4 ふたつの星々
「もしかして食欲、無いんですか?」
「あ、……いえ、はい」
時はまるで光のようにすさまじい勢いで通り過ぎていった。睡眠時間を削って舞台へ集中する時間を作る、ただし普段のアイドル活動を疎かにすることもしない。アイドルとしてのSNSでの活動や、新曲の振り入れもこなす。歌の収録にだって全力で臨む。たとえ朱鷺が今回の舞台の真実に気付いても、仕事に対して真摯でいたい、ひっそりと奥歯を噛みしめて、腹の奥にどろどろとした煮詰まった醜い何かを詰め込んで、両足で立っていたいのだ。
ただ、それが常であることが正常であるべきではない。その状態は朱鷺の心を徐々に、しかしながら確実に蝕んでいたようで、朱鷺の食欲はがた落ちした。だが不幸中の幸いにも、朱鷺の演じる役柄とマッチした体格への変貌だったため、朱鷺のファンが少しずつシェープな体格になっていく朱鷺の姿をSNS等で見かけても、「役作りのためだ」と好意的に解釈していた。
朱鷺にとってはありがたく、だが体が少しずつ告げるSOSが、どこにも響かず無意味なアラートをただひたすら大声で上げているだけのむなしさもある。朱鷺が今日も今日とてぼんやりと弁当を箸で突いていると、いつの間にか椎名が隣に腰掛け、話しかけてきた。
「お弁当、残しがちですよね」
「はあ……」
椎名とは、もちろん会話をしないわけではない。監督を介して会話して役を作り込んだり、方針について語り合ったり、お互い良い芝居を作り上げるため、時には討論だって積極的にしている。
だが、プライベートで仲良くしているかと言われれば別だ。お互いはっきりと口にしたことはないが、役作りをする上で、関係に線は引いておくに超したことは無いと考えたのは一緒なのだろう。当たり障りの無い会話や世間話を交わしても、それ以上深く話を盛り上げることはおろか、稽古場から一歩外に出れば二人で肩を並べることも一瞬たりとも無かった。だからこそこんな風に彼が話しかけてくるのは珍しいことだった。
「やっぱり、情報解禁されてからの周囲の声とか、気にされてます?」
椎名が言っているのは、つい先日とうとう舞台の情報がメディアに公表されたことを指しているのだろう。ひとたびメディアサイトに記事が掲載されれば、各種SNSは大盛り上がりだった。やはり大物監督が脚本演出を手掛けることも舞台オタクの間で大いに話題になり、謙遜を抜きにして朱鷺が出演することの反響も大きい。朱鷺のファンの母数はそんじょそこらのアイドルとは桁違いなのだ。
それはそれでいいのだが、やはり当初の懸念通り、朱鷺たち二人が主演を務めることに、多少なりとも不安やマイナスな感情を抱くファンも見られた。そんなファンが、推しに仕事が入ったことを前向きに受け取って欲しいファンと対立して炎上したり、そんな炎上を面白おかしく切り取る、アンチアイドル層やアイドルのファンを快く思わない人間もいたり。マイナスの方向で盛り上がるのも、昨今ではある種の戦略と言えるのかもしれないが、朱鷺としてはあまりポジティブには捉えられなかった。
「それもありますけど……ゲネの公開、とか」
「ああ……ありますね」
そうした声を黙らせる策があるのだと、自信満々な顔で先日話しかけてきたのは、今回のミュージカルに付いている敏腕プロデューサーだ。なんでもこのプロデューサーこそが企画を立て、監督を動かしたという。朱鷺たちのキャスティングを監督に推したのもこの人らしい。もちろん、最終判断を下したのは監督であるため、プロデューサーはきっかけを作ったに過ぎない。彼が敏腕、と呼ばれて名高いのは業界の中に身を置いているからある程度は知っている朱鷺だが、どのように敏腕なのかはよく分かっていない。だが、数々の舞台を成功に導いている実績からして、その腕は確かなのだろう。
そのプロデューサーはゲネの一曲丸々を、動画サイトにどどんとアップしようじゃないかと言うのだ。舞台の反響の半分はネガティブな感情が占めている。だが反響の総数が多いだけに、半分といっても途方もない数なのだ。プロデューサーはそこに目を付けた、というわけだ。
『もしもその半分がひっくり返れば、どうなると思う? ひっくり返せるさ。――それだけのエネルギーと確かな技術を、いまの二人には感じている』
プロデューサーのそんな提案に、出演する俳優としての回答は、イエスしか残されてもいないも同然だった。
公開される一曲は、朱鷺と椎名、二人だけしか出演しない場面が選択された。現状一番多く聞こえてくるアンチの声は、朱鷺と椎名が共演することに対してだ。ならばなおさら、二人しか出ていない場面を公開するのが良いと判断された。
けれど、椎名とふたりぼっちということは、つまり、公になってしまうと言うことだ。椎名との差が。朱鷺のポジションがいかに引き立て役であるか、ということが。
「……あまり、自信が無いなと、思ってはいます」
正直な声が、朱鷺の口から零れた。それは掠れた情けない声色だった。
「まあ、そうですよね。こんなバッシングの中、どーんと公開しちゃうなんて」
でも、大丈夫ですよ。監督のお墨付きじゃ無いですか、公開予定の一曲。
にこり、と満面の笑みで椎名に微笑まれて、朱鷺はつきりと心が痛い。体調が悪そうな朱鷺を見かね、こんなにもコンプレックスを抱えた朱鷺に寄り添おうとしているなんて、俳優として役者として。椎名水紀は百点満点じゃないか。朱鷺は大人になりきれない自分を恥じた。
「……そうですね、椎名さんを支えられるような演技が出来たらと思いますけど」
震える指で掴んだ箸を握り締めて、かろうじて朱鷺が言えたのは、本音を奥底に仕舞い込んだ、できるだけ自分の身を弁えていると相手に判断させるような言葉。しかし朱鷺が零した言葉に、まるでそんなことを言われるだなんて予想だにしていなかったかのように、椎名はきょとんとした。
「支えるって?なんですか? そんな場面じゃ無いですよね、あのシーン」
「いや、役どころはもちろん二人が争う場面ですけど。役者としての心構えというか。ほら、怪演をする椎名さんと違って、俺は素朴な役どころじゃ無いですか」
朱鷺は甚だ情けなくなってきた。きらきらとしたステージで自信満々に歌い踊っても、ひとたび街に繰り出せば指を刺され、声を掛けられ、都内の中心地に単独で巨大な広告を打たれても尚、この稽古場という限られた空間で、この俳優に、まざまざと才能を見せつけられてしまうと、心が根元からぽきりと折れてしまいそうなのだ。
とうとう俯いて、情けなくて膝を見つめた朱鷺の後頭部に、だが突如として「はあ?」という低い声が降り注いだ。予想だにしない声音に、朱鷺は何事かと慌てて視線を上げると、そこには見たことも無いような怪訝な顔つきで、目を細め眉間に皺を寄せた椎名がいた。
「あんた、それ本気で言ってるの?」
「……それは、そうですけど」
椎名は大きく口を開けた。だが、ぽっかり開いたその口から音が発せられることはなかった。ゆっくり、ゆっくりとと上唇と下唇がぎゅっと結ばれて。次第にきらきらした瞳の輝きは消え失せて、すっと細められた。
椎名は無言で自分の隣に置いてあった鞄を探ると、タブレット端末を取り出した。指先でスライドして、検索バーに何か叩き込んだ。かつかつ、と爪が液晶にぶつかる音がする。タップする指の強さから、彼の苛立ちが伝わってくる。
「あんたの出演作」
全部見たよと、雑に朱鷺の出演作がまとめられたサイトを見せてくる。ファンが好意的に作成したまとめ一覧ではなく、広告収入を目当てにした、ありきたりな文章でまとめられただけのサイト。だがそんなサイトでも、スクロールバーが下へ下へと下げ続けても縦長に続くほど、朱鷺の出演作はたっぷりと掲載されていた。
「ステージもドラマも映画も全部見た。演技は少女漫画の王道な王子様や、冴えないのにどこか魅力のある主人公が成長していく青春ストーリーがほとんど。ドラマの中でのきらきらした笑顔が素敵だって、ファンにも好評で」
「でしょうね。けど、いつも同じ役どころだ」
いつ見ても同じようなキャラクターを演じてるなと後ろ指を指されるのは慣れた。一辺倒な役作りをしているつもりはないけれど、それしか出来ないと揶揄されているようであった。そしてそれは他人に言われずとも分かっている。所詮アイドル芝居だとからかわれ笑われ、けれどそれでは椎名と同じように振り切った芝居ができるのかと言われれば答えは否定しか残されていなかった。そんな朱鷺だからこそ、今回こんなコケにされるような仕事を任されたに違いないことは自覚していた。
「そうだね。じゃあなんで同じ役どころに何回もキャスティングされるか、考えたことある?」
「それは、俺が人気アイドルで、数字も取りやすいからだろ」
外れが無い、リスクがない。同類の作品で安定した数値が取れているなら冒険を犯す必要が無い。
途端、椎名は大きく咳払いをした。びっくりして肩を揺らすと、睨みを利かせた椎名は、ぐいと朱鷺の顔に額がくっつくかと言わんばかりの距離まで顔を近づけた。
朱鷺ははじめて、彼の顔を至近距離で覗き込んだ。
「あんた、自分の価値を本気でそれっきりだと思ってるの?」
綺麗だ。真っ黒な黒曜石みたいな瞳の中に、驚いた朱鷺の顔が映し出されている。
「え?」
「なあ、同じような役ばっかりだな、ってあんたが言われてるのは俺も知ってるけど。同じような演技ばっかりだな、とは誰一人として言ってないんだよ。気付いてないの?」