第八話 失踪
太陽の光で自然に起きた。
日常の朝を一瞬迎えかけてはっと気づく。
しーちゃん。
外の輝きが正午くらいだろうと予想して慌てて時計を覗くと十時を少し回った頃だった。暫くベッドの上で仰向けに横たわっていた。
見える天井に妄想のしーちゃんを貼り付ける。
今日のこれからを想像した。
今日は何処に行こうか。
視線をドアに向ける。
開けたらしーちゃんがいる。トクトクと鼓動の打撃を感じる。
よしと意を決するように起き、鏡を覗く。
程良く寝癖が立っている。普段見せない普段の自分を見せるこの機会を好機と考える自分には、立っている寝癖は寧ろ都合が良かった。おはようーと、欠伸交じりに言って登場する自分を想像し、実際鏡でその様を映した。
気だるそうな男の仕草をかっこいいと評していた僕は、朝の気だるさを如何に表現するかに集中して取り組んだ。
何度かの欠伸とおはようを繰り返し微調整を終わらせ、本番への扉を開けた。
階段に向かう途中にある優子の部屋の前で、少し聞き耳を立てた。
音がしない。下にいるだろうと判断し、階段を下りていく。
リビングが見えてくる段になって、微調整した欠伸とおはよーを発動させた。
敢えて対象者に目は合わせない。
もしかしたら対象者が見ていないかもしれない。
そういった場所とタイミングでとっておきの自己を表現するのをポリシーとしていた。この時のとっておきの自己というのが無論、朝の気だるさを表現する自己だ。ちゃんと対象者の視線が来るように、大きめに足音も立てた。
さあ、見てくれという相図だ。
しかし、階段を下り終わるまで反応が無かった。
失敗かと初めてリビングを見ると、そこに誰もいなかった。
あれ。キッチンや、洗面台もトイレも探し誰もいないことを確認してそこでようやく思い出した。
ピアノ教室か。
母と優子はピアノ教室に行くと言っていた。
あっ、そしたらしーちゃんはまだ寝ているのか。興奮が足の回転に直結したように階段を駆け上がった。優子の部屋の前まできて、このドアの先の光景を想像した。
どんな寝顔をしているのだろう。どんな恰好で寝ているのだろう。自分の鼓動がはっきり聞こえる。
「しーちゃん。朝だよ」
そう声をかけながらドアを開けた。
しかし、そこには白くて長い脚を露わにするショーパンを穿いた純真無垢な顔で寝ているしーちゃんはいなかった。想像のしーちゃんがいなかったのではない。
しーちゃんんがそこにいなかったのだ。
綺麗に畳まれた布団に優子が貸したであろう服が綺麗に畳まれていた。
その痕跡がしーちゃんが居ない分、よりしーちゃんの存在を濃く表していた。
もう帰ってしまったのだろうか。
呆気の無さと勝手さそして、自分の不甲斐なさに苛立ちが生じた。
自分の部屋に戻り携帯でしーちゃんに電話をかける。
コール音は鳴ったことに安心したが、しーちゃんの声が鼓膜を震わせることは無かった。
メールもその後に送った。
「いま、どこにいる?」
「あ、僕が行くよ」
鍵を手にし玄関に向かおうとする母を制した。訝しそうに僕を見て、「あんた、気をつけなさいよ」と、だけ言ってキッチンに戻った。
母の訝しがる理由を知っている。
優子の為じゃないでしょ。車に乗りたいだけでしょ。そういうことだ。
バイトでコツコツ貯めたお金で車を買った。
バイト先の先輩が彼氏の車を安く売ってくれた。軽自動車だが五速マニュアルのターボ付きでスポーティーな車だった。外観もエアロが組まれ少し車高が落ちている。生意気そうな姿をしていて、そこが気にいっている。
車に乗り込み幼少のようにハンドルを握り、シフトノブを握った。クラッチを切りシフトチェンジもした。それに満足してからシートベルトをし、エンジンをかけた。
社外のマフラーから軽自動車にしては大袈裟な重低音が響いた。
左後ろを目視し、左サイドミラーでも確認し、ルームミラーで後方を確認し、右サイドミラー、右後方目視し安全を確認する。
JRの運転士のように出発進行と、掛け声を発する勢いだ。
運転に対する気合が他のドライバーとは違うと自負をしている。
運転する者のミッションは他に危害を与えず如何に安全に目的地へ行きそして、帰ってこれるかだと心得ている。それに、今日は妹の命も乗せるとなるといつも以上の配慮が必要になる。
走り屋やドリフトをする世界では馬鹿になれと言われ、実際「馬鹿だ」が、往々にして褒め言葉の意として利用される。その観点から考えると僕は真面目で優等生だった。勿論これは走りがつまらない、遅いの意を持った貶し言葉だ。
大学で如何に馬鹿になったエピソードを耳にすると、走りに対して馬鹿になる憧れが生じジレンマを少し感じていた。
免許を取得して初めてのマニュアル車。
エンジンンがかかっていない時は、伝説の走り屋の雰囲気でシフトチェンジ出来ていたのにいざ、発進の意を持つと緊張で硬くなりとてもぎこちなく一速に入れるのだった。
アクセルで少し回転数を上げ徐々にクラッチを繋げていく。
車はやはりぎこちなく発進した。
まだ一つ一つの動作に不安とぎこちなさがあり、運転操作にストレスを感じている部分もあるが、やっぱり運転は好きだと感じている。
運転に集中するおかげで余計なことを考えなくていい。その点において運転は総合的に気分転換になっていた。
優子の通うピアノ教室は市内の少し外れにある住宅地の中に存在した。
母と一緒について行ったことが一度ある。
自分の運転で行くのは今回が初めてだ。片道十分の道程を少し道に迷ってしまったのもあり倍かかってしまった。目的のピアノ教室に無事着いて初めて汗を背中に感じた。
優子も終わって直ぐに出てくるだろうと、暫く車内で待っていたが優子は一向に出てこない。
時計を確認する。もう時間はとっくに過ぎている。
痺れを切らし、車から降りインターホンを鳴らしに向かった。
表にピアノの絵が描かれた看板が立っている以外は普通の一軒家だ。
インターホンを鳴らす。
「はい」明るい女性の声。
「あの、和山優子の兄ですけど、まだ終わってないですか?」
「あっ、優子ちゃんの。優子ちゃん新しい先生にべったりなの。どうぞ入って直接言ってくださいな」
少し面倒くささを感じながらもドアを開けた。
「お邪魔します」
すかさずインターホン越しで対応してくれたであろう、女性が出向いてくれた。中年の女性ではあるが無理に若づくりしない年相応の服装に余裕を醸しだしていた。
細身で小奇麗で規律を纏っているような、いかにも音楽の先生という印象を受けた。
「どーーぞーー。奥の部屋にいるわー。もう、みんな新しい人好きなんだから。私も若い頃は相当チヤホヤされたんだからね。年は嫌ねーー、ほんと」
訊いてもいないことを早口でそして綺麗な声で歌うように言った。
「あなたは中々いい男ね。あなたはどっちが好みかしらね」
ニヤニヤしている中年の女性のノリを面白いと好意的に捉える余裕が無く、面倒に思ってしまった。
「いや、まだ新しい先生みてないんで」
つい、真面目に返してしまう。そんな運転動揺つまらない真面目な返答を気にも留めずに、中年女性はニヤニヤしながら「そーよね、おほほほ」と笑った。
その笑い声でやっと彼女を愉快な人だと認識する余裕が生じたことを認めた。
愉快な中年女性はドアを開ける。
開かれた景色の正面に一つのグランドピアノと並んで座る二人の姿が見えた。
その片方が優子とすぐに認識した。
後ろを振り返ったのは新しくきたであろう先生の方だった。
綺麗なロングヘアーで前髪を左右に几帳面に分けられ露わになったおでこに目がいってしまった。
「優子ちゃんのお兄様」
中年女性がそう新しい先生に紹介し、それで初めて優子が振り返った。
「えっ、なんで今日ハル君なの?」
「いいから、終わったんなら帰るぞ」
「えーー、まだいたい」
「ふふ、優しいお兄ちゃんじゃない。初めまして、牧田美桜といいます」
そう自己紹介し綺麗にお辞儀をした。
見た目の派手さは無くどちらかというと地味な印象を受け、気品や女性らしさと一緒に何処か影を感じさせた。
「初めまして、優子の兄の和山です。いつも妹がお世話になっています」
「とんでもないです。優子ちゃんとは普通に仲良くさせて貰っていて」
そう言って謙虚な笑みを浮かべながら優子とねーと首を傾げた。
「はーい、じゃあ優子ちゃん、次の生徒も来ちゃうから今日はここまでにしましょうね」
「はーい」
「はい、じゃあまた来週ね。牧田先生に言われたところちゃんと練習しとくのよ。あ、後お兄様に牧田先生のことばかり話さないで私のことも売りこんどいてよ」
「片山先生、うちの兄とどうなりたいんですか」
「優子ちゃんにお義姉さんって呼ばせるのよ」
「ふふっ、だって」
「ちょっ、いまこっちに振るな」
「お兄様にもちゃんと宿題だしたから次回までね」
「え?何ですか宿題って」
「とぼけてるところも可愛いわ。私か牧田先生どっちが好みかってしゅくだ・・ぃ、ぐふっ」
言い終わらないうちに自滅した片山先生。高らかに笑い声をあげている。
つい、つられて笑顔になった。
「ちょっと、なんで私も巻き込んでるんですか。いきなりそんなこと言われても困りますよねー?」
語尾を同調気味に強く言った牧田先生。
同意を窺う牧田先生の顔がその時やっと視界に映しだされた。やはり一つ一つに派手さは無いが主張しすぎず上手くバランスが整った顔立ちだった。
ユーモアに溢れた返しの技術を持ち合わせてなかった僕は、いやいやと意味の無い相槌と誤魔化し笑いを浮かべることしか出来なかった。
「また片山先生自分で爆笑してる」
「はぁ・・・、どうだった?肉食ピアノ女教師」
「ふふ、なんかちょっと卑猥ですよ」
「あら、そうかしら」
「なんか卑猥よね?優子ちゃん?」
「卑猥。変態」
「あら、あなた達ここのボスと分かってその口の利き用かしら?あんまり酷いとト長調の音階でぶつわよ」
「やーいやーい、へんたーい」
「ちょっと、優子ちゃん帰るからってずるい。私も乗ってっていいですか?」
牧田先生の甘えた表情と仕草に何故だか月を感じた。
牧田先生の甘えは冗談で日常の常であり深い意味はなく、僕がどう答えようとも彼女に何も届かなければ何も影響も与えない。圧倒的な距離と興味の温度差がそこに生じていることをその一瞬で感じ得てしまったのだ。
気分が下がった僕は笑って誤魔化し、その部屋を後にした。
後ろで優子が先生に別れの挨拶を済まし、帰る準備をしていることが気配として伝わる。「お邪魔しました」そう小さく吐き家を出た。
車のドアを開けると優子が出てくるのが見えた。ドア越しにまた別れの挨拶をしている。
片山先生と目があったので小さく会釈した。
姿は見えなかったが、お兄ちゃんににまたよろしくと優子に伝える牧田先生の言葉が聞こえた。仲良くなる機会を逃してしまったと後悔が束の間、自身を苦しめた。
けれど、エンジンをかけたらその思いも排気にのって遠くに消えた。
あの雰囲気は苦手だ。
上辺だけを馴れ馴れしくなぞっていくようなそんな距離感を持つ人。
行きずりの恋といえばなんだか響きがいいが、虚しさだけが残って肌の温度は残らない。
過去に遊んだ女の子で連絡を取り合っている人は、一人もいない。
しーちゃんが消えてから形振り構わず彼女を探した。
優子にしーちゃんが何か言っていなかったか問い質したが、夜は自分の恋愛相談に乗ってくれ朝起きた時にはもういなかったと教えてくれた。
優子が起きたのは午前八時頃というから、その前にしーちゃんは起きこっそりこの家を出たのだ。
しーちゃんがいなくなって学校に行けば会えると思って何日か登下校の時間に合わせ校門の前で待ち伏せしたが、彼女は見つからなかった。
ある時、何度か車でしーちゃんを迎えに来た時に顔を合わせたことがある子が目にとまった。
向こうもこちらに気づき一瞬気まずそうな表情を見せたが構わず距離を詰めた。
そこでしーちゃんが学校を辞めたことを知らされた。理由は分からない。
ただ、学校では結構浮いていた存在だったらしく、言い難いけどと前置きをされ、僕とのことも合コンで出会ったということから印象悪く言われていて、「わ」ナンバーの彼氏と馬鹿にされていたとも教えてくれた。
そんなことを言われていたなんて。
思考が止まってしまい黙って立ち尽くしてしまった。「気分を悪くされたらごめんなさい、それでは」と教えてくれた子はその場を離れていった。
その子が見えなくなるギリギリの所で正気を取り戻し、彼女の居場所を知らないか訊いた。
「しりません。あ、あと余計なことかもしれませんが、結構男癖が悪いって噂でした。他に何人か付き合ってる人いたんじゃないですかね」その言葉に立ち尽くしそこから物理的にも比喩的にも動けなくなった。