第四話 夏の終わり
恋の終わりは夏の終わり。
少し肌寒い風が吹いている。
きっと夕日と共に夏は明日へ消え、朝日と手を繋いで秋が来るのだろう。
夏は短いものだ。このままでいいのだろうか。
僕が今、何もしなくても明日はくる。
大袈裟にいうと僕が死んでもそれは変わらない。
その自然の摂理がなんとなく今は残酷なものに思えた。
何もしないのは僕で、勇気が無いのも僕で、臆病なのも僕で、変化を求めていて、変化を得るためには何か違う行動をとらないといけないことは分かっているはずなのに動けない自分が情けない。
なんと愚かなのだろうか。
愚か者は同じ行動で違う結果を求める。
自分の愚かさが、時間が刻まれれば刻まれるだけはっきりくっきり浮き彫りにされていく。
変わるのではなかったか。止まりたくないと強く思ったではないか。
そうだ、三つ編みの彼女があんな必死に卒業検定という大事な舞台を使って教えてくれたじゃないか。
ここにいちゃいけない。止まってちゃいけない。
ここにいたら月日が僕から彼女を遠くに連れ去ってしまう。
同じ場所に留まるやつは欲しいものを絶対に手に入れられない。
だいちゃんは自分の過去を教訓にしてくれと僕に話してくれた。
素人がサッカー部を翻弄し周りからチヤホヤされる場所から出る勇気がなかったこと、そしてサッカー部のマネージャーをしていた意中の女の子にも三年間何も出来ずにいたこと、サッカー部に入れば関わりを持てたし想いを伝える機会も増えたはずだろう。
サッカー部に入ったとしても想いを伝えることが出来たかと言われれば自信がない。けど、サッカー部に入らずに居心地いい場所から離れなかった。
その時点で彼女と自分が交わることは永遠に断たれていたんだろうと思うと、悔しそうに苦しそうに話してくれた。
卒業式の帰り道、サッカー部の男と彼女が一緒に帰っている姿が最後に見た彼女だったとも。
ここにいちゃ駄目だ。
イギリス空軍特殊部隊のモットーはリスクを冒す者が勝利するだ。
ここにいちゃ駄目だ。
僕は行くよ。もう、止まらない。走るよ。愚かな僕がいるここには戻らない。
行くべき処へ向かうよ。リスクを冒すよ。
ありがとう。だいちゃん。
ありがとう。三つ編みの彼女。
ありがとう。イギリス空軍特殊部隊。
僕はやっと走り出していた。
期待を込めてその先の大きな光へと向けて。
ハアハアと息を切らす。両手を両膝にあて呼吸を整える。垂れ下がった頭。目先に映るのはワックスのかかったリノリウムの床。汗が数滴垂れた。まさにこれから起こる青春の雫。
キラキラと輝いている。
頭を上げれば見えてくるだろう。
彼女が。
はにかみの妖精が。
呼吸が落ち着いてきた。
心臓はまだドクドクと忙しない。
きっとこれは走った後だからだけではない。
勇気を振り絞りゆっくり頭を上げた。
彼女がそこにいた。
はにかんではいない。
びっくりもしていない。
それは、どういう表情なのかはうまく読み取れない。
彼女はただじっとその何も知らないようでいて、全てを知っているような目で僕を見つめている。
これから起こることを恐らくもう知っているのだろう。
その時をゆっくり待っている。
「あの・・」
自分でもびっくりする程声が小さい。彼女は何も言わない。
「あの、僕のこと覚えていますか」
その問いに何かを恐れるように、疑うように小さく頷いた。
覚えているけど何か?と、いうような。
彼女は何も言わない。
「仕事終わった後、話せませんか」
こんなはずではなかった。
最後まで声が出なかった。
それは、とても幼く響き彼女との距離を明確にしていった。
皮肉にも声を出せば出すほど、彼女へ想っている気持ちを表現すればするほど彼女は遠のいていくだろう。
告白とはそういうことなのだ。
フラれるとはそういうことなのだ。
彼女の顔は強張りそして首をゆっくり横に振った。
彼女は何も言わない。
終わった。
一礼してその場から離れた。走った。とにかく走った。この現実を全て振り払うように。ハアハアと自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえていた。
暫く走った後、気がつくと呼吸は嗚咽に変わりその場にしゃがみ込んでいた。
涙を流し声に出して泣いた。
声に出して泣くのはいつ振りだろうか。
何を思って泣いているのかはっきり分からない。
ただ、何か大きなものを失った喪失感に対しての反射のような気がする。
今日の出来事は月日が流れれば少しづつはっきり見えてくるのだろう。
取り合えず今は泣くに任せよう。辛いことがあったのに違いないのだから。
俯くと目先の景色はアスファルトになっていた。
結局、好きとは言えなかったんだな。
点々と色を濃くするアスファルトが失恋をしつこく知らせてくれていた。
夏休みが終わり通学が再開された。
駅から学校までの道のり。
免許を取得する以前は負け組の道で肩身狭く歩いていたが、今は違う。
そう、免許を取得したからだ。
徒歩に変わりないのだが免許一つでこうも心に余裕を持てるのは、準備出来ている者の特権とも言えるだろう。車さえあればいつでもどこでも運転出来る準備が僕には出来ている。
それは、右ポッケの財布の中で静かにその時を待っている。
ふと、今、自分はどういう顔をしているだろうかと気になった。
何かの会社の駐車場にベンツとヴィッツが並んで駐車されているのが見えた。
ベンツはEクラス、ヴィッツは初代の型だ。
迷わずベンツのサイドガラスで自分の顔を確かめた。ベンツのサイドガラスに映る自分の顔を見たその刹那、まずいと思った。非常にまずい。
何故ならあの頃と同じ顔をしているのだもの。
あの頃というのは、何をやらせても人より上手く出来て、男子からは羨望の眼差しのそして、女子からは好意と尊敬の眼差しのシャワーを浴びていた時のことだ。
あの頃の僕は何をやるにも準備が出来ていた。誰よりも上手く出来る準備が。
そして女子にほっとかれない準備が。
リコーダーも誰かに舐められていたかもしれないし、上履きの臭いも匂いと変換され嗅がれていたかもしれない。でも、その覚悟も出来ていた。
もし、自分のリコーダーを舐めている女子を見つけていたなら鍵盤ハーモニカも差し出しただろう。
もし、上履きを嗅いでいる女子を見つけていたなら外靴も差し出しただろう。
そんな余裕と自信があったのだ。
そんな余裕と自信が僕を寛大にさせさらに女子の好意を煽ることになっていた。
ベンツのサイドガラスに映る僕はあの頃の自分の余裕と自信を彷彿させていた。その姿はベンツに相応しく映った。ヴィッツのガラスだったらそんな余裕と自信に充ち溢れている僕を映すのに耐えられなかったかもしれないなと、今の僕であれば冗談とも判断がし兼ねない冗談を心の中で独りごちた。
去り際、一瞬はにかみの妖精が頭に過った。
ドキッと心臓が反応する。まだ僕はと、思って直ぐそれを打ち消した。
もう何も思っていない。そう、自分に言い聞かせた。
フラれたあの日から数日経った頃、僕はまただいちゃんの元へ向かった。
だいちゃんに言われた通り告白したら見事に玉砕したことへの抗議の為か、単純に慰めて欲しくて向かったのかよく覚えてないが多分、後者だっただろう。だいちゃんはその日も車をジャッキにかけ何かをいじっていた。
僕に気付いただいちゃんは、おぉとスパナを持ったまま右手を挙げた。
曖昧に返事をした。
もしかしたら、ちゃんとした返事になっていなかったかもしれない。
ただ、僕を見ただいちゃんが直ぐに僕がフラれたということを見抜いたのは覚えている。
「駄目だったのか」
神妙な顔で充分な優しさを含んだ声で投げかけられた言葉。
その一言で心身全て優しさに包まれた感覚に陥った。
だいちゃんは分かってくれている。
そう思うと同時にだいちゃんに駆け寄っていた。
だいちゃんは駆け寄った僕をしっかり抱きしめてくれた。
スパナが落ちて甲高い音を響かせた。
年甲斐もない行動だと思った。
初めての失恋。
人の目もプライドも過去も未来も憚らず大声で泣いた。
ダメだった、ダメだったと何回も言った。どうしてくれるんだとも。やっぱり抗議の気持ちもあったのだ。
だいちゃんはそんなあまりにも幼稚で理不尽な僕の抗議を黙って受けとめてくれていた。
どれくらい経っただろう。長い時間だいちゃんおの胸の中に顔を埋めていたように思う。
「落ち着いた?」
そう訊ねるだいちゃんの声は柔らかい。「うん」と、辛うじて返事をし、顔を離すとあろうことか鼻水がびよんと伸びた。これは自分の鼻水ではないと頭では否定するものの、鼻水を辿るとしっかり僕の鼻の穴からでていることがわかる。動かざる確かな証拠。空き巣の現場に足跡を残しみつかってしまう泥棒のような惨めで情けない状態と良く似ていた。
「おまえ、汚なっ」
だいちゃんは僕を突き飛ばした。二、三歩よろけ後退し、鼻水はさらにびよーんと粘り次第にに粘力を失くし、ぷつんと切れた。
幸いにも透明なそれはだいちゃんの右胸に不快な光沢を放ち付着していた。もう一方は自分の鼻の右穴から下唇までびよーんと垂れていた。
だいちゃんは、自分の右胸を顎を引いて目を細め確認している。
僕はあえて真顔で洟を垂らしたまま、真っすぐ一点を見つめていた。
その異様な光景に気付いただいちゃんと目が合うや否や、だいちゃんは吹き出した。
お前の顔なんなのよと、腹を抱えて笑うだいちゃん。
目の前で抱腹絶倒するだいちゃんをみているとつられて愉快な気持になってきた。また、昭和初期の虫取り少年をイメージしていた僕はその自分の姿を客観的に想像しさらに可笑しくなってついに声を出して笑った。
一度笑いだしてしまうとなかなか止まってくれない。
やっと落ち着き二人ははぁと、溜息を吐きだいちゃんは疲れたと、目じりの涙を拭った。
「どうしてくれるんだよ。これ」
透明な光沢の部分を突き出しながら言った。
「オイルで汚れているんだからいいじゃん」
「何、開き直ってんだよ」
軽く頭を小突かれた。
開き直る。か。
「元気になったみたいだな」
そう言いながら、落ちたスパナを拾う。
「なんでわかったの。その・・・」
そこまで言って、言い淀んだ。太陽を直視することが出来ないように、フラれたという現実にまだちゃんと向き合うことが出来ていない。
少しでも考えると傷が焼けるようにジンジンと痛む。
「フラれたことか」
だいちゃんはそんな僕の心境を知ってか知らずか、容赦なく太陽を翳してくる。
「そりゃわかるさ。この世の全てに意味を失くしたような顔してたからな」
そこまで言って、何かを考えるように右手で口を覆った。そして、ちょっとこいよとガレージの奥に招かれた。言われるがままにガレージの中に入って行くとアウトドア用の椅子がニ脚置かれているスペースがあった。
適当にとでも言うように椅子をスライドさせて僕の近くに寄こす。
ほぼ同時に腰を下ろした。
「よく頑張ったな」
優しさに充ち溢れた声が降って、優しさを宿した眼差しに照らされる。
何かが芽吹きそうだ。
「でもよく一目惚れで、よくもまあそんなに落ち込めるよな」
確かにそうだ。何故、僕はこんなにも落ち込んでいるのだろうか。よくも知らない受付嬢に。
きっと、一目惚れでも好きになった以上、好きという感情に変わりはないわけで、それ故にその感情の副作用も変わらない。だから、一目惚れとか、良く知らない人とか関係ない。
だいちゃんの言葉の意図は分からないが、きっとそういった恋のメカニズムのことじゃなくて、どうしてよくも知らない受付嬢に恋の副作用が出るまでの本気の恋をしてしまったのかだ。
どうして僕はよくも知らない受付嬢を好きになったのだろう。
彼女を好きになる前の自分が思い出せない。
確かに可愛いなぐらいに思っていたけど、ただそれだけだった。
それ以上に何かを期待はしていなかったはずだ。
ああ、そうか。僕は期待してしまったのか。
一体僕はいつ期待してしまったのだろう。
その日その時を思い出すためにじっくり過去に思いを巡らせた。そして、辿り着くのは、あのトマトのように顔を赤らめてはにかむ受付嬢の姿だった。
きっと、あの時。
電話番号を渡したあの時に見せた彼女の驚きと照れが混じった反応とはにかみに、僕は一瞬にして期待してしまったのだろう。連絡が来るかもしれないと。
そしてそこからの進展を。彼女との繋がりを、彼女とのこれからを僕は期待してしまった。
「こんな気持ちは初めてだよ」
気持ちが振り返して声が上ずる。
「その気持ち知れて良かったじゃん」
はっと、だいちゃんをみた。スパナを左手にパチパチと当てながら真っすぐ僕をみている。全てを受け入れ、認めてくれているような微笑みを浮かべている。
涙がまた溢れ出た。
さっきあれだけ泣いたのにまだ出ることに驚く。そして、思う。
どうしてだいちゃんは、言ってほしいことを言ってくれるのだろう。
好きな人にフラれると自分の価値がまるで無くなったように感じてしまう。惨めで、情けなく、恥ずかしい。穴があれば、例えその穴に冬眠中の恐ろしい熊がいたとしてもなんとか追い出して、穴に入るだろう。自信を失くし、全ての色も無くなった。
色鬼をしたら永遠と鬼をやることになるだろう。
明日が来るのだろうか、真面目にそう疑問を抱いた。怒りや憎しみ、そして絶望に支配されながら歩いた。足取りは覚束ない。そんな状態で辿り着いたのがここだった。
行き場のない気持ちをぶつける相手がだいちゃんだった。
だいちゃんからしたらいい迷惑だ。
だけど、だいちゃんは傷心した僕を一目で理解し、僕の気が済むまで黙って待ってくれた。だいちゃんの温もりや眼差し、声は言葉以上に愛を実感させてくれた。そして、僕が正しい方向を向けるように慰め、励ましてくれる。
「その気持ち知れて良かったじゃん」心の中で何度も反芻する。
その一言が僕の失恋に意味を持たせてくれた。悪いことをしたわけではないのに、許されたような気持ちがした。
「でも、ほんと凄いよ。一目惚れでそんな苦しんでるって。それだけ本気だったという証拠。誠実に真っすぐに想っていた証拠だよ。誰かをそんな風に想えるお前は大丈夫だよ」
何が大丈夫か分からなかったけど、うんうんと頷いた。涙は止まらない。
「フラれて人は磨かれるんだ。大事なのはそこからどう立ち上がるかだよ。必要以上にネガティブになったり、卑屈になったり、怒りや憎しみに変えてはいけない」
ドキッとした。僕の態度はどうだろうか。告白しフラれ、この世の全てに絶望し、自分の価値を疑い、だいちゃんに八つ当たり。冬眠中の熊を追い出すことさえ考えてしまった。
当てはまり過ぎて笑える。
どう立ち上がっていくか。それが今の僕に与えられた課題だ。目に溜まった涙を拭いだいちゃんを見た。にかっと笑っただいちゃんは、何度も大丈夫、大丈夫と言った。
なんだよさっきから大丈夫って。
便利な言葉だな。だいちゃんの便利な言葉の多用や、乱用に若干の不信感を持ったが次の言葉によって、その不信感は主役に吹き飛ばされて飛んでいく悪役のように遠くの空の彼方にきらりと光って消えていった。
「今はいいんだよ。もちろん落ち込むさ。落ち込んだらネガティブにもなるしイライラもする。それは分かるよ。ただ、その思いに囚われてはいけない。ルパンのように逃げ切るんだ。それに囚われるとネガティブの牢屋行きだ。そこは自分の可能性を封じ込めてしまう暗くて陰鬱な場所なんだ。覚えておいてほしいのは、そういったネガティブな思いは何も生まないし、誰も得をすることはないということ」
だから、と、言いながらだいちゃんは立ち上がった。
見上げるとだいちゃんが真っすぐ僕を見つめていた。
「だから・・・」
堪らず先を促した。待ってましたと言わんばかりに満面の笑顔を浮かべ、息を沢山吸い込んだ割に抑えた声で言った。
「心を静めて、時が過ぎるのを待て」
そういうと、また椅子に座った。
意味が分からない。そしてなんなんだ、あの表情は。全てを悟った僧侶のような、無表情にも穏やかに笑っているようにも見える。そんなだいちゃんを見つめていると不意に、僕はだいちゃんのことを知っているようで知らない。そう、思った。
「つ、つまり・・・」
僧侶のような表情で佇んでいるせいで妙な緊張が作りだされ、つい言葉がどもってしまった。だいちゃんは三秒僕をを見つめた後に、酷く優しい声を出した。
「無理して立ち直ろうとしなくていい。 要は、普通に生きろ」
胸に落ちてからバウンドしてそのまま出ていってしまったような言葉だった。
残されたのはなんとなく理解したという感覚だけだ。吹き飛ばされたはずの悪役が落ちてくる影が天空にちらつきを見せる。全体的に良く分からないことを言うだいちゃん。
でも、一つはっきり分かるのは僕を励ましてくれているということ。
そこに気がついた時、不信感という悪役は風に流され消え去った。最初は八つ当たりのつもりだったが、今ではありがとうと、素直に思える。黙って泣きやむのを待っていてくれたり、話を聞いてくれたり、理不尽に八つ当たりや不快な光沢を放つ洟水さえも受け入れてくれた。自分もいつかこんな人になりたい。やる気が漲ってきた。
ありがとう、だいちゃん。これで明日を想像できるよ。
ガレージの窓の向こうにオレンジに染まった空が見えた。だいちゃんは何かをまだ話しているようだ。
もう少しで夜が来る。そんな当たり前のことを意識して穏やかに待ちわびた。