エピローグ
たった数分間のゲネ動画は、結果として一週間で五百万回再生されたらしい。
その後満を持して販売したチケットは当日即完売した。それを受けてSNSでは「一目で良いから舞台を観劇したい」との多くの声が上がった。舞台は実際に足を運ばない限り観劇することはできない。だがあまりの声の多さに、プロデューサーは千秋楽公演を全国の映画館でライブ配信することにした。ただし、その映画館のチケットでさえ発売日当日ものの数分で完売してしまい、さらなる劇場確保にプロデューサーは嬉しい悲鳴を上げながらあせくせ働いていたらしい。
舞台袖には観客席が見渡せるモニターが設置されている。朱鷺はその画面へ視線を落とした。期待を込めた眼差し、きらきらした好奇心、憧れと未知への物珍しさ。そんな込み入った感情で、客席は埋め尽くされている。そのすべてが美しいものに昇華できるのかどうかは、これからの舞台次第だ。
期待が高ければ高い分、その想像を超えなかったときの落ち度はすさまじいものになる。あれだけ煽っておいてそれだけなのかと、劇場の外に出た観客がひとたびSNSで呟いてしまえば、いままでの努力は水の泡だ。そうならないために、舞台人はいる。朱鷺たち俳優だけではない。舞台を作り上げる人、支えてくれている人、些細なことでも関わっている人たちが作り出す集大成が、ここにある。
「ねえ」
「え!」
突如、聞こえるはずのない声が聞こえ、朱鷺は驚き振り返った。背後には、開演三分前のこの時間は、朱鷺と反対側の舞台袖に待機していなければならないはずの椎名の姿があった。
「ちょ、もう始まるのに……」
「緊張してる?」
焦っている朱鷺をよそに、椎名は当たり前のことを問いかけてきた。見れば分かるだろう、と朱鷺は困惑した。こんなに青ざめて、情けなく唇も震えているのに。
「……してない」
なのに朱鷺の口から飛び出たのは、現在の状況とは正反対の言葉だった。強がりの一言。それをすべて分かったうえで、椎名は満足げにひとつ頷いた。
「だよな。緊張してる場合じゃ無いもん。それでこそだ」
言いたかったのはそれだけだと、後ろでせかすスタッフの声を翻し、颯爽と元いた位置へと走り戻っていく椎名の背中を、朱鷺は視線で追うことは無かった。
――才能を自覚せず、あらゆる凡人を踏みにじるのは罪でしかない。自覚しろ。
あの日彼に突き付けられた言葉のナイフは、今、朱鷺の手元で刃となっている。
怪物と称される圧倒的な彼にただ食われるだけだと思っていたのに。担がれるだけだと情けなく思っていた朱鷺にも、化け物らしい本性が携わっているらしいと聞かされてから、稽古に対する取り組み方も変わった。前ももちろんよかったけれど、満足の境界線を越えてきたよと監督に声を掛けられた日の記憶も新しい。
(もし本当に俺が、”化け物”ならば)
椎名水紀のように、怪物の牙を掲げながら、喉元に食らいつくほどの演技はできるのだろうか。朱鷺は、自分の実力を信じ、武器として掲げて舞台に立つことはできるのだろうか。
刃を研いで前を向く。幕が上がる。
舞台の上に化け物と怪物が放たれる。椎名の瞳が吊り上がる。朱鷺は拳を握り締めた。
客も、世界も、お互いをも。すべて食らいつくす演技ができるのだろうか。