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私の過去  作者: 宮本 清久
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第2章 祖父母について

 第2章 祖父母について


 祖父(父方)について

 聞いた限りだと特攻隊に配属されそうになったそうです。訓練は受けたそうですが、幸い戦争が終わりそうな時期で実際に特攻隊に配属されることはなかったそうです。1945年の7月ごろから訓練を受けて自爆に関する教育を叩き込まれましたが、それが実際に意味をなすことがなかったのは不幸中の幸いかもしれない。

 祖母(父方)について

 実は私の祖母は父が生まれた後に亡くなっている。父は4人兄弟だったのですが、最後の一人は本当の父の母親にあたる祖母が亡くなってから生まれたそうです。そう考えると両親が揃っていない時期が父親にはあり、その後他人が家族に入ってきたという風にも捉えられる。

祖父(母方)について

聞いた限りだと、満州にいたことがきっかけでシベリア抑留の話の話は何度か聞いたことがあります。満州は日本が占領していましたが戦時中にたくさんの捕虜が捉えられていったそうです。日本が戦時中捕虜に強制労働させていたように、戦争に勝った国も日本人を捕虜として主に労働力として利用としたいと考えたのがきっかけのようですね。

-40℃の環境で森林伐採や鉄道を作るのが目的だったようですが、それとは別に共産主義の教育などもなされて日本の戦前の教育と今の教育が混ざってしまい複雑な精神構造になったようです。

 祖父はシベリアから帰った後には工事の現場監督などをやったようですが、現場で死亡事故があり、危うく責任を取らされそうになったそうです。そこでこのままではまずいと思ったようで、戦後の混乱期に税理士の資格を取り、税務署に勤めるようになったと聞いています。晩年は自宅で事務所を開いていた。社会勉強の一環として私も手伝いに行ったことが一度ありましたが、祖父の態度は厳しくうまくなじめなかった。祖父の気持ちは当時理解できなかったが、冷静になって考えてみるとそれだけ厳しい経験や教育の影響を受けてしまった事で当時の私には理解できない部分がたくさんあったのだろうなと思う。祖父を見ていて税理士か公認会計士になりたいと考えるようになったが、結果的に簿記の2級までしか取れなかった。私には無謀だったのかもしれない。

 祖母(母方)について

 20年ぐらい前に私の家のまで飛行機などで来ていたが、最近はやはり介護が必要な状態らしい。結構元気のある人だったような記憶がありますが、やはり90歳ぐらいになるとさすがに無理が出てきたのだろう。祖母の面倒は叔父が見ていますが、中々昔のように元気になる可能性は低そうです。


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