第二十八話 霧と朱色の大地
約四〇〇キロメートル、延べ六時間のドライブでようやく辿り着いた場所は、どこまでも地が広がっていて、まるでマッコウクジラの大口のように僕を飲みこんでいく。
枯れたような寂れたようなこの場所は、ある一定の層に人気があると、ある記事で読んだことを思い出す。目的地に近付くにつれ、霧を濃くしていく。
完全な孤独と静寂が、僕を不安にさせる。
ようやく目の前に目的地である湖が視界の限り広がり、静かに波を作っている。白鳥が中継地として利用する時期は過ぎてしまっていたが、観光客がちらほら見えた。
車から降りるとひんやり空気が降りてくると同時に、現実が頭を打つ。牧田先生の手掛かりは全く無い。此処に来ればどうにかなると思っていたが、それは冷静になるととんでもない賭けだとわかる。夢中と言えば聞こえはいいが、その成分は無謀で無計画なのかもしれない。
「どうかしてたな」
霧の中、密かに穏やかに揺れる水面を見て心細さが増していく。このまま牧田先生を見つけられず、なにも得られず帰る自分を考えると、その虚しさと悲しさに圧倒されもう自分には帰るエネルギーが残されてないことを知った。
詰まされた王将の駒の気持ちが良く分かる。
大きな声で泣きじゃくりたい衝動に襲われる。
湖の上を進むカモが見えたと同時に、そのカモに優しくしたいと思った。近くの売店でパンの耳が売っている。買って与えよう。そう思い売店に歩を進めた。
ホームレスが公園のハトにパンを与える光景を目にした時、僕はその度に自分で食べたらいいのにと不思議に思っていた。けど、今なんとなくその気持ちが分かるような気がする。与える側になることによって自分の意義を保つということも含まれているのかもしれない。腹とは別に満たす必要が、人間にはあるみたいだ。
古い建物の中に入るとレジの前に鳥の餌用に売られているパンの耳が袋詰めされている。
これをばら撒いて帰ろう。
帰ろう
そう思わざるを得ない状況なのに、そう思う度に力が奪い取られて動けなくなりそうになる。此処に来ることを決めた威勢は、七人兄弟の大家族に与えられた一袋のスナック菓子のように、直ぐに無くなった。
パンの耳が詰められた袋をカウンターに置くと、暇に慣れたおばあちゃんが重たそうに椅子から立ち上がった。
「二百円です」
皺の深い掌に百円玉を二枚渡した。
「丁度ですね。あ、そうだこれも」
そう言って、レシートと一緒にL判サイズの紙を渡してきた。
「これも渡さないといけなくてね。忘れがちになっていけないね。さっきの人には渡せなくてね。ひっひっひ。これじゃ怒られるね」
そうぶつぶつ言っている。
なんのことかと渡されたL伴の紙を見た。
これは・・・。一瞬で衝撃が体を駆け巡った。手が震えている。
「これって」
「こんな辺鄙な場所でね。ここで買い物をする人は殆ど観光客なのにね。買い物する人に渡してくれって頼まれるもんだからね。仕事を増やされていけないね。ひっひっひ」
「おばあちゃん、これ渡してくれてありがとう」
おばあちゃんは少し驚いたような表情を作り、そして笑った。多分、おばあちゃんはこのお礼の意味を分かり得ないだろう。でも、おばあちゃんが気まぐれに渡してくれたこのL伴の紙は僕を救ったんだ。それはおばあちゃん本人が思う以上に凄いことなのだ。何度も頭を下げお礼を言う僕に、おばあちゃんは困ったように笑っていた。
牧田ピアノ教室。
王将は生き延びた。起死回生の伏兵駒を使った羽生名人の妙手を指した気分だ。
霧をかき分け、簡単ではあるが丁寧に描かれた地図を元にその場所へ向かった。市内から離れたその場所は代り映えのない大地の中にあり、少ない目印が重要になってくる。
目印を追っていくと意外にも簡単に見えてきた目的地。大きな一軒家だ。その敷地内の離れを、その地図は星印で指し示していた。
こうなると、今度は緊張が襲ってくる。会いに来て良かっただろうか。迷惑がられてしまうのではないだろうか。そう思うと車の中から動けない。
何十分か逡巡し、背中を押してくれたのは此処までの圧倒的な距離と牧田先生への気持ちだった。やっと車から降りて離れに向かった。砂利敷きの道を進む、じゃりじゃりと鳴る音が心臓の音を紛らわすようだ。自然と歩が早まる。
離れの入口の前で息を整える。この中に牧田先生はいるのだろうか。
勇気を右手の人差指に集めインターホンのボタンに向けた。少年漫画の主人公のように霊丸を放てると錯覚してしまうほど指先に勇気が集まった所で僕はインターホンを押した。ピンポンと家の内で響いていくのが聴こえる。僕は主人公になれるだろうか。いや、王子になれるだろうか。僕を見てどんな表情をするだろうか。僕を見て困るだろうか。何も言わずに僕の前から消えたのは、既にそういう意味を含んでいるのではないだろうか。また、不安の波が僕を襲う。
「ハル君?」
思いがけず後ろから飛んできたその声に驚き振り向いた。
「嘘でしょ。やっぱりハル君だ」
明らかに驚いて顔が強張っている牧田先生がそこにはいた。
やっと会えた。やっと、やっと会えたんだ。見つけたんだ。
「久しぶり・・・」
拒絶されるかもしれない。でも、会えて良かった。そこに、此処に確かにいてくれていることが何より嬉しくて安心している自分がいた。もし、この後拒絶され追い返されても僕は満足と共に帰路につけるだろう。
「意外と早かったね」
拒絶でもなく、困惑しているようでもなく、そこにいる牧田先生は悪戯な笑みを浮かべてそう言った。
「なんだよこれ」
安心して力が抜ける。
「かくれんぼ」
「最初全然気づかなかった」
「でも早い方よ。四、五年は待つことを想定してたのに」
「そんなに・・・え。てか、待ってくれるんだ」
「もちろん」
「もっとゆっくりで良かったのか」
「でも、早い方が嬉しいわ」
「なんでこんなことを」
そこで牧田先生は俯いた。そしてゆっくり顔を上げた。
「あの日、白鳥ボートの中で告白してくれた時あったでしょ」
「うん」
「凄い嬉しかった」
「うん」
「あんなちゃんとした告白初めてだったから」
「ちゃんとした告白って」
「ふふ。なんか聞こえ悪いわね。なんていうのかな。あまりにも真っすぐな告白だったから」
「球種、真っすぐしか持ってないんだ」
「ふふ。それじゃ、甲子園のマウンドには立てないよ」
「いいんだ。告白に小細工はしたくない」
「それで良かった。あれでもし、好きですだけで終わってたらどうしようかと思っちゃうもん。それでどうしたいかも言ってくれたのはポイント高かったよ」
「好きです。ただ、それだけ伝えたくて。みたいな?」
「そうそう。そう言われてたら困っちゃってたね。告白逃げよ」
「あぶねー。そう言いそうだった」
「ふふ。ねえ、ちょっと場所変えない?」
行きたい所があると牧田先生は続けた。それに同意し車の助手席に牧田先生を乗せた。
「けど、よく来たね。遠かったでしょ?」
「びっくりするほど遠かった。何度も心折れそうになった」
「凄い行動力。ガソリンは何?」
「言わせないでよ」
「言ってよ」
悪戯に笑う牧田先生に愛おしさを抱く。
「牧田先生がこの先にいると思うと引き返すことは考えられなかった」
照れを隠すように笑う牧田先生。照れた沈黙が車内に漂う。
「牧田先生の笑顔をもう一度見たいってのが一番のガソリンだったかもしれません」
「ちょっと、そんなもう言わないでよ」
また、手で顔を仰いでいる。
「どっちですか」
「本当はね四、五年も待てなかったと思うの」
「え?」
「落ち着いたらきっとあたしは戻って、ハル君の前に行っていたはず」
「それって」
「うん。まあ、そういうこと。察して」
「ずる。サインは真っすぐです」
「わたしがキャッチャー」
「僕はピッチャー」
「サインは真っすぐ。ど真ん中よ」
「好きだーーーー」
「よろしい」
「ちょっと、よろしいじゃないですよ。結局僕だけが言ってるじゃないですか」
「え。好きじゃないの?」
「いや、好きです」
「くふ。また好きって言った。くふふ」
「あなたには敵いません」
「ふふ。あ、そこ左ね」
案内されるがままに車を走らせる。安息と幸せが満ちた沈黙が車内に存在していた。
「よくここって分かったね」
「女心に気づいたからです」
「さすが」
「あ、いつヒント忍ばせたんですか?タイミングずれたりとか、気づかなかったら僕は此処にいませんよ」
「その時は、あたしが行ってるよ」
「うわ。嬉しいい」
「父が病気で入院してたんだ」
牧田先生はそう切り出し、いなくなった経緯を話してくれた。父が病気だとは前から知らされていたらしい。退院しても右半身に麻痺が残り介護が必要な状態らしい。
「正直、迷っちゃったんだ。でも、」
家族だから。
「ハル君の家族を見てたら凄く温かくて、羨ましかった。あ、これが家族っていう場所の姿なんだって。家族って凄く可能性のある単位だなって感じたの」
もう下手したら会うこともないと覚悟して実は強引に家を出て、片山ピアノ教室に拾ってもらった。そこで、優子ちゃん会って、迎えにきた僕に会って、和山家族に触れて、そして、白鳥ボートで告白されて、こんなあたしでも好きだと言ってくれる人と巡り会えたのが本当に幸せで。そんな気持ちで満たされた時に、家族に対する感謝が湧き上がってきて、もし、このまま会わないでいたら後悔する。そう、思って帰ることを決意した。
また愛は愛を生み、愛は愛を示さないといけない人に向かわせたんだ。
「連絡できなくてごめんなさい。なにも言わずに消えてしまう格好になって」
「そう。連絡くれればよかったのに。僕はいつまでも待ったよ」
「でしょうね。渋谷駅の前でずっと待ってそう」
「深読みしすぎて待ってる場所、はずれてるじゃないですか」
「出発する当日ね、しようとしたんだよ。でも、水没させてしまって」
「水没?」
「そう。ついね・・・」
「どこに落としたのさ」
「訊かないで」
照れたように俯く牧田先生。
「え、まさか、トイレ?」
「もう、バカ。言わないでよ」
「うわー、ばっちー」
「やめてよ。流した後だし」
「なんか生々しい」
「さいてー」
真相が聞けて安心した。聞けばそんなことだったのかと思える。それでもまだ、疑問が浮かぶ。
「でもさいつヒント用意したの?先見の脳力が高すぎない?携帯水没させるなんて考えないから電話とかメールで行先当日伝えられるって考えてたらヒントなんて忍ばそうなんて思わないし、そもそも出来ないよね?でも、なんらかのハプニングが起きて携帯で伝えられなかった時のことを考えてヒントを隠しておいたってこと?やっぱりなんか、出来過ぎている」
「ハル君名探偵は、犯人はいつも一人って決め台詞だから難しいかも」
「え?どういうことでしょうか?」
「かくれんぼは、あたしの思いつき」
「見つからないのが楽しいんじゃなくって、見つけてもらうのが楽しい。でしたよね?」
「凄い。よく覚えてる」
「それが女心ですもんね。ポイントで丁度よくヒントと巡りあえたよ」
「そう、女心。わかってるじゃない。夕日の写真とか楽譜はやってもらったからあたしは特に大変じゃなかったけど、こっちにきて色んなとこ周ってピアノ教室のチラシ買い物客に渡してもらえるようにしたんのはあたしよく、頑張った」
「凄い努力。メール送れるようになった時に場所伝えてくれれば良かったのに」
「女心を早速忘れてるよ」
「かくれんぼ貫いたんだね」
「我ながら良く出来たと思ってる」
「三大シリーズね。気づけた自分を褒めたい。オデット姫」
「ハル君に呪い解ける条件持ってる?あたしずっと白鳥のまんまかも」
「失礼な」
あ、ここら辺で車止めてと、牧田先生が言った。
言われた通り車を止めた場所は、前も後ろも右も左も大地が広がってる。柔らかな風が僕等を撫でる。
「もうすぐ日が沈む」
「なるほど。もうそんな時間か。絶対見てやる」
「よくここに来て夕日眺めながら、名も無き港町を時々見つけたりしてたんだよ」
「名も無き港町。あれは結構感動したな」
「次のデートは虹の麓か、名も無き港町のどちらかね」
「それまでにレベル上げときます」
「ふふ。よろしくお願いします」
そこで沈黙ができた。天使が通る。
「ピアノコンクール出たんだってね」
「出ましたよ。牧田先生の教え子として」
「凄い。夢を叶えてもらっちゃったのね。ありがとう」
「いえ、牧田先生がガソリンになると僕は何処までも行ける仕様みたいです」
「最近ね、ようやく父も回復してきて母もわたしの人生に理解を示すようになってくれてたんだよ。好きにしなさいなんて言ってくれるとは思ってなかった」
「そうだったんだ」
「介護とかであたしはしばらくこっちいる覚悟だったから。でも親はそんなあたしをいざ見てみると逆に悪いと思ったのかしらね。子は親の心配するもんじゃないって。だから、どの道・・・ハル君こっち来なくてもよかったかもね」
「ちょっと言いかた悪いですよ」
「ふはは。うそうそ。見つけにきてくれてありがとう」
辺りは既に夕日が浸食している。
「好きよ。ハル君」
世界が照れる時間帯、赤く染まることをいいことに二人は静かに唇を重ねた。
「でも、やっぱ四、五年後くらいのほうが映画的」
「ちょっと」
「ふはは、うそうそ」
夕日が沈むように、唇をもう一度重ねた。




