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曲を奏でる無人のピアノ   作者: 志民 晃一
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最終章 曲を奏でる無人のピアノ

 泊まるところを決めていなかった僕は初めて車中泊をした。牧田先生はしきりに家に呼んでくれたけど流石に気が引け、遠慮した。

 牧田先生はすぐ戻ると約束をしてくれた。また、片山ピアノ教室に復帰できるように片山先生と既に話していて、いい返事をもらっているらしい。ニヤニヤと笑みを湛える片山先生が浮かぶ。

「じゃあ、先に戻るよ」

「本当に大丈夫?ちゃんと寝れた?」

「大丈夫だよ。今日バイトだから」

 牧田先生の目が大きく見開いた。急遽、亀井君が欠勤になったらしく、遅くなっても出勤してほしいと主任から連絡があったのだ。

「冗談でしょ。今日?」

「大丈夫。大体お昼過ぎくらいには着くから」

「無理しないでよ」

「ありがとう。待ってるから」

「うん。わたしも戻る準備してすぐ向かう」

「待ってる」

「うん。待ってて。渋谷駅の前で」

「来てくれるんでしょうね」

「ふふ。道気をつけてね。真っすぐだからって油断しないでよ」

「ありがとう。気をつける」

「じゃあ、また後で」

 また、近い場所で過ごせると思うとそれだけで幸せが体内に分泌される。この一時の別れさえ名残惜しく、そして寂しいと思ってしまうのは、幸せ成分の副作用かもしれない。

 車を走らせ、ミラーの中で牧田先生が小さくなって見えなくなる最後まで見届けた。最後までいてくれた。牧田先生が帰ってきたら、ピアノを弾こう。僕のピアノを。コンクールで演奏した「月の光」を。


 どうしてこうなるんだろう。こうなってしまうんだろう。それは、唐突で脈絡もない。僕は弱くて愚かだ。最後に思うこともわからないまま。

 つまりは、ここで僕の人生は終わったんだ。


 電話に出た母が、みるみる表情を強張らせ、その表情と声が緊迫感をもたらす。

 何事だろう。早く受話器を置いて事情を説明してほしいと、落ち着かない。やっと受話器を置いた母が顔を強張らせたまま力なく言った。

 ハルが事故に巻き込まれたと。

 まさか。

 牧田先生に無事会って、今日帰ってくる予定だった。なんでそんな時に事故るのだろう。

「大丈夫なの?ハル君」

「意識不明ですって。すぐ病院向かうわよ」

 血の気が引いた母の顔をみて、段々と事の重さがのしかかってくる。朝のランニングから帰ってきた父に母は事情を伝え、父は直ぐに車に向かった。

「どうしてまたそんな遠くに」

 道中、静かに父がそう漏らした。

 それ以降、車内に声は発せられることはなかった。

 一昨日、名推理を披露して、昨日行ってくると車で出発して、牧田先生に会って無事付き合うことになって、今、意識不明。それらが上手く結び付かない。このままなわけがない。

 きっと、回復するだろう。まだ、心の中でそう思っていて出所の分からない余裕があった。だって、もし回復しなかったらどうなるんだろう。回復しなかったら、その先に何があるのだろう。全然分からない。全然結びつかない。絶対そんなことはない。回復しないわけがない。本当によくわからない。

 何度か休憩を挟み、その間何度か母が携帯電話で誰かと話をしていた。

 医者か警察か。

 母は不思議と電話を受けて誰かと話す度に、落ち着いていったように見えた。

 でもそれが、逆に胸をざわつかせた。

 牧田先生にそのタイミングでメールを送った。

 病院に着くと母が涙を零した。父に抱きかかえられるように小走りで入口に向かうその二人を抜かないように着いて行った。一番にそこに辿り着くのが怖かった。

 病院に入ると牧田先生が既に来ていた。真っ赤にした目をこちらに向けて両親に頭を下げた。牧田先生と、声を詰まらせ母が言う。

「こっちです」と、牧田先生が先導してくれる。

 パタパタと足音が響く廊下。病院の臭い。体が本能的にそこに行くのを拒んでいる。病室の近くまで来て、牧田先生は腰を抜かすようにその場にしゃがみ込んでしまった。

 病室から看護師が出てきて、両親を見るなり何も確認せずこちらですと病室に案内した。わたしはその場から一歩も二歩も、もっと後方で動けなくなってしまった。

 これは一体どういうことなの。

 何が起きているの。

 二人が入って行った病室から母の泣き叫ぶ声が廊下に響いていた。


 目の前に広がるどこまでも続く一本道。左右には何もない広大な大地が空と同じくらい広がっている。見知らぬ土地の真っすぐが一番不安にさせるのだが、今は違う。通るのが二度目だということもあるが、それだけじゃない。そう、それだけじゃない。

 圧倒的に違うのは、一番大好きな人の声を聴けたこと、一番大好きな人の顔を見れたこと、一番大好きな人と時に、言葉以上に気持ちを伝える無言の作法で気持ちを交わらせたこと。一番大好きな人が僕を想ってくれていること。

 これはとてつもない奇跡だ。

 早く帰って優子に伝えたい。きっと驚くだろう。

 親にも紹介しよう。きっと喜ぶだろう。

 片山ピアノ教室に本格的に通ってみようかな。きっと楽しい時間になる。

 ガソリンスタンドのバイト頑張ってみよう。正社員を目指すのもありかもしれない。

 とても今、僕は幸せだ。前向きだ。

 ずっと先に対向車が見える。久し振りの対向車だ。段々と影を大きくするその対向車は長距離トラックだ。キャビンの上に三連に並ぶ緑のランプが備わっている。昔、渋滞に巻き込まれた時に、対向車のトラックの緑のランプがいくつ点灯しているか、いちいちよく数えた。最近ではすっかり見かけなくなった。

この緑のランプの詳しいい意味はよく分かっていなかったが、確かスピードを表しているはずだ。緑のランプが三つ全て点灯している。結構スピード出しているんだな。その勢いで真っすぐ走り抜けてくれれば良かったのに。あっと思った時にはそのトラックが目の前の僕の視界を塞いだ。


「あれ?もしかして和山さんの妹さん?」

 そう声をかけられはっと前を向いた。綺麗なアーモンドの形をした目が微笑んでいる。

「兄を知っているんですか?」

「やっぱり。妹さんだった。そこまで知っているという間柄ではないんですが、和山君もここで免許取ってたから。個人的に印象に残ってて」

 これは、もしかしてお兄ちゃんが告白し玉砕した受付嬢みたいだ。お兄ちゃんは随分な所に特攻していくのだと感心した。

「あーそうです。兄もここでお世話になってて」

「お兄さんは元気にしてますか?」

「あ、ええ」

「それなら良かった」

 俯く彼女の頬が赤みを帯びているように見える。

「これからわたしも宜しくお願いします」

「あ、実はわたし今週で最後なの」

「辞めちゃうんですか?」

「実は産休で」

 そう言ってお腹を触った。見た感じまだ妊娠しているとは分かりずらい。

「凄い。おめでとうございます」

「ありがとうございます。実はね和山君に告白だったのかな。多分。されたことがあって」

「あ、なんか知ってます」

「え。知ってるんですね」

「あ、誰にかは分からなかったんですが、なんか受付嬢に恋して精神不安定になっていた兄を思い出しました」

 兄は、常にそんな感じだった。

「ふははは。そうだったんですね。わたしも慣れないことで舞い上がっちゃって結構冷たくあしらってしまったようになっちゃって気にしてたのよ」

 だって、お兄ちゃん。

「大丈夫ですよ。慣れてると思うんで」

「ははは。やっぱり?お兄さんには感謝しているの」

「え?感謝ですか?」

「お兄さんにとっては感謝されて嬉しくないというか、逆に不快な思いを与えてしまうかもしれないんだけど、あ、妹さんも」

「全然大丈夫ですよ。兄はともかくわたしは全然平気です」

「ふふ。ありがとう。和山君がそういう行動してくれたおかげで、今の旦那さんがプロポーズしてくれるきっかけになってくれたから」

 おっと、これは確かに不快だ。

 ふと、そこで受付嬢の視線が外れつられて視線を追うと女子に囲まれたなかなかの顔立ちの教官がいた。なかなかの顔立ち教官は、こちらの視線に気づき小さく手をあげた。無論、私にではなく隣の受付嬢に。

 あぁ、相手はあの人なのか。そう直感する。美男美女。お似合いではないか。お兄ちゃん、ご愁傷様。

「ほんと嫌な言いかたになっちゃってるけど、わたしの人生で間違いなくプラスになった」

「兄に言っておきます」

「ふふ。宜しくお伝えください」

 お兄ちゃん、なにアシストしてるのよ。でも、幸せそうな表情に嫌味はなかった。それを見たら少しはお兄ちゃんも報われるかもしれない。きっとお兄ちゃんもお人好しに良かったと笑うだろう。

 それは美化しすぎだろうか。

 なんとなく彼女には生きてることにしたからね。

 お兄ちゃん。


「ちょっと工具貸してよ」

「また来たのか」

「いつ来てもいいって言ったじゃんか」

「言ったけど学校はちゃんと行ってるんだろうな」

「行ってるよ。給食の時間から」

「おまっ、まあいい」

「もうめんどくさいー。ねえ、このチャリ頂戴よ。どうせ誰も乗ってないんだろ?」

「絶対駄目だ。それは俺の弟の形見だからな」

「弟いたのかよ」

「ああ、そいつもある意味問題児だったけどな」

「ふーん。形見ならしょうがない。自分で作りますよ」

「そうしてくれ。工具は適当に使ってくれ」

「サンキュー」

 また変な奴が来るようになったんだ。お前の族機使用の自転車、親に譲ってもらって店のシンボルにさせてもらってる。そう、店始めたんだ。オンラインで中古車販売を軸にここで整備もしてるんだ。

 そのうちまたふらっと、恋を患ってやってくるんじゃないかって今でも思うんだ。いつでも遊びにきてくれ。

「なんで学校行くようになったんだ?」

「あ?別にいいじゃんか」

「ははーん。好きな子がいるんだな?」

「ばっ、なに言ってんだよ。なわけねーし」

「いつでも相談してきていいからな。俺、恋の相談と旧車しか乗らないから」

 そんな冷めた目で見ないでくれよ。

 見上げると真っ青な空が広がっている。

「さて、仕事しますか」

 んじゃ、そこで見ててくれ。弟よ。


「君は心に底があるかい?」

「底?」

「そう。底。それは愛をしっかり受け止めて感じてそれを大切に保管する場所になるんだ」

「心は愛の保管場所・・・」

「そうだ。心を愛で満たせば寂しいという気持ちはなくなるから。だって同じことを毎回求めるってつまりは満たされてないってことでしょ?そんな喉越しだけの関係に自分を納得させるなんて勿体ないし不毛だとは思わないかな?少なからずそこにあるのは愛じゃなくただの性欲だけだと思うんだ」

 彼はそんなことを言っていたっけ。風俗に来てやることやって説教垂れる親父みたいだと最初思ったけど、彼は本当にそう考えていてそれに基づいて行動しているようだった。そこから出てくる説得力、誠実さがあった。不思議な人だった。けど、彼のおかげで、

「愛されたければ愛すること。愛することを恐れないで」

 よくも今の時代そんなことを真面目に言えたものだ。こっちが恥ずかしくなる。

「あずさー、おやつ食べていい?」

「一日二枚までよ」

「明日はパパのパーティー?」

「そうね。準備しないとね。明日ケーキ作るから手伝ってくれる人?」

「はーい」

 底をみつけた。

 家族という愛の保管場所。


 雨が降っている。外はどんより灰色だ。

 あたしのせいだと、塞ぎこんでいた。

 こんなところまで来させてしまったから。

 思い付きでかくれんぼにして、あたしへの愛をはかる真似を。どうして彼なら来てくれると願って、信じて疑わなかったのだろう。

 どうしてハル君が巻き込まれなくちゃいけなかったのだろう。何もない見通しのいい真っすぐの一本道で。交通量が多いわけでもないこの田舎で。

 どうして彼をあのまま帰らせてしまったのだろう。無理やりにも引き留めて睡眠をとらせればよかった。

 対向車はそのトラックだけだったらしい。

 死んでしまうのが決まっていたみたいで不気味に思った。


 突っ込んでいったのは、ハル君のほうだった。


 片山先生にはせっかくの話だったが、断りの連絡を入れた。片山先生は事情を知ってくれているので何も言わず、逆に慰めの言葉を投げかけてくれた。二度もこのような形で迷惑をかけているのに。片山先生には頭が上がらない。あたしがいなくなるのは教室にとっても問題ないわけでは無かったはずなのに、家族の傍に落ち着くまでいてやりさないと背中を押してくれた。今回のかくれんぼも快く協力してくれた。どこかのタイミングでお礼をしなくてはいけない。

 優子ちゃんにもヒントを隠すのを手伝ってくれたお礼をしないいといけない。ハル君には内緒で優子ちゃんと連絡を取り合っていた。

 ある日、手紙が来た。

 宛名は和山幸子とある。ハル君のお母さんからだ。

 病院で会って以来だ。その手紙の内容が怖くて開封して読むまで少し時間がかかった。少し震える手でやっと開封し便箋を取りだす。


 拝啓、牧田先生へ。

 お久しぶりです。お元気にしていますでしょうか?

 突然の手紙許してね。

 感謝を伝えたくてこの手紙を書いています。

 あの日、息子のハルの為に誰よりも早く病院に駆けつけてくれてありがとうございます。

 自分のことで 精一杯だった私はそれに気づかず、何もお礼も言わず戻ってきてしまって、

 大変失礼なことをしてしまいました。どうかお許しください。

 また、この手紙を送るまでこんなに時間をかけてしまったことも。

 牧田先生も一人でハルの容態を案じていたあの時間は相当辛いものだったでしょう。

 それにしても、ハルは幸せ者ですね。

 素敵な牧田先生に出会えたのだから。

 それは、私達和山家族も一緒です。

 またいつか、遊びに来てください。そして、またあの素敵なピアノを聴かせてください。

 それと、優子にハルとの関係について聞きました。

 本当に嬉しく思いました。勝手に娘と思っています。

 なので、遊びに来てではないですね。いつでも帰ってきてください。

 愛する娘。お待ちしています。牧田先生のご両親の健康もお祈りしております。敬具


 涙が止まらない。

 こんなあたしを娘と呼んでくれることが嬉しかった。

 辛いのはお母さんも。

 みんなそれぞれ辛いけど受けとめて前を向いているようだ。お母さんが前を向いているのにあたしがいつまでも塞ぎこんでるのは違う。

 まずは返事を書くことから始めよう。住所を確認しようと封筒を見ると小さく文字が書かれているのに気がついた。

 パソコンのメールもチェックしてください。

 封をしてから慌てて書き足したようだ。

 パソコンなんてここずっと開いていない。言われるがままにパソコンを立ち上げ、メールを確認した。

 優子ちゃんからメールが来ている。なにやら動画がついているようだ。

 お兄ちゃんにコンクールのピアノ演奏です。観てやってください。

 メールの本文にはそう書かれている。

 ハル君の演奏。

 聴くのは初めてだ。

 何故か緊張している。ダブルクリックで添付された画像を再生する。

 ドビュッシーの「月の光」。荒削りでテンポも正直悪い。それでも不思議と心に訴えかけてくるものがある。不思議な魅力のあるピアノだ。ちゃんと弾けているじゃない。そう思った瞬間また涙が溢れだした。

 和山お母さんに手紙の返事を書くこと、ピアノを再開させること。少しづつでいい。前向きになっていけるように。


 雨上がり、すっかり朱に染まる空を見上げる。

 もしかして、そこにいるの?

 あたしも連れてってくれるって言ったじゃない。本気出し過ぎだよ。

 見つけたと言えるその日まで。


 しんと静まる部屋。

 しんを強調するように、ピアノがそこにある。

 そっと、ピアノを開ける。

 ひとつ、鍵盤をたたく。

 そこに、彼の音がある。

完結いたしました。

また見直し表記の統一だったり、誤字脱字解消していきます。

ここまで、読んで頂きありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄く読みやすく、重過ぎない感じで話が進んでいたけど、まさかの結末でした。 なんで?という答えを明確に与えない感じが、余韻を長く残しました。 よかったです。 初めて芥川龍之介の本を読んだ後の…
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