プロローグ
まるで地面が、荒れ狂う海のように波打っているかのようだ。
先ほどから、がくがくと大げさなほど震えが止まらない両足で、かろうじて真っ直ぐ立てていることが奇跡のように思えてくる。
朱鷺の耳の中に次から次へと飛び込んでくる、明確な言葉として聞き取れない音、音、音。人々が交わす会話は乱暴にぶつかり合い、ただの喧騒となっている。音の粒は朱鷺の緊張を更に昂らせた。
あと数分もすれば、重く垂れている目の前の幕は上がってしまうだろう。そうすれば朱鷺はこの身一つで舞台の上に放り出される。客席からの幾千の視線に晒されながら、熱い熱いスポットライトに照らされながら、第一声を張り上げなくてはならない。口を大きく開け、面前に喉の奥まで晒さなければならない。
どくん、どくんと心臓が大きく鼓動を立てるたび、体中の血液が巡り、巡って内から熱くなる。鏡を見ずとも分かる。朱鷺の顔は火照って赤らんでいるに違いない。それなのに体の末端はびっくりするほど凍え切っている。冷え切った手の甲を両頬に押し当てたのは、その赤味が少しでも引いてくれたらと悪あがきしたかったからだろう。
大きく息を吸って、肺に酸素をたっぷり送り込んで、それから時間をかけて吐き出すと、すーっと体の熱が引いていく心地がした。緊張でこんなにも限界を迎えている体と、自分の体調と外の様子を冷静に判断できている頭。体と頭がちぐはぐで、気持ちが悪い。
“彼”はどうなのだろう。上手側とは反対に、下手に一人、朱鷺と同じく幕が開くのを待っているはずの彼。緊張しているのだろうか、と考えて、いやいやと頭で打ち消した。緊張なんてのは、彼からはほど遠い言葉なのだ。
きっと心躍らせて、この舞台の上に飛び跳ねることを、いまかいまかと待ちわびているに違いない。目の奥にしっかりと見える輝きは、彼が宿している本物の光だ。
朱鷺の世界を、いとも簡単にねじ曲げるほどのパワーを宿した人間だ。
そう、だから。押しつぶされそうな異様な空気の中でだって、しゃんと背筋を伸ばして綺麗に立っているに違いないのだ。