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曲を奏でる無人のピアノ   作者: 志民 晃一
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第二十三話 もういいかい

 ピアノの基礎練習の後についに、本格的に月の光の練習を始めることにした。空いている時間は、全てピアノに注ぐ覚悟だ。そういえば、牧田先生が作ってくれた初心者向けの「月の光」の楽譜がまだあったはずだ。そこにはポイントが、細かく書かれている。まずそれで、練習しよう。

 自分の部屋に戻り、本棚を探す。

 ピアノを弾かなくなってから一切触ることもなくなった楽譜は、時を止めたまま、本棚の中で、息を潜めていた。あった。透明のファイルに入れられていた牧田先生自作の楽譜を、取り出した。開いてみると、パラリ2枚の写真が、床に落ちた。なんだろう。拾い上げるとそれは、見覚えの無い夕日の写真だった。海外だろうか。同じ夕日だが、場所が違うようだ。牧田先生の写真だろうか。誰が何の為にここに挟んでいたのだろう。そして、いつからここに挟められていたのだろう。どちらもとても、綺麗な夕陽が写されているが、一つは何かお寺のような建物が、陰になって写されていて、芸術的に見えた。もう一枚は観覧車からの撮影だろうか。真っ赤な夕日は、とてもエネルギーに充ち溢れているようだった。

 その晩、優子に写真を見せた。

「なあ、こんなのが楽譜に挟まってたんだけど優子、見覚えある?」

「なにこれ?夕日?」

「そうみたいなんだけど、全然見覚えなくてさ」

「うーん、わたしもわからないな。もしかして牧田先生の?」

「いや、わからないんだよね。でも夕日好きとは、言ってたけど」

「じゃあ、牧田先生のかもね」

「なんか夕日について話してなかった?」

「いや、特にしていなかったと思うけど」

「そうか、わかった」

「何処の夕日だろうね。これ」

「分かればなんかヒントになるかな?」

「まるで、探偵みたいじゃない。でもその写真から場所を特定するのは難しそうよね」

「そうなんだよな。でも、なんか気になるから調べて見る」

「牧田先生、外国にいるのかな」

 優子が、写真を見ながらそう言った。

「僕も実は、少しそう考えてたんだ」

「どうして?」

「前に、ドイツに留学していたことがあって、そこで初恋をしたって聞いてて」

「初恋の人を忘れられなくて、ドイツに戻ったってこと?」

「わからない。外国に心辺りがあるとすればそこだって話」

「そんな話、知らなかったな。なんか全然知らないや。わたし、牧田先生のこと」

 そい言いながら、写真を返された。

「お母さん海外旅行よくしていたらしいから、見せてみれば?なんか分かるかもよ」

「そうだね。そうしてみる」

 下に降りると母が、食事の準備をしていた。

「忙しいところごめん。この写真何処か分からないよね?」

「なあにー?」

「これなんだけど」

 母はまじまじと、写真を眺めた。

「んー。何処だろうね」

「やっぱり分からないよね」

「こっちは多分わかる」

 その写真はお寺のような建物が、陰になって写っている写真だった。

「え?ほんと?どこ?」

「多分、バリ島じゃないかしら」

「バリ島?」

「夕日が有名でね。このお寺は多分バリ島のお寺じゃないかしらね。干潮時にしか歩いていけないお寺なのよ。昔行ったことあるわ」

「え、そうなの」

「まだ、独身の時だけどね」

「有名な観光スポット」

「凄い。良く分かるね。もう一枚は?」

「それが、もう一枚は分からないわ」

「そっか。ありがとう」

 全て分からなかったが、一つ母から有力情報を得た。写真の一枚が、バリ島ではないかという。バリ島。名前には聞いたことがあるが何処にあるかは、はっきり分からない。早速ネットで検索をかけ調べる。「バリ島 夕日」と。確かに夕日は、有名みたいだ。写真と同じような寺院もある。これは、バリ島の写真で間違いなさそうだ。そして、二枚目は見当がつかなかった。写真の情報が、バリ島と違って情報が少なく、裏付けるようなものを見つけることが出来なかった。でも、この場所が分かったとして一体なんだというのだろうか。

 急に冷めて、調べるのを辞めた。

 それから写真のことは忘れ、取り憑かれたようにピアノを弾いた。雨の日も、風の日も、真夏日も適温に保たれた家の中で指を動かし、音を鳴らし続けた。部屋はいつでも快適だった。目的が明確になると、時間の質が変わる。だらだらテレビを二時間観る時間で、飛行機を使って、東京に行けてしまうことに気付いた時の感覚に似ている。ギヤとチェーンが噛み合った自転車のように、確かに前に進んでいる感覚。この自転車は僕を何処に運んでくれるだろう。そこには、どんな景色が広がっているだろう。

 そうしてあっという間に、月日が流れていった。


 コンクール前日。

 明日コンクールで、ピアノを演奏する。まだ、そのことが自分のことには思えず、何処か他人ごとだった。この一年近く休まずピアノを弾き続けた。正直、コンクールで賞を取るような演奏は出来ない。片山先生は、細かいこと気にしないで、気持ちそのままに弾いてらっしゃいと、送り出してくれた。

 その日の夜、久しく揃って家族でご飯を食べていると、突然父が、言った。

「おまえ、ピアノーマンになるのか?」

 唐突のピアノーマンに、食べていたミートボールを吹き出してしまった。

「サラリーマンみたいに言うなや」

「なんだ、おまえ。ピアノーマン知らないのか?」

「ハル君、汚なっ。なんだっけ、なんか浜辺に打ち上げられてるとこを、保護された人だよね?」

 優子は、ミートボールを頬張りながら言った。

「うーん。まあ、そんなとこだわな」

 父から切り出した話題なのに、その返答が煮え切らない。父もそうしてミートボールを頬張る。

「その人が、なんでピアノーマンなんだよ」

 ミートボールを箸で突きさしながら訊いた。

「名前も過去も分からない正体不明の人なのよ。ただ、ピアノが凄く上手なの。それで、ピアノーマンって呼ばれるようになったみたいよ」と、母が得意気に説明し、ミートボールを頬張った。

 気がつけば、大皿にごまっと装ってあったミートボールも、残り二個になっていた。ミートボールは静かにそこに、転がっている。

「びしょびしょで発見されたっていうんだから、本当謎よね。今は彼どうしているのかしら」

 母は、ミートボールを大皿に追加しながら、まるで昔の知人を、思い出しているかのような言いぶりだった。

「明日はお前が、緊張の汗でビショビショになるな。ビショビショーマンだ。ビショビショーマン」

 そう言って、はっはっはっと、豪快に笑った。

「自分で言って、自分で笑うなよ」

「面白くないし」

 息子と娘の酷評の脇でクスクス笑うのが、母である。ミートボールはごまっとそこに鎮座している。

 夜、夢を見た。牧田先生の夢だ。夢の中で変わらない笑顔を見た。変わらない声を聞いた。夢から覚めて、声を聞いた印象は確かに残っているのに、何と言っていたか思い出せない。とてもそれを待ち望んでいるような言葉を言われた気がする。夢から覚めて視界に広がるいつもの天井に違和感を感じる程、夢の世界が本物に思えていた。それを、望んでいた。覚めてほしくない夢を、今日も見た。時計を見ると六時二十七分を、針は指していた。窓の外を見て見ると、どんより灰色の世界が広がっていた。

 雨、降るかな。そう、独り言ちた。


 会場に着くと同時に、ポツポツと雨が降り出した。思わず空を見上げた。

「早く、こっち」

 優子に急かされるまま、建物の中に入って行った。

 控室に入ると、参加者が何人か既にいた。ピーンと空気が張り詰めている。

「なんか凄い雰囲気だな」

 優子に思わずそう囁いていた。本当に敷居の低いコンクールなのだろうか。他の参加者を見渡すと思い思いの面持ちで、エアーで指を動かしピアノを弾く者、目を瞑りじっと動かない者、イヤホンで曲か何か聴いてる者がいる。年齢は優子と同じくらいか、それより下の子が、多いように見える。十代後半の素人が場違いに思えてただでさえ、居づらい雰囲気なのに、それを助長させた。

 とてもじゃないが耐えられない。小声で話すヒソヒソ話が、背中を痒くする。大声を出したい衝動に駆られる。

 段取りは、前日に片山先生から説明されていた。各々が演奏する時間を教えられ、控室に待機する時間も決められていた。コースがいくつか別れていて、僕は成人コース、ソロ部門でエントリーされていた。このコースのエントリー者は主に、経験者で二十歳を超えてからまたピアノを習い始めたブランクがある人、二十歳をこえてからピアノを習い始めた人達が、エントリーするコースらしい。まだ、二十歳前だったが、二十歳になる年ということで、特別エントリー出来た。優子は、中・高校生コースのソロ部門。エリートたちが、集まるコースらしい。

 ピアノ教室と担当の先生も、エントリー用紙に記入しないといけなかったから、教室は片山ピアノ教室で、担当先生は、牧田先生で提出した。片山先生がそうしなさいと、背中を押してくれた。

 牧田先生が言っていた夢、教え子がピアノコンクールで演奏するという夢を僕で良ければ、叶えさせてほしい。

 会場を下見できるはずだったが、片山先生がそんな時間あるならここで練習したほうがいいと、それを許さなかった。少し不安になり何度か、本当に歴史が浅く、敷居に低いコンクールで、僕みたいな素人でも出て大丈夫なコンクールか確認した。片山先生はその度に「大丈夫、心配しないで」と、繰り返した。

 実際この控室の空気は、敷居の低いコンクールには思えなかった。

 中・高校生コースだからだろうか。中・高校生コースの後が、成人コースでまだ時間には早いからか、僕の他に成人コースの参加者は、見当たらない。一人じゃ緊張すると、優子に連れてこられたのだ。実際それは、僕にとっても助かった。

「ねえ、大きな声出していい」

 小声で、優子に囁く。

「ダメだよ」

 小声で返ってきた。

 暫く大人しくしていたが、やっぱり耐えられない。よし、やるぞと大きく息を吸い込んだ瞬間、左腹にコンパクトに収められた強烈な、右ジャブを打ちこまれた。

「ほんと変なことしないで」

 小声で怒られた。ピアノコンクールの控え室で、小声で話せば小声で返ってくるが、大声で話そうとすると、右ジャブを打ちこまれる。

 スタッフが名前を呼び、呼ばれた者は部屋を出ていく。優子の出番は、もう少しだ。優子は、緊張すると口ではいうが、度胸が据わっていて平常心を保っているようにみえた。僕のほうが、緊張している。段々と、お腹が痛いような気がしてきた。

「緊張してるの」

「うーん。なんかお腹痛い気がする」

「なによ、気がするって。空気に飲まれないで」

「うーん」

 スタッフが、次の人を呼んだ。

「あ、次、わたし呼ばれる」

「え、本当?」一気に心細さに襲われた。

「ちょっと、めちゃくちゃ緊張してるじゃない」

「いや、ほんとダメかも」

「情けないこと言わないでよ」

 あ、優子は何かを思い出したように、ニヤニヤしながらこちらを見た。

「いいこと教えようか?」

「え?なに?」

「ハル君はさ、何の為にピアノ弾き始めたんだっけ?」

 僕がピアノを弾き始めた理由。

「このコンクールに出場した目的は、このコンクールで演奏するピアノは誰に伝えたいの?誰に聴かせたいの?何を伝えたいの?」

 それは、全て牧田先生だ。牧田先生にここにいるって、伝えたいんだ。

「答えは出てるでしょ。ここの会場の人達や、審査員は考えなくていいよ。自分と、その人の世界の中に入り込んで弾けばいいよ」

 張り詰めた心を和らげるのに、優子のその言葉は充分だった。

 ついにスタッフが、優子の名前を呼んだ。行ってくると、囁いた優子に頑張ってと告げた。頼もしい背中を、最後まで見送った。

 牧田先生にここにいるって、伝えたい。どちらかと言えば、場所を教えてほしいのは、僕のほうだ。だけど、まだ僕がピアノを弾いていたこと、曲を完璧ではないけど弾けるようになったこと、そして、牧田先生の教え子として、コンクールに出場してることを知って欲しい。そうして帰ってこれる場所がまだあることを知って、どんな理由で居なくなってしまったか分からないけど、ここや、僕のことを嫌になったのでなければ帰ってきてほしい。この気持ちが、どうか伝わりますように。祈るように僕は目を瞑り、心で強く想った。今は、こうすることしか出来ない。

 あと、もう一つ、大切な想いがある。

 ゆっくりと目を開く。心は、一定の落ち着きを取り戻していた。

 お昼過ぎになってようやく成人コースと思われる人が、この控室に増えてきた。昼食は食べなかった。ただ、じっとその時を待つ。成人コースで確か、二番目だった。スタッフが入ってきて名前を呼ぶ。トップバッターが立ち上がった。

「和山春人さん」

 スタッフに続けて呼ばれ、慌てて立ち上がる。最初の人が演奏している間、次の人は舞台袖で待つらしい。落ち着いていたはずの心が、緊張を思い出してしまった。

 舞台袖に用意されている椅子に座る。脇に全身鏡が置いてあり、その中には、成人式で用意したスーツを着た緊張の面持ちの男が、写っている。

 アナウンスが流れ、トップバッターの人が舞台へ出ていく。拍手が起こる。その拍手の大きさが、不安にさせる。本当に僕が出ていいコンクールだったのか。またその疑いが、僕を蝕んでくる。

 気づいたら演奏が、始まっていた。脅威を感じる程、力強い圧倒的な演奏だ。

 なんてことだ。素人の僕でも、その凄さを感じてしまうほど。お笑いのフリには、完璧すぎる。次の僕の落差に、みんな椅子からずっこけるのではないだろうか。上から、たらいが落ちてくるのではないか。そんなことを、想像する。むしろ、そんな反応をしてくれたほうが、有り難い。たらいが、落ちてきてくれたほうが有り難い。圧倒的な演奏は、圧倒的な静寂を運び、そして割れんばかりの拍手が起こった。

 次は、僕の番だ。頭が真っ白になる。天井を見上げるも、どうやらたらいは、仕込まれてないらしい。

 拍手の中、ステージの端から中央へ歩く。小学生の学芸会以来のステージ上で浴びる大勢からの視線。今回は分散されることなく観衆の視線は、僕だけに集中する。まるで、虫眼鏡を通された日光でジリジリ焼かれる紙のように、自分が思えた。ジリジリと焦げ、煙をだし今にも燃えて消えてしまいそうに、心細く頼りなく立っている。

 もう、このまま消えてしまおうか。精神が限界を迎えそうになった時、何故か脳裏にバックミラー越しに見た牧田先生が、浮かんだ。いつの日だったか、バックミラー越しに視線が交差したあの時、確か牧田先生は好きな男性のタイプの話をしていた。何故、いまそのことを思い出すのか自分でも不思議だった。

 その場に立ち尽くす僕に異変を感じた観衆が、にわかにざわつき始めた。

 これは、雨の音。

 雨に包まれる牧田先生との時が、目の前に広がった気がした。

 待ってくれ。あの時、牧田先生はどんな人がタイプと言っていたのか。それを思い出させてほしい。もうすぐで思い出せそうなんだ。

 スタッフが袖から、早く弾くようにジェスチャーで伝えてくるのが見えた。今にもこっちに来そうな雰囲気に、慌てて椅子の高さを合わせ、やっと座った。そして、諦めて鍵盤に震える指を乗せたその時、声が聞こえた。


 いつも傍にいてくれるっていう、安心感のある人。


 はっと、辺りを見回す。期待するその声の主はいない。少し落胆する。けど、思い出すことが出来た。そんなことを牧田先生は言っていた。伝えよう。僕が傍にいるって。届けよう。このピアノで。

 深呼吸して、もう一度鍵盤に指を置いた。もう、指は震えていない。

 そこに迷いや恐れは、もはや無い。静かに叩く鍵盤、優しい音が響いていく。

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