨が鉄でできた特別製だからだ。それを開くと口元を隠した。


「……双方、名乗って」

「テレンス・エインズワース、高等部二年」

「高等部二年のミルドレッド・ファラーと申します。風紀員会で副委員長をしております」


 双方を一瞥してから、オリアーナはテレンスを見た。


「婚約破棄を申し出たのはテレンス・エインズワースさんで間違いないね」

「……ああ」

「ああ、でなくはい、と言ってもらおうかな、エインズワースさん」

「……はい」

「うん、いいね。……まずは婚約破棄をした理由を書類に記載することになっている。聞かせて欲しい」

「婚約破棄したいからだ」


 無表情の即答。ミルドレッドも、傍聴席のカインとその可愛らしい婚約者も秒で無表情になる。

 そしてオリアーナも、即無表情で言葉を返した。


「理由になってないなあ」

「婚約破棄が目的だ」

「知ってると思うけど……婚約は契約、責任が発生するからね? 一方的な要求なら慰謝料も。相手や両家に迷惑かけてまで婚約破棄したいほどの理由が、普通はあるもんなんだよ」

「分かっている……ます」


 テレンスは無表情のまま言い直す。が、


「そこまでして破棄したいとは、不本意な婚約だったということですね」


 ミルドレッドが聞けば、決意を込めて深く頷いた。


「……その通りだ」

「分かりました。では婚約破棄の際に求める条件があれば紙に書いて提示してください。まずそれから検討します」

「話し合いは」

「まどろっこしい言葉のやり取りは不要です。今更何を期待しろと。あくまで私は第三者を通して風紀を守るために受け入れただけです」


 婚約者の体裁を取り繕う必要のなくなったミルドレッドが言い放てば、何故かテレンスは慌てたように口ごもった。


「い……いや、今日わたしが来たのは、第三者を挟んだ上で話し合いをするつもりだからだ」

「ここは条件を整理する場所です」

「君がここを希望したので同意したまでだ。……その、もっと話し合いを」


 まるで彼女が早とちりしたみたいな言い方をする――とミルドレッドは眉をひそめた。テレンスにとっては実際そうなのかもしれないが、そもそも話し合いなどしてこなかったのだから責められるのはお門違いだ。


「あら、エインズワース様ってお話しできるんですね」

「む。……それは、口が付いているからな」

「あまりにお話しなさらないので」

「口の筋肉は確かに衰えがちだが、鍛錬の時は掛け声も出す。……こういった場では仕事と思えば君にも話すことができる」

「仕事」


 ミルドレッドは言い直して、にっこり笑った。

 ついさっき向き合うまではすり減った感情を無にできる、と思っていたが、だんだん腹が立ってきた。


「そんなにお嫌でしたか、気付かず済みません――と言いたいところですが、でしたらもっと早く仰ってくださればいいのに」

「早く、とは。……婚約破棄すれば良いということに思い至ったのは今年に入ってからだ。……君こそ先ほどから雰囲気が違う」


 あのねえ、とオリアーナが口を挟んだ。


「ミルドレッド――こほん、ファラーさんが婚約者に放置されて退屈だろうと、風紀委員会に誘ったのは私だよ。生徒間で何かあったときにきっぱり言えない子なら誘わない」


 口元を扇で隠しながら立つミルドレッドとは逆に、テレンスは長机に手を置いて何かためらうようだった。


「……そうか」

「それで……今年に入って何があったの? 他の人が婚約破棄をしているから? 小説にでも影響された?」

「多いから目立たないだろうという気持ちは多少あったが、それは関係ない」

「婚約者が嫌いになる何かがあった?」


 テレンスはきっぱりと首を振ってから傍聴席のカインに目を向けた。


「ありません。ただ、そこの後輩とはずいぶん親しげに話したのを見たのが、大きなきっかけではありましたが――」

「――異議があります!」


 ミルドレッドは扇をパシン、と左手に叩きつけて畳むと、びしっと扇の先をテレンスに向けて突き付けた。


「後輩は部屋で二人きりになることはほぼありません。委員の証言者はいくらでも得られます。その発言は私が浮気しているような印象操作になっています」

「む」

「また彼は見ての通り婚約者と大変仲が良く、二人の仲を割くような不用意な発言は慎んでください」


 場の気迫に押されたのか、カインの婚約者は彼の腕を取っている。幼馴染の気安さと信頼ゆえだろう。どこからどう見ても仲の良さしか感じられない。


「しかしカイン君……などと。わたしは婚約者として女子生徒とも君とも適切な距離を保っているが、君自身はそうでもない」

「仲の良い後輩にファーストネームで呼びかけることは学院では一般的な行為です、それをもって浮気とは言えません」

「わたしは浮気をしているなどとは言っていない。当然だ、君に他の男性の影がないことは知っている」


 オリアーナが口を挟む。


「自分が潔癖だからって他人にそれを無言で強いるもんじゃない。

 中等部に入ってからのその態度は、婚約者と話したり近づいたりしちゃいけない呪いでもかけられてたってんじゃなきゃ普通納得できないでしょ。

 もし婚約破棄をしたいのなら『お願い』するしかないよ、エインズワースさん」

「……む、もしそうなら、自分の勝手で彼女を傷つけて済まないと謝罪を……」

「謝罪は不要です」


 ミルドレッドはきっぱりと言ってから、それよりも彼が思ったよりも饒舌であることに驚いていた。


「……逆に君は、わたしの浮気を疑わないのか」

「あなたの行動をおおよそ教えていただきましたが、やはり全部鍛錬と勉学、それに何故か第三王子からの呼び出しに費されていました。過労死するかと思う程に。ですので仕事に生きたいのだと判断しました。

 そうですね、婚約者に無駄な時間を割きたくないでしょうね」


 トン、と扇の先で机を軽く突いてテレンスを見据える。獲物を追い詰めるような目だった。


「それに潔癖さが原因で、誰かと婚約すること自体が苦痛なのですね」

「違う、聞いてくれ。つまり――その――もう一度婚約するためには、破棄をしなければならないだろう」


 何故か顔を真っ赤にしているテレンスに、ミルドレッドは首を振った。


「それは勘違いを失礼しました。意外でしたが、ついに好意を抱く方ができたのですね。

 どなたがお相手か知りませんが、婚約などやはり8歳程度、ほぼ初対面の相手とするものではありませんね。

 学院の影響もあり、今後は婚約年齢の上昇がみられるかと思いますが……立会人、条件の記入用紙とペンをエインズワース様にお願いします」


 ミルドレッドがそう、話を進めようとした時だった。


「――待ってくれ」

「何をでしょうか」


 これ以上話し合う必要はないと、冷たい視線を向けるミルドレッドを、テレンスは真っすぐに見つめてくる。顔がいいとこういう時は得だな、とミルドレッドは思った。場の注目を引ける。


「……異議がある。君に初めて会ったのは、3歳の時だった」


 だが、思わぬところに異議を申し立てされて、ミルドレッドは不本意ながら間抜けな顔になってしまった。

 さっぱり覚えていないし、割と今どうでもいい情報なのではと思ったのだ。


「何かのついでで王宮に連れて行かれ、庭園で子供たちだけで遊ばされていた時だ。君は一際活発だったな。わたしは鬼ごっこで転んでしまい、負け、つい涙がこぼれてしまったのだ。騎士にあるまじき失態を」

「……3歳の幼児なら失態という程でも……」

「いや、父にひどく叱られたんだ」

「……そうですか」


 ミルドレッドが思い返せば、テレンスの父親ならありうる話だった。

 侯爵にして一時は騎士団を率いた団長であり、そしていわゆる熊のような大男だった。母親似のテレンスとは似ても似つかない。

 部下の騎士たちのことは愛情をこめて厳しく指導したと有名だったらしいし、両家揃ったときには息子たちに対しても同じ雰囲気は感じられた。


「その時君は、敗北したわたしに慈悲を――忠誠を誓う騎士の勝利に淑女が与える布を授けてくれた」

「……全く記憶にありません」


 ミルドレッドがちらりとオリアーナを見ると、その場にいたのだろう、彼女は頷いた。


「そういえば、一番近くにいたミルドレッドがハンカチ貸してたの見た。めちゃくちゃ泣いてたもん、あれ無視できる方がすごいよ」

「では、持ち逃げ?」

「……忘れているのは仕方ないが、ちゃんと君と、一緒にいた侍女の許可は貰ったぞ」


 ごそごそと制服の胸ポケットから取り出したものを見てミルドレッドは目を見開く。

 それは、その当時気に入っていた可愛いクマの刺繍が入った、小さなくたびれたハンカチだった。テレンスの両手より小さい。


「我が家の紋章でもあるクマの姿を見て、偶然とはとても思えなかった。わたしはその時、君に忠誠を誓った――優しい君を守れるような、強い騎士になると」

「3歳で一生を決めないでください、こわい」

「私の目指す騎士像は父であり、愛読書は騎士物語の絵本だった。

 毎朝毎晩、先祖代々の騎士物語を父に語られて、母には父の素晴らしい武勇伝を聞かされていた。そして騎士たるもの常に清廉潔白で、忠誠を捧げる女性を心の中に持っていなければならない、と」


 急に昔話を語り始めたテレンスに、その場の聴衆はここまでこじれた原因にもう察しがつき始めていた。


「婚約者であろうとも無暗に女性と接触するものではないと……だから50センチ以内に入らないように距離を取っていた。接触の可能性があるパーティーも避けていた」

「……会話もしていませんが……?」

「き……緊張して会話にならなかったんだ! 子供の頃はさほど気にしてなかったが、君はどんどん女性らしくなるし……」


 そう言えばテレンスの頬が更に赤く染まるが、ミルドレッドのテンションは逆に急下降していくばかりだった。


「……私は今、あなたに対するイメージがガラガラと崩れている最中です」

「しかもわたしは今、第三王子の護衛だの影武者だのの一人として目を付けられたらしく、学生なのに急な任務に呼ばれることがある。……人一倍危険な仕事だから、人一倍鍛えなければ死んでしまって――君とも死に別れだ」

「それで鍛錬を増やしていたんですね」

「……しかし最近、この態度は間違ではないかと、疑いを抱くようになってきた。

 というのも、浮ついたことはするなと言っていた父も、実は学生時代から母に熱烈なプロポーズを何度もしていたのだと、兄から聞いて……父への幻想が揺らいでいった」


 あの熊のような侯爵が何と言ってプロポーズをしたのか、彼女にも想像が付かない。

 ただ侯爵は確かに、年を重ねても美しさが増す侯爵夫人に対し、崇拝する淑女に仕える騎士のような振る舞いを良くしていたし、オシドリ夫婦であることは社交会ではよく知られている事実だった。


「君とは次第に会話もできなくなるし、今年に入ってからは君は後輩と仲良く話している。

 ――とうとう友人に相談すると、勧められたんだ。最近女子生徒に流行だという『男爵令嬢のどきどき成り上がり! 婚約破棄は慰謝料を添えて』を」


 真剣な顔から飛び出た似つかわしくないその書名に、やっと来たな、とミルドレッドは思った。

 昨日一巻だけは予習にと読んだのだが、流行だけあってなかなか面白かった。もし彼が書かれている通りに実行すれば、館のひとつでもプレゼントしてくるだろう、という点を除けば。


「そして第3巻『氷の騎士様の誓いは、永久凍土のように』には最近の新たな騎士像も描かれていた。騎士の忠誠は愛とは違う、と。女性には伝わらない、笑顔で愛を自ら告げる必要があると――」

「全タイトル覚えてるんですか、私読んでないですけど」

「だから婚約を破棄してくれ、ミルドレッド嬢」

「はい、今すぐに」


 だから、という言葉と婚約破棄が全く繋がっていない。

 分からない。さっぱり分からないが、いい加減疲れていたミルドレッドは頷くとオリアーナからテレンスへ手続き書類を渡してもらう。

 ちゃんと両者の条件や立会人のサイン欄があるものだ。


「私、慰謝料はいりません。今後なるべく接触したくないのでなかったことにしましょう、新たにできた好きな方には、素直になれるといいですね」


 ミルドレッドは扇を机の上に置くと、そっと息を吐き、テレンスに向けて軽く頭を下げた。


「それに……よく考えれば、なあなあにしてきた私にも非があります。親の意向と、子爵家と侯爵家との力関係だけを気にしていました。本心も話さず、あなたの本心を聞くことにためらいがありました」


 婚約者がいない令嬢など他にもいるのに、みじめな令嬢として扱われたり、そんな自分が風紀委員として信用を失うのでは、風紀委員会に迷惑をかけるかもなんて思ってもいた。彼に語ることなく。


「……それに、自分が無価値なようにずっと思って……いました。これ以上無価値だと思い知らされるのは嫌だったのです」

「……いやミルドレッド嬢、申し訳ない。そんなに傷ついているとは……」

「言っておきますが、恋心ではありません。エインズワース様でなくても、誰が相手でも同じです」

「……」

「ただ、本当に。そのままにしてここまで来てしまったのは私にも確かに、非があります。ひどい思い込みでした」


 オリアーナが首を振った。


「いや、ミルドレッドを放置しておいて素直になれないとかどうなのって思うよ」

「まあ、話しかけても応じてもらえなかったら頑張る気も普通なくなりますよね」

「学習性無力感っていうんだよ」

「そう、それです。……では条件を決めましょう」


 ミルドレッドの視線を受け、オリアーナがテレンスにペンを取るよう促した時。


「――まだ大いなる誤解をしている。ミルドレッド嬢」

「……はい?」


 テレンスの決意を秘めた声に顔を向けると、何故かもじもじと俯いている。正直似合っていないとミルドレッドは思ったが、それを指摘するほどには残酷な感性は持っていなかった。


「……その……3歳以降の話だ。あれからオリアーナ嬢のお茶会で、何度か見かけたんだ。

 野茨の合間でも駆け回る君が可愛らしいと話したら、浮かれた両親が勝手に君の両親に婚約を申し込んだんだ。今になって考えれば、侯爵家からの申し出を子爵家は断りにくかっただろうに」

「お気遣いどうもありがとうございます。次はご自身で婚約できるよう頑張ってくださいね」

「だから、違う……っ!」


 手を机に突き前傾姿勢になるテレンスに、ミルドレッドはしつこいな、という顔をあからさまにした。ポーズではなく、本心からそう思っている。


「何が違うんですか」

「だから、婚約するために破棄したかったんだ」

「だから今、婚約破棄をしますよ?」

「話すのに緊張していたと言っただろう。

 つまり、君と婚約するために、政略結婚でなくもう一度婚約を申し込むために。政略など関係なく、君を愛しているのだと、一生愛し抜く許しが欲しい。

 ――ミルドレッド嬢、わたしは君が好きだ! 今すぐ婚約して欲しい」


 会場に響き渡る告白。

 残響が消え去った後、会場に静寂が満ちた。

 ミルドレッドは耳を疑って、傍聴席を見た。カインと婚約者も呆然としている。


「え、……嫌です」


 ミルドレッドは淡々と、平常心よりも冷えた心で、ゆるく首を振る。


「何故」

「人前でサプライズのプロポーズとか私の趣味じゃありません。絶対無理」

「し、しかし君を目の前にすると緊張してしまって二人では話せない」

「そんなの知りません。さっきからそちらの都合ばかり」

「……ぐっ」


 息を詰めるテレンスは騎士というより、もう中学生くらいの情緒の少年に見えた。

 オリアーナは肩を竦め、立会人として口を開く。


「ねえエインズワースさん、分かったでしょう。あなたはファラーさんも身分差の圧を受けていたってことも、実は割ときっぱり言う性格なことも知らなかった。放置して傷つけていたこともね」


 次に彼女はミルドレッドの方を見やり、


「――で、ファラーさんも、政略結婚だからってずっと猫を被ってたし、エインズワースさんがどんな人だったか、やっぱり良く知らなかった。

 経緯もあったし自己評価が低くなってるのは分かるけど、これだけ真っ赤なの見たら少しは察しても良かったと思うよ」

「……そうだな」

「……はい」


 オリアーナは立会人らしく、先輩らしくいかめしく頷く。少々わざとらしかったが。


「ここはね、本来話し合いの場所なんだよ。話し合いっていうのは、お互いに妥協点を見つけるってこと――少しでもより良い方向に行くためのね。

 話し合いは1回で決まるわけじゃないし、何回でもしていい」


 オリアーナの言葉の余韻がかき消えてしまう前に、テレンスは軽く息を吐くとミルドレッドを見やった。そこにはもう羞恥も執着も残っていない。

 見返すミルドレッドはそこで、ようやくまともに、同じような平常心で彼を見られた気がした。


「……いや。婚約はやはり破棄しよう。それでいいだろうか」

「はい」


 淡々と尋ねられ、淡々と返す。

 さらさらと、書類にテレンスは名前だけをサインしてしまった。

 条件のところには何も書かれていない。


「……これは」

「好きな条件を入れるといい」

「軽んじられているようで最悪な気分です」

「……そこは君を信じている」

「私のことを何も知らないのに?」

「遠くから見ていた」


 はっとしてミルドレッドがオリアーナを見ると、呆れたように頷いた。


「……何かあるとずっと見つめてたんだよ。割と不気味だった、気付かなかった?」

「気付きませんでした。視界の端に入っても鹿のつもりで気にしないようにしていたので。……そうですね、これから気を付けます」

「いや……こちらも話しかければ済んだことだ。婚約者でも二人きりで結婚前の男女が話すのは良くないだろうと、勝手に決めていた」


 ミルドレッドはその言葉に、ペンを持ったまましばらく迷っていたが、結局条件には何も書かずにサインして書類をオリアーナに渡してから、


「エインズワース様は、ご両親のご意向は宜しいのですか。あなたのお気持ちを汲んで子爵家などと縁を結ぼうとしたのに」

「いや、君の子爵家の領地は、交通と商売の面で、かなりエインズワースにもメリットがもたらされるはずだったから、気にしなくていい」


 それはもっと悪いのではないかな、とミルドレッドは思うが、テレンスは損得など気にしていないようだった。


「ただ今までわたしは、兄のためにも家のためにも、立派な騎士である必要があった。父を尊敬していた――が、よく考えれば子の前でも母といちゃいちゃしていたな。あんな男、騎士としてどうかと思う」

「は、反抗期。……いえ、失礼しました」

「反抗期でもいい」


 テレンスがつい漏れてしまった無礼な感想にごく真面目に返したので、ミルドレッドはつい笑ってしまった。 

 しかしこの堅物――いやかなりズレている男が、婚約破棄をしようと自分で思い付いて実行したのだ。変わろうとは思っていたのだろう。

 少なくとも、今日は数年分一気に話している。


「どうも君に思うように話してもらった方が、自分がどれだけズレているのか分かっていいと思う。……侯爵家の人間だからと周囲が遠慮しすぎる」


 そう言った目元に戸惑いが見えて、ミルドレッドは初めてこの人が本当は単に孤独なまでにストイック過ぎたのだろうな、と思った。

 そうしたのは自分もだ――人間関係は0-100で割り切れるものではない。


「……分かりました。最後に、私もあなたの言葉が本当か確かめてみます。まずは1メートル」


 ミルドレッドは自席から出ると、部屋の中央に進み出る。


「50センチ」


 言いながら机を挟んでテレンスの前に立てば、何かを耐えるように彼は口元をゆがませていた。


「……入りますね、20センチくらい? 普通の距離ですが」


 今度は、秀麗な顔が何か恐ろしいものを見るように。

 最後に手を伸ばして腕にちょんと指先で触れると、テレンスは身を引いて――やめてくれ、と顔を腕で隠した。首筋から耳まで赤くなっている。


「……済まない。だが婚約破棄をしても、可能ならチャンスが欲しい。友人からでも……」

「いえ、友人の知人くらいから始めましょう。それなら他の方のことを好きになっても後腐れないでしょう」

「そうか、君の希望なら了解した」


 話がまとまった。

 二人が同じタイミングで立会人の方を向いたので、オリアーナは細く息を吐く。


「――分かった、それで大丈夫そうだね。あとはテレンス、女生徒との距離感をカインから教えてもらうんだね。ミルドレッドも、よく相手の話を聞いて、不確かなことは相手に確認すること」


 オリアーナが言えば、傍聴席で目を瞬くカインだったが、隣の婚約者は乗り気そうだった。


「ごめんねカイン、あとで学食のスペシャルランチセットを2人前10日分おごるから」

「……仕方ないなぁ」




 後輩が快く仕事を引き受けてくれた後、律儀にカインに礼を言ったテレンスは、会場を出る直前にぴしりと屹立すると、最後に深くミルドレッドに頭を下げた。


「ミルドレッド嬢――いや、ファラーさん。では、また」

「……はいまた。エインズワース様」


 そういえば、自分は今までさようならと言っていた気がする。


 ――なんだ、会いたいとは伝えられていたのか。

 

 不器用すぎてどうにもならない元婚約者の背中を見送って、ミルドレッドは思い込みの激し過ぎる自身の頭を振った。



***


「付け合わせはマッシュポテトが合うと思います」

「揚げたポテトに塩が至高だと思うが。塩分は鍛錬の後に必要で……」

「普通は鍛錬しないです。……でも、馬に乗った後はいいかもしれないですね」


 婚約破棄の話し合いから三か月ほどして、二人は友人としてのランチタイムをたまに過ごすようになった。話題はとにかく今までしてこなかった他愛無い雑談ばかりだ。

 他の生徒たちからの興味本位の視線が少々気になるので、場を持たせられるように白いテーブルクロスの上には食後も、飲み物とやたらお菓子が並んでいる。


「仕方ない。……男は背中で語れと、父の言うことを聞いていたらろくなことにならなかったからな。しっかりしろと散々稽古を付けられていた」

「そういえば、初等部の中ごろまでは、よくあざを作っていましたね」

「……君に見られて心配させるのも、憐れまれるのもいやだったからな」

「そんなに厳しかったんですか」

「いや、それもあるが……よく転んでいたんだ」

「……」

「……泣いていないぞ。君のハンカチのクマに誓ったからな。それに今は転ばなくなった」


 そう言って食後にはコーヒーを口にするテレンスが、何故だかちょっとだけ胸を張ったような気がする。たぶん数ミリ。

 そして首を少し傾げた彼の長い髪は揺れなかった――切ってしまったから。

 エインズワース家に伝わる騎士の誓いは大事なものを守ろうとするときに立てられるもので、この場合は中等部に入学する時に(偏ったイメージの)騎士としてミルドレッドを守るという前のめりなものだったらしい。

 彼女が困る、これも拗らせた原因の一つだと言えば、バッサリ切ってしまったのだ。


「初等部の頃は、父のような、熊のような騎士になりたいと宣言していたくらいだ。ただ、これも言って引かなかった女性は君とオリアーナ嬢くらいだったな。それにうちの父を見て泣かなかったのも」

「そうでしたっけ。……らしくないと言えば、私、実は昆虫採集と狩猟が好きです。オリアーナ様と仲良くなったのも、お茶会を良く抜け出していたからです」

「そうか。ああ、狩猟が好きで目敏いから風紀委員会に誘われたらしいと、カインが言っていたな」

「そうですか」


 委員会室の外では隠していた秘密を言ってしまえば、思ったよりずっと気が楽だった。テレンスは頷くだけだ。

 淑女扱いをしても、他人に淑女らしくないとはあまり言わない――真面目過ぎて人を馬鹿にしたりしないのだ。


「昆虫採集については……知っている。君の屋敷のメイドが教えてくれた」

「ええ……ではもしかして今まで贈ってくれた花束って……そういう意味だったんですか?」


 たとえば薔薇や女性受けしそうなもの、などでなく妙な取り合わせばかり送ってくると思ったら、蝶や、庭園にはいないような色々な虫が好む花を贈っていたらしい。寄ってくるようにと。


「せめて意図を話してくださればよかったのに」

「なら君の好きな花を教えて欲しい」


 ミルドレッドもテレンスの好きな花はまだ知らない。

 でもコーヒーに付けるおやつなら、甘いクッキーやシナモンロールが好みだということは知った。


「……何故ですか。まだ花を贈るような関係ではないですよ」

「だから……その……だいぶ先だが、新年のパーティーに初めて誘おうかと……」


 口ごもりながら俯く姿に、馬鹿正直に言うのはどうなのだろうとミルドレッドは思ったが、今のところは、この場で即答で断るほどではない。


「そういえば君は、侯爵家に嫁ぎたくないと言っていたが、断固として拒否することも……できた……かも、しれない。うちの両親なら」

「侯爵家の領地に広い森があって、たびたび狩猟の会が開かれていることは知っていましたから、それで我慢できるかもしれないと思いまして」

「……そうか」

「そういえば、ずっとお聞きしたかったことがありました。……森に熊は出ますか?」



***



「――というわけで、クマさんは女の子とずっと一緒に暮らしましたとさ、おしまい」


 ミルドレッドはソファの膝の上から小さな娘を優しく下ろすと、そっと頭を撫でた。夫と同じ細い銀糸の、さらさらした感触が心地よい。

 夫の父である侯爵は熊のようなという形容がぴったりで、夫の容姿は母親似。

 そして娘も夫似で、隔世遺伝しなくて良かった、とミルドレッドは思う。彼女自身は――夫は褒めるものの、ごく平凡だと思っている。


「このクマさんはおうちにいるんだね。じゃあ、おとーさまのすきなくまさんはどこ?」

「お仕事に行くときに胸のところにしまってるんですって」


 幼児の丸い顔の中の、見上げてきた丸い目は彼女と同じとび色。

 なお初代のクマさんハンカチは寝室の壁に額縁に入れて飾ってあり、プロポーズの返事に刺繍した二代目――も飾ってあるので、持ち歩いているのは三代目だ。


「……済まない、ミルドレッド!」


 扉が開いて息を切らして駆け込んできたのは、その「おとーさま」だった。

 ミルドレッドとあれから3年間かけて交際を始め、また3年かけて婚約して、それからやっと夫になったテレンスは、未だに騎士道に忠実すぎるきらいがある。

 銀髪も、また娘のために伸ばそうかと、最近よくうんうん唸っている。


「あの馬鹿王子が、君との記念日にわざと残業を押し付けてきた」

「夕食に間に合ってるのに、怒りませんよ。だいいち何ですか、婚約破棄記念日って……」


 本人曰く、遅く帰宅したテレンスは、娘を抱き上げる。

 早速ぷくぷくの両手でぺちぺちほっぺたを叩かれたりひっぱられたりパン生地のようにこねられているが、まんざらでもなさそうに見える。


「まあ、婚約破棄の嵐が息を潜めて話し合いブームが来てくれて、風紀委員としては楽になりました」

「あの日婚約破棄してなかったら、君が本当はどんな人なのか知ることもないままだった」

「知らない方が幸せだったと思いませんか、口が悪くて、侯爵家に入るなんて面倒で、馬を乗り回すのが好きで、田舎でのんびり暮らしたいって思ってたなんて」

「いや、まったく。馬に乗れたおかげで、人目を避けて思う存分外に連れ出すことができた」


 森に散々遊びに行ったり、狩猟小屋で寝泊まりしたりと、およそ淑女らしくない遊びをさせてもらった、とミルドレッドは思い出して口元を綻ばせる。


「それにわたしが騎士だから、任務で王都から出るのにも着いてきてくれる……んだろう?」

「ええ、もちろん」

「……ところで、その絵本は?」


 ソファの上に置かれた見たことのない、新しい絵本に――ミルドレッドが描いた自作の一冊に目に留めたテレンスに、彼女は微笑する。

 表紙では灰色のクマと女の子が、一つのテーブルを挟んで座っていた。二人のまんなかにはコーヒーと山盛りのシナモンロール。


「小さな熊と女の子が思い込みで残念な喧嘩をして、美味しいものをたくさん食べてお話しして、仲直りするお話です。……今日は、記念日ですから」

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婚約破棄と言う言葉を軽く考えてないから、ヒーロー。
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