2 勝ち負け
怪物って、そんなおぞましいキャッチフレーズ、まだまだ若手の俳優においそれと付けるもんじゃないだろう。いくら所属事務所の名前が“コスモ・プロモーション“だからって、安直すぎるあだ名だ。コスモの怪物ってつまり、”宇宙の怪物”ってことだろう。宇宙規模の怪物? 宇宙を支配する怪物? 怪物なんて恐ろしい単語も、大それた宇宙規模の冠も、朱鷺は自分だったら絶対に被りたくないあだ名だと心の底から思った。もし自分がそんなキャッチフレーズで売り出していこうと言われたら、所属事務所には猛烈に抗議するだろうし、ファンの中で非公式にそんなあだ名が浸透し始めたとしたら、「絶対にやめてくれ」とSNSのアカウントで表明するだろう。それくらい強烈なキャッチフレーズを、彼の人はどんな風に捉えているのだろう。
「おはようございます。はじめまして、椎名水紀です」
朱鷺が衝撃を受け、ぐるぐると他人のあだ名に思いを巡らしている間に、あっという間に顔合わせの日がやってきてしまった。オファーの連絡を受けたのがついこの間、そこから数日しか経っていないのだから、あっという間という表現はあながち間違ってはいないのだが。朱鷺が扉を開き、会議室に入った途端、長机の前に腰かけていた人物が流れるような動作ですっと立ち上がる。
彼は、オフィシャルサイトに掲載されていたアーティスト写真よりも、何倍も整った可愛らしい顔立ちをしていた。くりくり丸っこい目に、天井からの照明の光を受けて水分をたっぷり含んだかのような、きらきらした瞳。オフィシャルサイトの写真が過度な加工を行っていない証拠だ。どこか天真爛漫な声色とはじけるような笑みの混じった挨拶受けて、朱鷺も頭を深く下げる。
彼を一言で言い表すのであれば「光」であった。太陽のような、温かみのある光だ。だからこそ「光」を背負い、発光しているかのようなオーラを背負った目の前の俳優が、”怪物”だなんて呼称を与えられるのは、彼のキャラクターにも似合っていない、と朱鷺は心の中で答え合わせをしていた。
なのに。
その後時間ぴったりに会議室に入って来た、白髭をたっぷり蓄えた監督は、開口一番それじゃあ声の相性を見たいから、なにか一曲歌ってくれますかと、朱鷺たちに有無を言わせぬ要望を出してきた。一見すると、銀縁眼鏡をかけた柔和な顔つきの監督だ。だがしかし、朱鷺たちが監督に挨拶をしようと立ち上がったにも関わらず、朱鷺たちが口を開くよりも前に、それを制し指示を出してきた。挨拶させる隙も与えずに課題を課してきたのだ。ただのやり手ではない。芸能の世界をあらゆる角度から眺め、魑魅魍魎が潜む世界を生き抜いてきた重鎮だ。こちらの出方を伺い、そこから何かしらを見出そうとしているのだ。あまりの素早い先制に、身構えていなかった朱鷺は、思わずひゅっと息を飲んだ。が、朱鷺のすぐ隣に座っていた椎名はすくっとパイプ椅子から立ち上がった。
「過去に出演したミュージカル作品の楽曲でいいですか」
首を傾げた椎名が訪ねると、監督はにっこり笑って頷く。邪魔になる机を端のほうに寄せ、会議室の中央にまるで何を気にするでもないようにふらりと突っ立った椎名は、ひとつ息を吸い込んで、一音発した。
その瞬間、彼が”消えた”。
椎名水紀はその場からいなくなり、ただその曲を歌う人物そのものになった。彼が出演したそのミュージカルの内容も、登場人物も、朱鷺は何も知らない。なのに、椎名水紀は口を開いてひとつ瞬いたその瞬間、椎名水紀ではなくなった。彼は一瞬にしてその曲を歌うべき人物に成り代わってしまった、と錯覚した。あどけなさを残した可愛らしい顔つきは鋭く冷たい、人を寄せ付けない表情になり、体の動きは愛嬌のある動きから、まるで世界のすべてを拒絶するような固い動作へと変貌した。あんなにはじけるような声で挨拶してくれた声色は、重く低く重厚な音となり部屋中に響き渡る。
彼が歌い終える四分間、朱鷺は見たことも無いミュージカル作品の世界にどっぷりと浸かり込んだ。そうして一音がすべて消え去った後、戸惑うような周りのスタッフの拍手がまばらに起こり、そしてそれが連鎖するように大きな音になるに頃になってようやく、現実世界へと朱鷺は意識を戻すことができた。
圧倒的に「負けた」と思った。
その後、促された朱鷺が何を歌ったのかは、正直何も覚えていない。気が付いたら椎名と同じように暖かく周囲に居た人間に拍手されていたし、監督も満足げに頷いていた。だから下手なものを見せる醜態は免れたのだろう。マネージャーも「あのプレッシャーの中よく頑張っていた」と褒めてくれていた。朱鷺はそれがお世辞ではないことは重々承知している。あの言葉は慰めでも励ますものでもなく、本当に心からの賞賛の声ではあった。
ただ、朱鷺は帰りのタクシーで本日渡された仮台本をぐしゃぐしゃに握りしめ、魂が抜けきった体でよろよろになりながら、ようやくたどり着いた自宅のベッドに崩れ落ちるように倒れた。
痛烈に襲われた負けた、という感情。だが勝ち負けだなんて、そもそもあの場には存在していなかった。あの場所はオーディション会場ではない。すでにキャスティングされた二人が争う場所ではない。この舞台はW主演である。二人の主演同士が競い争い、技術を高めることはあれど、そこに勝敗など存在しない。そんなことは分かりきって入るのだ。
けれどあの瞬間、朱鷺は、自分が「負け」の為に用意されたのだと自覚してしまった。
ぐっと奥歯を噛みしめる。瞑った瞼の裏で、眩い光の幻想がちらちらしていた。
いままでの朱鷺の芸能人生で、このような壁にぶつかったことが無い、といえばウソになる。アイドル界は一筋縄ではいかない。どれだけの努力を積み上げても、足元を掬われたり、気が緩んだりすれば一気に総崩れさせられることがある。そんな世界だ。
朱鷺もまだまだ若手と呼ばれる分類だが、伊達に年数は重ねていない。現在所属する、芸能界でも最大手の事務所のオーディションを勝ち抜いて、デビューまでの厳しい下積みを重ねに重ね、グループのセンターに選ばれて、華々しくメジャーデビュー。つらい仕事ももちろんあったが、仲間と切磋琢磨しながらここまで歩んできた。その結果、テレビで見ない日はほとんど無いね、と言われるまでに、スター街道を駆け上がって這い上がってきた。
壁に立ちふさがれることなんてなんて、屈辱を味わうことなんて、辛酸を舐めたことなんて一度や二度じゃない。それなのに。
朱鷺は掌をぐっと握りしめた。いまの朱鷺が自分で理解できるのは、そのアイドルという芸能人生の中でも、これまでに味わったことのないほどに、圧倒的で屈辱的な負けを味わっているということだった。