第三話 思いは、思いのままで。
夏のど真ん中。それは起こった。なんと、僕の担当だった妖怪教官は途中で市内にある別の自動車学校に転勤になったのだ。その青天の霹靂は妖怪教官自らの電話で落とされた。
「ごめんな。最後まで見れなくて」
予想外の優しい言葉。教官、それはずるいですよ。今までの教官と車内二人きりの日々がその瞬間鮮やかに蘇ってくる。
辛かったあの日々。負の言葉で車内一杯にされ、酸欠になりそうだったこと、無言の圧力や厭らしい目つき、辛かった。辛かったはずなのに、嫌いだった。嫌いだったはずなのに。
気づいたら両目から涙が溢れていた。
教官、最後まで嫌な嫌いな教官でいてくれよ。教官が電話越しで言ってくれた数々の励ましの言葉は、心の隅々に沁みこんだ。何か言わないと、でも、今のこの気持ちを言葉にするには時間が足りなかった。
何か言わないと。
「あ、あのっ・・・」それは、まるで大好きな女子への長年の想いを伝えるのに、今しかないというタイミングを逃してなるものかとありったけの勇気を使って放つ「あの」のような切迫感と緊張感を帯びていた。うん?と語尾が上がりと吐息交じりの恐ろしいくらいの優しい声が返ってきた。
気持ち悪いと思った。でも、今はそれ以上に今までの感謝を伝えたい気持ちが勝ったので負けじと恐ろしく優しい声音を使って感謝を述べた。
「先生は物静かで全然声を発さないし、発したとしても注意ばかりだし、その見た目も相まって怖い人なのだと思っていました。けど、今の今、本当は優しい人なのだとわかりました」
今かよと笑い交じりの声が聞こえる。教官に最後まで面倒みて貰いたかった。でも、もうそれは叶わぬ夢。教官は転勤する。覚悟を決め最後の別れの言葉を放った。
「シフトチェンジの時、手が滑って僕の左手が教官の右太腿に触れた時ありましたよね?教官は覚えていないかもしれないけど僕、あの時思ったんです。教官は一見体小さくて線も細いですけど、脚はびっくりするほど筋肉質でしっかりしていて、もっと触れていたかった。いや、握りたかった。がっと鷲掴みにして三八キロの握力を全て使い気が済むまで教官の脚を握りたかったんです。教官、本当にありがとうございました」
溢れる涙のように言葉が溢れ出た。そして、すぐ後悔した。
ボクハナニヲイッテイル
時々、こういうことをしてしまう。思ってもいないことを咄嗟に言ってしまうことが。つまり、ふざけすぎてしまうのだ。
恐る恐る右耳を電話の向こうに傾けた。電話は切れていた。
これが、教官との別れだった。
翌日、自動車学校に行くと代わりの先生は眼鏡をかけているということぐらいしか特徴がない男だった。
それから特徴の無い眼鏡教官と特徴の無い運転教習の日々を送った。
車内は負の言葉で埋め尽くされることも無くなり、シフトチェンジで手を滑らせることも無くなった。車内に退屈なほどの平穏が訪れたのとは対照的に自動車学校内での時間が穏やかでは無くなっていた。
はにかみの妖精のことでだ。
はにかみの妖精に結局何も出来ずにいた。
時々、はにかみの妖精から視線を感じることがある。
それは本来ならば浮かれて優子に勿体ぶって話す出来ごとなのだろうが、今は何もなくただ、視線を感じているわけではない。
自分のことに気付きそして意識しているということが気まづさを生みだす背景がある。
気まづい思いがそう感じさせているのか、はにかみの妖精から避けられているような気がしたし同僚とこちらをみてコソコソ噂されているような気もした。
あの人に連絡先貰ったんだよね。えーうそー、で、どうしたの?連絡したの?連絡?まさか、しないよ。
そんなやり取りを勝手に想像してしまう。そう考えると、そう見えてきてとてもだいちゃんが言うように直接告白するなんて出来やしない。
彼女が視界に入ると蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ出来なくなる。
はにかみの妖精を蛇に例えてしまった罪悪感にも責め苛まれ吐き気を感じる。
正しく言い直す。
はにかみの妖精に睨まれた蛙。妖精VS蛙。
なんとかしてくれハリウッド。
日々、精神が追いつめられ映画産業中心地に助けを求め始めた時、気がつくと卒業検定の日を迎えていた。
自分を含め三人の受験生と教官、計四人が教習車に同乗し、決められた教習路をローテーションしながら運転し走行する。
最初に運転するのは三つ編みの似合わない眼鏡をかけた物静かそうな女性だった。
僕ともう一人の受験者は後部座席に座った。
教官が三つ編みの女性にリラックスしてねとかそんな類の言葉をかけていた。極度の緊張を持っている時にそういう類の言葉をかけられると男に免疫の無い人であれば簡単に落ちていくのだろうと失礼ながら思ってしまった。
これが教習所マジックという現象なのか。
教官は男に免疫が無い人ではなくてもコロッと落ちていきそうな二枚目だった。この自動車学校では有名な教官で、女子大生に囲まれて爽やかに笑っている姿は芸能人さながらだった。その光景を何回もみてきた。
そんな二枚目教官の優しい心遣いの言葉に三つ編みの彼女は、ええとうんが混じったような、何となく返事として音を出したような曖昧な返事をした。緊張が伝わってきてその緊張は緊張を呼び後部座席で増大した緊張は次第に車内を圧迫していく。
三つ編みの彼女の三連続エンストで卒業検定が開幕された。
プレイボール。
マニュアル車にはクラッチというものがついている。エンジンで生み出した動力をトランスミッションに伝達させたり遮断するのが、クラッチの役割だ。トランスミッションに伝わった動力は最終的にタイヤに伝わって車が動く。なので、車の発進にはこのクラッチの使い方が重要になってくる。
三つ編みの彼女はギヤを一速にいれクラッチを繋げていく。
エンジンの回転数をあげ半クラッチをうまく使ってクラッチ板とフライホイールを擦り合わすように繋げていくイメージで繋げるとスムーズに車は発進する。しかし、三つ編みの彼女は半クラッチができないよだ。一気に繋げてしまいエンジンの動力よりクラッチの抵抗が上回り結果、エンストを引き起こすことに至った。
その度に、教官は厳しくも優しくもない口調ではい、もう一度と、だけ言った。
三つ編みの彼女は、「はい」と、と申し訳なさそうに返事をし、発進させるのに奮闘した。四回目にして車はガッコンガッコンと発進した。教官がおぅ、おぅと揺れに合わせてオットセイのように声をあげた。
ごめんなさいと、三つ編みの彼女。
後部座席の僕は手すりをしっかり両手で握りしめながら明日は我が身という気持ちでいた。もう一人の男も同じ体勢でいたので、きっと気持ちも同じだろう。
ようやく発進し車が安定してきた頃、教官がボソリと呟いた。
「発進出来ればもう大丈夫」
三つ編みの彼女は確かに、発進こそぎこちなかったが動き出してしまうとそれからはトントンと軽やかにシフトチェンジをし、安定した走りを披露した。一定のスピードで流れるようになった窓の向こうを何となしに眺めていた。
そして、想う。彼女のことを。
当たり前のように。あの、はにかんだ笑顔、顔を赤らめる彼女、綺麗なふくらはぎ、全てを知っているようで全てを知らないような目、長い睫毛、細くて長い指。
何より自分にあのような行動を起こさせること自体が彼女の魅力の証そのものだった。
あぁ、好きだ。
心の中で思ったつもりが丁度そのタイミングで「あぁ」と声が聞こえた。
しまった。心の中の想いが恋の妄想でだらしなくなった口から表に出してしまった。と、一瞬焦ったがその「あぁ」の出所が自分ではなく三つ編みの彼女だとわかり安心した。
前方を眺めると交差点がある。信号は赤だった。三つ編みの彼女の「あぁ」の意味が彼女自身の言葉で理解できた。
「止まりたくない」
一度止まってしまうとまた発進がある。
発進は機械的にも三つ編みの彼女にとっても一番エネルギーがかかっている。
三つ編みの彼女は信号が青になるまでの間落ち着きなくシフトレバーを握っては離すのを繰り返していた。その落ち着きない所作を何となしに眺めているとまた、はにかみの妖精が浮かび上がってきた。
僕も、止まりたくない。
「ん?何言ってんの?」
隣の男の声で我に返る。どうやらこれは本当に声に出してしまっていたらしい。
次の自分の番になった時の話と、早口でまくしたて、そして顔の前で大袈裟に手を左右に振り誤魔化した。
いかん、いかん。これは重症だ。心の声が無意識に声に出してしまうなんて。
どうしてくれる。はにかみの妖精よ。
彼女に想いを寄せている内は、セルフサトラレになってしまうのではなかろうか。そんな一抹の恐怖を感じながらトマトのように顔を赤らめはにかむ受付嬢の顔が思い浮かぶ。アーモンドのような綺麗な形をした全てを知っているようで全てを知らないような目で真っすぐ僕を見つめている。
魅力的すぎるその眼差しに吸い込まれていきそうだ。
その吸引力はダイソンをも凌ぐではなかろうか。
もう、どうなってもいい。君の一部になれるのであれば喜んでこの身を差し出そう。
出し惜しみなんてこれっぽっちもせずに。そして、その甘美な引力に身を任せようと徐々に力を抜いていったところでガッコンと衝撃が起こった。
三つ編みの彼女があたふたしている。エンストだ。
その光景に一気に現実に引き戻された。
高鳴る鼓動が余韻を語っていた。
官能的ともとれる感情がふんわりと漂う。
その感情とあたふたしている三つ編みの彼女を交互に意識する。
止まりたくない、止まっちゃいけない。
今度は、口に出さなかった。
三人とも無事実技をパスした。
後は筆記試験を合格すれば免許取得だ。
もう少しで見えてきた念願の免許。
ずっと夢見てきた免許だ。
免許取得すればこれで僕も勝ち組の仲間入り。
駐車場ではボンネットを開けて何かをチェックするフリをしたり、仲間で連なりながら走ったり、夜はレースに興じたり。良く晴れた週末には助手席に女の子を乗せてデートして、アクセルを踏み続けてこのまま君を何処かに連れ去りたいと歌うのだろう。
そんな涎の垂れそうな妄想に浸り、涎が垂れないうちに筆記試験もパスし念願の免許を取得した。
例え超激レアカードのひかるコイキングとかブラックマジシャンのパラレルとか、そんな類のカードを目の前でちらつかされても決してこの免許は渡さない。
免許証の右上にある縦三センチ× 横二・四センチの枠に収まった自分はとても男前な表情を浮かべていた。
高校三年生の冬に入学した自動車学校。イライラ棒のような空間を創ってくれた妖怪教官。
その厳しさと圧力に一度泣いてしまったこともあった。
汗か?と妖怪教官に尋ねられ「はい」と、答えた。
でも、あの涙は妖怪教官の厳しさで流した涙というよりは自分の出来無さに対する悔し涙であった。
突然の妖怪教官の転勤で途中から担当教官が代わった。
いざ別れるとなるとあんなに嫌いだったはずの妖怪教官に対して寂しい感情が生まれていた。
妖怪先生、僕は卒業したよ。免許取得できたよ。行けてない時期もあり半年以上も通った自動車学校。免許を取得した者には行く意味を無くす自動車学校。
結局、はにかみの妖精に想いを伝えることは出来なかった。