心の殻を叩く音
美羽の瞳に涙が滲みだす。
あれ以来、服関連のことしかまともに喋れなくなった自分が、人を傷つけるのが嫌だ。告られることほど、苦手なものはない。
ロックミシンの楽しげな音、ボビンに糸を巻き取る高揚感、ギンガムの楽しさ、オーガンジーの高貴さ、様々な布の優しい手触りに包まれていたい。
沈黙はミシンが待ち針を打った衝撃音より辛い。
「困らせてごめん。自分の進路も決められない男が告る資格ないよな。それでも今伝えときたかったんだ。もう接点が無くなるから……。専門学校にも試験はあるんだろう? 応援してるから。この一年楽しかった。ありがとう」
一海はゴミをひとつのレジ袋に取りまとめ、残ったスイーツを入れた袋のほうを美羽の近くに置いた。
「家の人とでも食べて。じゃ」
鞄とゴミ袋と制服を掴んだ後ろ姿に、美羽は思わず立ち上がって声をかけていた。
「待って、そのシャツ、オーダーメイドでしょ?!」
びくりとした肩が落ちた。
がっかりしたのかリラックスしたのか、美羽にはわからない。
振り返った時には一海はもう微笑んでいた。
「ああ、春休みに従姉の結婚式があって親がどうしてもって。お気に入りなんだ。また体デカくなったみたいでね、年末に買ったシャツがきついから、今日だけ」
と、言うと急に顔を曇らせた。
美羽は「大好きなシャツに失恋の思い出が重なった」という一海の声を聞いた気がした。
「いつか作らせて。私に会長のシャツを縫わせて!」
一海はどう判断していいかわからないと首を傾げた。
「それは嬉しいけど……、いいよ、気を遣わなくて……」
「違うの、私が作りたいって思うから、今まで男物あまり興味なかったんだけど、会長のシャツなら縫ってみたいなって思うから、だから……」
一海は首を傾げたまま立ち尽くしていた。そしてゆっくり前に一歩踏み出した。
「なんで青井が泣くの? 触っていい?」
持っていた荷物をどさっと地面に落としたかと思うと、一海の長い指がそっと美羽の頬に触れていた。
「オレ、諦めたわけじゃないから。自分のことちゃんとしてからリベンジする。青井に服作ってもらえるよう頑張るから。目標ができた。今はそれだけで十分……」
美羽の涙が止まらない。
本人がどうして泣いているのかわかっていないのが始末に負えない。
「このシャツ、そんなにいいものか?」
「うん、……生地も仕立ても……仕上がりも、全部……」
しゃくりあげながらの美羽の言葉はかすれている。
「じゃあ、触ってみて」
一海は美羽の右手を取って、自分の心臓の上に当てた。
美羽はロイヤルオックス生地のさらりとした柔らかさの下に響く、強い鼓動に戸惑った。
その動悸は掌を通し移り込み、まるでノックをするかのように、美羽が作り上げた心の殻を外から叩いている。
黙々と運針するお針子の自分を脱ぎ捨てて、好きな人に好きと言える今を生きるために。
「嫌われてはいないって思っていい?」
一海の囁きに、美羽はコクリと頷いた。
だが唐突に、一海は美羽の両肩を掴んで押し返した。
髪から立ち昇る芳香に一海が堪えられなかったなんて、美羽には想像もつかない。
驚いて見上げた瞳は無防備な、濡れた上目遣いになっているということさえも。
「ヤバいって。さっき講堂で言ったろ? 近づきすぎると抱きしめそうになる……」
「そんなに……好き?」
「ああ、バカみたいに、好き……」
一海は俯いて表情を隠してしまう。
両肩に置かれた手は大きいのに、まるで美羽に支えてほしがっているかのように心許ない。
震えている。
もしかして泣いているんじゃないかと、美羽はおずおずと声をかけた。
「会長……?」
「オレはもう生徒会長じゃない……」
返ってきた声は思ったよりしっかりしていた。
「渡辺、くん?」
「うちの学年4人も渡辺がいる」
「でも……」
「一海って呼んでくれないか?」
「いち、かくん?」
「呼び捨てにして」
「そんな、できないよ……」
「オレを『いちか』って呼び捨てにする女は、オレの彼女だけだから」
「ムリだってば……」
「試しでいいから言ってみて」
「い、ち……、か……?」
美羽は必死で声を絞り出したのに、一海は口を尖らせる。
「なんで疑問形? ちゃんと呼んでくれるまで帰さないよ?」
一海はわざと不機嫌に見せているのだろう、その証拠に目が輝いている。
ほら、眩しい笑顔が口元から広がっていく。
美羽は弾かれたように一海の大きな足に目を落とした。
一海の手は両肩に乗ったままで、体が近い。でも嫌じゃない。
問題は、「下の名前を呼び捨てにしたら彼女になると同意したも同じ」という、一海の仕掛けたワナに美羽は気付いていないこと。
「会長のことだけはいつも見ていた。手伝えることがあったら口を出す前に手を動かしていた。それは、目の前の人が好きだったからだ」
そんな言葉がやっと、美羽の中に結晶してくる。
同時に頬は、今までにないくらい紅潮した。
美羽がどうしようもなく顔を上げると、一海は存外に真摯な、懇願するような瞳で待っていた。
その目力に負けたのか、無言の圧力に堪えられなくなったか、美羽は手を振り回し、瞼を閉じて叫んだ。
「い……ちか、いちか、いちかっ!!」
「なんだい? 美羽」
甘い声が耳をくすぐったかと思うと、美羽は強い腕に抱きしめられ、抱き上げられてくるくる回っていた。
ふたりの足元で砂だらけになっているブレザーに気がつくのはいつのことやら。
by みこと。さま
―了―
お読みいただきありがとうございました!
山之上舞花さまが、生徒会副会長佐藤莉奈視点の二次創作サイドストーリーを書いてくださいました。
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本編の疑問が解けると話題です。