第一話 夜の菊
第一話
もう秋も終わりのころ、庭の菊の花々もうつろいを見せ、いよいよ冬を予感させはじめた夜、いつもの様に藤原侍従定家は、式子内親王のお召しを受け、お住まいになる高倉三条第に参じていた。
定家がこうして式子内親王のもとに参じるようになったのは、もともと父の俊成が和歌の教師として御殿に上がったのに助手として同行したのが始まりであったが、年も近く、公家に似合わぬ純朴なこの青年に好感を覚えた内親王は、ごく親しい話し相手としてこのところ、定家ただ一人を度々お召しになる。
この時、藤原定家未だに十六歳…
作り物語ばかり読み耽り、夢の中を漂っているかのような青年であった。
定家はとりとめもなく古今の物語などを内親王にお聞かせする。
内親王はそのお話を楽しげにお聞きになる。
源氏物語や伊勢物語などの様々な恋の物語を語るうち、彼は次第に自分の胸もときめいていることに気がついてきていた…
これが人を恋しく想うということか…
とはいえ彼は、それ以上の事があるはずもないことを十分に理解していたのである。
従五位下、侍従の藤原定家と、後白河帝の第三皇女である式子内親王とではあまりにも身分に差がありすぎる。
現にこうしてお会いしている時も、二人の間には御簾が下ろされ、二人の会話は乳母の三条の局を介してでしか出来ない…
実際、定家は内親王がどの様なお姿なのかも、さだかには知らないありさまで…
ただ御簾越しに、灯明のおぼめく光の中に浮かび上がる美しい人影と、涼しい声ばかりが、彼のしる恋しい御方の全てだったのである…
「藤侍従には自ら物語を書かしゃることはありませぬのか。こうして源氏の君の話しや、いろいろな物語の話しを聞くのも楽しいが、たまには侍従の書かしゃった物語を聞いてみたいと私は思う。」
優しい御所言葉で内親王は定家にそう尋ねた。
「男が書きまする物語など、内親王様にお聞かせ申す様なものではあらしゃりませぬ。また定家もそないな固い物語などは書く力を持ちませぬ。どうかそのぎは…」
「私は何も他の殿方の書かしゃる様な物語を望んでいるのではありませぬ。」
さっと内親王は定家の言葉を遮って強く言った。
「ではどの様な物語をご所望遊ばします。」
この言葉に内親王はすぐには返事をしなかったが暫しの後…静かな声で…しかしはっきりとした口調で…
「恋の話しを」
と言った…
「なっなんと、言わっしゃります!あの…それはまた…なんでおじゃりますか、その内親王様にあらしゃっては、こっ、恋の話しをお望み遊ばすと!」
その言葉を聞いた定家の驚き様…
いまにもはらはらと泣きそうな有り様である。
定家はまるで内親王に自分の胸のうちを見透かされている様な…いやそれ以上に内親王から想いを告げられているような心地で、どうしてよいのやらすっかり困り果ててしまった…
内親王様も自分を好いてあらしゃる!!
そう定家はかってに確信した!
恋の物語との内親王様の言葉は恋を求めるとの比喩…
はっきりとお思い遊ばしたことをお口に出来るご身分ではあらしゃらぬゆえ、きっとそうに違いない!
広がる定家の妄想……
「藤侍従様、なにをそない度をお失いにならしゃっているのでござりますか?なにも驚かれることもござりますまい。内親王様が恋の物語と、仰せにならしゃったまでのこと…日頃源氏の物語などお話し遊ばしている貴方が驚かれることではあらしゃりますまい。」
檜扇をポンポンとうちながら、三条の局は呆れた様子で定家の動揺を静め、さっさと話しを片付けにかかった。
「内親王様はもうどの物語にも、おあきあきさんにならしゃって、それで侍従様に新しき物語をご所望にならしゃっているのです。貴方もそないおうろたえ遊ばさず、少しも早く新しき物語をお書きにならしゃいますよう、お願い参らせまする。これはご命令でござりまするよ!」
「はっ、はい、畏まりました。」
その言葉を聞いた三条の局はお歯黒をみせてにっこりと笑い、話しを続けた…
「ではもう夜も更けたことでござりまするから…内親王様そろそろ御寝遊ばして頂かされませ、藤侍従にもご苦労でござりました、ご機嫌よう。」
三条の局のさばき方は見事としか言い様のないもので取り付く島もない。最後によろしく頼む。ご機嫌ようという。と内親王の言葉をかけられ、定家は御前を下がらなくてはならなくなってしまった…
とぼとぼと渡殿を歩きながら帰るさ、定家は先ほどの自分の失態を苦々しく思わずにはいられなかった。
もっと自分に自信さえあれば、あの様な恥をさらすこともおじゃらぬやったろうに。内親王様も自分の様子にあきれ果てていらっしゃるに違いない…
宮廷社会で同世代の公家たちが華麗な恋愛を繰り広げているなか、藤原定家のような純情な青年は奇怪な存在でしかなかった。
時は平安末期、貴族達の力が大きく衰えて行くなかで、宮廷文化の虚栄はかえって増大していくばかり…
源氏物語、伊勢物語などにある男女間の恋愛の乱ればかりか、なんでも儀礼にしてしまう公家社会では、同性同士の儀礼的と言ってもよいほどの恋愛さえ行われていたのだったのだから…
そんな無秩序な世界で、定家が恋に臆病だった理由は、ひとえに自身の容姿に対するコンプレックスであったのだ…
やや面長の小さな顔と秀でた眉や鼻筋、きりりとした目もとは、どれも平安時代の美意識では美男子と認められるものではなかった…
そしてさらに装束の似合わないスラリとした高すぎる身長と長すぎる足はあまりにも無様である…
もっと顔が下膨れで、目が線を引いたごとく細く、足がもっともっと短ければ、どんなにか素敵だろうかと、定家自分の容姿を疎ましく思うばかりであった。
しかしこれが現代なら話しは別である…
秋の夜、眩しすぎる月が直衣を着た定家の姿を容赦なく照らし出した…
せめてこの心を慰めるために庭の菊でも拝見して参ろう…
ピリリリリリッ!!!
目覚ましのけたたましい唸り声が青年を飛び上がらせた。
わわしいことでおじゃる;
なにも寝ていたのではない、夜具の中に埋もれて、淡い思い出に浸っていただけである。
この御世はなにもかもがせわしなく感じられてかなわぬ…
また今日も学校とやらにいかなくては…
この十六歳の悩める青年は溜め息をつくばかりであった。
ここの生活を続けて、はや一月がたつが、青年には未だにこの世界がしっくりこない…
なにせ青年が最近までいた世界とは八百年以上もの時間の差があるのだから…
「定男くん、お友だちがもうきてるわよ〜」
「あっはい、只今参りますよ!」
階下から聞こえる女性の声に、なぜあんな身分の低い女人になれなれしく話されなくてはならないのだろうかと、若干いらつきながら、青年はさっと…ベッドから飛び落ち!
慣れない着替えをてまどりながら、なんとか制服に着替え…
ボタンかけ間違ってますがね…
おそるおそる…階段をいっきに滑り落ちた。
ガタガタズッシャン…
「おっぉっはよぅ;」
続く…