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曲を奏でる無人のピアノ   作者: 志民 晃一
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第二十二話 デジャブと泥酔

 愛があれば死などは、この世にあり得ることが出来ない。そんな哲学めいた感慨に浸りながら、今日も空を見上げる。ずっしり重い雲が立ち込めている。今日は、雨が降るかもしれない。

 トントンと部屋のドアをノックする音がする。黙っていると、ドアが勝手に開いた。顔だけ向けると妹の優子が、心配そうに立っていた。

「ピアノ弾かないの」

 ピアノを弾かないまま、冬を越えた。季節の変化は、僕に何も与えてくれない。気がつけば草花が芽吹き、日差しが燦々と煌めいていた。ただ、それだけだ。

「うん。もういいから」

「そっか」

 それだけで優子はドアを閉め、行ってしまった。ポツポツと雨が窓に当たった音でまた、窓に目を向けた。やっぱり降ってきた。しばらく降る雨を、見つめる。雨か。居ても立ってもいられず、そのまま外に出た。雨の音が、僕をこの世界から切り離し、より一層、孤独の世界が作り上げられる。その世界に浸るように目を瞑った。

 朝起きると、また始まる一日に、絶望を抱く。それが毎日だ。

 夜は、広大な海に一人取り残されたような錯覚を覚え、自分の無力さと、圧倒的な寂しさを突き付けられ、なかなか眠ることが出来ない。

 今も降りしきる雨に打たれながら、とめどなく溢れてくる「もしかしたら」に、呼吸困難に陥りそうになる。


 もしかしたら、本当に子供がいたのかもしれない。

 もしかしたら、他の男と一緒にいるのかもしれない。

 もしかしたら、僕のことなど最初から彼女の選択肢になかったのかもしれない。

 もしかしたら、もう会えないかもしれない。

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。


 雨の音が、静寂を引き立てる。とても静かな世界だ。そして一人、静かな世界で、それでも想う人がいる。


 あなたは、今どこにいますか。


 容赦なく降り注ぐ雨。顔に異なる温度の水滴を感じた。


「なに自分に酔ってるのよ」

 玄関にまるで門限を越えて帰って来た娘を仁王立ちで待ち構えてる昭和親父のように、優子が立っていた。何も言えず、黙ったまま優子を見る。水滴が、ポツリポツリ垂れる。

「雨に濡れるぐらいなら、ピアノ弾きなよ」

 元々、下心と嘘で始まったピアノなんだ。目的を失くして僕にはもう、弾く理由がない。

「おまえは、よく続けてるよな」

「おまえって言う人嫌い」

 優子は、そこで黙ってタオルを渡してくれた。

「ピアノ教室、牧田先生が居なくなって生徒も減ったんだよ」

 それは知らなかった。正直、興味がなかった。でも、そんなことは簡単に想像がつく。牧田先生を慕う生徒は、多かった。

「だからこそ、私は行くの。ピアノを弾きに、あの教室へ」

 珍しく感情的に、語尾を強めた。そこでふと、理解が舞い降りた。悲しいのは、自分だけではないと。今になって、ようやくそのことに気づくなんて。はっとする思いだった。自分だけが、悲劇の主人公に思ってしまっていた。もしかしたら僕より時間を共にし、慕ってきた優子が、悲しくないはずがないのに。淋しいはずがないのに。牧田先生を慕う生徒が辞めていく中、それでも、だからこそと自分の信念を掲げ、あのピアノ教室に通い、ピアノを弾き続けるのは、どれほど強い決断だろうか。

「もちろん私にはピアノで目標があるから、先生が居なくなったからっていって、教室行かない理由にはならないのもあるんだけど、今私に出来るのって、信じて待つことだけだから。あの場所で」

 ほとんど、消え入る声だった。

「ハル君も、独りで自分の世界で深く考えているような顔して、溜息ついて、雨に濡れに行ったりして、そうやって自分に酔ってないで、いい加減ピアノ弾きなよ」

 震えるその声音は、泣いていることを明らかにする。優子の顔を見る勇気は無かった。

「牧田先生とのたった一つの繋がり、自ら捨てないでよ」

 そこでわっと、泣き崩れた。

「もし牧田先生が今、戻ってきたらどうすんの?そんな無精髭はやして髪ぼさぼさで、よれよれの服着て。ピアノも弾かないで、部屋に籠って」はっとさせられた。ずっと牧田先生を想っているつもりだった。一途に健気に牧田先生を想ってたし、考えていた。そして、待っているつもりだった。

 常に僕は、不安と恐怖と寂しさの中にいた。

 これらの感情に耐える先に、これらの感情より強く、彼女を想う先に、願いが想いが届いて叶うそんな日を期待して、夢見ていたはずなのに。自分でも気づかないうちに、僕はどこかで牧田先生を、諦めていたのかもしれない。いつのまにか登る太陽のように、夜にひっそり降り積もる雪のように、牧田先生のいない朝を迎える度に、「もう、会えない」が、心に積もっていたのかもしれない。

「わかった、もうわかったから」

「全然分かってないよ。全然。今のハル君を見てたら、もう牧田先生が帰ってくることを全然信じてないように見えるよ。もう、全然準備が出来ていない。いつ帰ってきてもいいように、最低限自分のこと整えなよ」

 貰ったタオルを、そのまま優子に渡す。

 本当にその通りだ。

「でも優子。お酒を飲まない人はさ、自分に酔うしかないんだよ。こういう時って」

「え?馬鹿なの」

 タオルを投げつけられる。優子が意外にも笑顔になっているから、つられて笑ってしまった。


 僕はまたピアノと、向き直った。優子の熱い思いと、タオルを投げつけられてから直ぐにはいかなかったが、あの日が転機になったことは間違いない。

 行方をくらませた想い人が残した課題曲を、いつか彼女との再会を信じて弾き続ける。

 悪くないと思った。

「なに自分に酔ってるのよ」

 優子の声が聞こえたような気がした。でも、何度でも言おう。人は放出するべき感情を何らかの理由で放出できず、行き場を失くした感情を抱え込む時、酒を飲まない人の解決方法は、自分に酔うことなのだ。これは、お酒を飲む人たちにもお勧めである。お酒で酔うくらいなら自分に酔え。こっちのほうが、健康的で安上がりだ。と。

 専門学校最後の年が始まった。新学期というタイミングが背中を押し、そこから気持ちを入れ直し撮り憑かれたように、ピアノを練習した。まずは、もう一回ピアノの基礎練習を繰り返した。そして、「月の光」を演奏するうえでの技術なんてこれっぽちも知らないから、この曲を弾くのに大切なポイントや細かい技術は、一旦無視した。取り合えず全部弾けることを目標として立てた。自動車のことよりも、ピアノに没頭した。ピアノに明け暮れた。

 行き場の無い心の吐きどころになっていたのかもしれない。

 ピアノは、心を写す鏡。

 牧田先生の言葉が、頭を過る。もし今、「月の光」を弾けて、弾いたなら原曲より攻撃的になることだろう。もしそれを聴いたなら、牧田先生は何て言うだろう。

 優子のピアノ教室の日、久し振りに僕も行くことにした。

「あら、久しぶりね」と、声をかけてくれたのは片山先生だ。あの頃のまま陽気に声をかけてくれたが、目元に疲れが見てとれた。牧田先生が居なくなった影響だろうか。

「お久しぶりです」

「聞いたわよ。また、ピアノ始めたんだって?」

「あ、はい。一応。ピアノの基礎だけですけど、ひたすらにやってます」

「優子ちゃんに聞いて嬉しかったわ」

 優子が、笑顔でこちらを見る。

「牧田先生は困ったものよね」

 そう呟く片山先生に、どういう反応をしていいか分からなかった。

「片山先生も、何も知らないんですよね」

 コップに注がれた水が、コップから溢れこぼれるような一言だった。

「ちゃんと彼女を見ていなかったのかもしれないわね。些細な変化に気づけないでいたのかもって、後悔してるわ。あんまりプライベートなこと訊くの嫌がるかもと思って訊かないでいたから、彼女のこと全然知らなかったって、思い知らされてる」

「そんな・・・」

 訊いた所で分からないことは分かっていたのに、訊かずにはいられなかった。それで、片山先生に嫌な気持ちを思い出させてしまったことが、申しわけなかった。

「そうだ」

 片山先生は、努めて明るい声を出した。

「コンクールに出ない?」

「え?僕がですか?」

「いまね、知人の会社の協賛でピアノコンクールを計画してて、参加者を募ってるのよ。でも、うち生徒数減っちゃたから。ハル君も何か目標あったほうが、モチベーションになると思うし。どう?」

 突然の話に、返答に詰まる。

「こんなど素人が果たしてコンクールに、参加していいものでしょうか」

「みんな最初は、ど素人よ。それに初めて開催される歴史も何もないコンクールだから、そんな身構えなくてもいいの。誰でも参加できるコンクールなの」

 僕がコンクール。片山先生が言う通りただ弾くより、モチベーションにはなるかもしれない。それに、牧田先生はあの時、僕が想いを伝え、ピアノを弾く理由が嘘だったことを知られた時、牧田先生は僕にコンクール出場に切り替えると言っていた。ピンとそこに繋がった。導きめいたものを感じた。

「じゃあ、出てみたいです」

「ほんと。ありがとう」

「え、ハル君でるの?」

 優子も驚いている。

「多分こんな機会は無いと思うから。でもどうなっても知らないですよ」

「大丈夫よ。小さなピアノコンクールなんだから。どんな失敗しても、恥やトラウマにもならないわよ」

「来年の二月開催予定なの。弾きたい曲決まったら、また教えてくれるかしら。近くなったら申し込み手続きのことで、私から連絡するわ」

「月の光でお願いします」

「あら、決まってるのね。月の光というと」

「ドビュッシーの月の光です」

「ドビュッシーね。良い選曲ね」

「牧田先生に教えて貰っていた曲なんです」

「そうだったの。分かったわ。もし、分からないことあればここに来てもいいからね。私も教えられるから」

「ありがとうございます」

「ううん。無理言ったのはこっちのほうなんだから。これでこの教室の面目を保てるわ」

 そう言って、大きく笑った。来年の二月か。一年も無い。出来るとこまで頑張ってみよう。

「参加者は地元紙に掲載される予定だから、もしかしたら、牧田先生にも届くかも知れないわよ」

 本当に小さいコンクールなのか引っ掛かったが、そう言う片山先生に、ただ頷いた。

「みんな頑張ってるんだって伝えましょう。そして、いつでも帰ってこれる場所があることみんなで伝えましょう」

「なんかいいね。頑張れそう」

 優子が、嬉しそうにそう言った。確かにやる気が出て来るのを感じた。牧田先生が居れば、牧田先生も青春っぽいと喜んだだろう。その青春の源は、牧田先生だが。

「入賞したら教室の宣伝にもなるから、和山家宜しくお願いします」

「先生。それが本当の目的でしょ」

 優子が突っ込み、三人は笑った。青春の合図だ。


 牧田先生に告白をした翌日、優子が今日牧田先生休みだったと、何気なく言った。風邪を引かせてしまったと思い、直ぐにメールを送った。返事は来なかった。体調悪いのだろうと、意外にも返信が無いことはそこまで気にならなかったが、風邪を引いていたならと考えると、物凄く申しわけない気持ちになって落ち着かなかった。

 牧田先生が休んでいると、優子からその後も、聞かされた。そんなに休むのは、ただの風邪ではない。風邪をこじらせて、入院しているのだろうか。悪い想像ばかりしてしまう。

 ある日、優子が酷く落胆し青ざめた顔で、牧田先生が居なくなったと、聞かされた。無断欠勤が続いたため、片山先生が家に訪問したが、そこにはずっと戻っていないようだったらしい。

 連絡をしても返事は返ってこず、電話は、「おかけになった電話は~」と、無機質なアナウンスが流れるばかり。

 そこから僕の記憶は、色を失くした。記憶を刺激するような日は無くなり、いつも同じような日々の中にいた。ピアノもそこで、弾かなくなった。今度こそもう、弾くことは無いと思っていた。どうして居なくなったのか、考えても分からない。分かるはずがない。だって、最後に見た牧田先生は、完璧な一日と笑う牧田先生だったから。僕が告白したことと、何か関係あるのだろうか。何かあのデートの中に、前触れは無かったのか。考えても考えても一向に分からない。ただ、最後のほうに言っていた、色々整理するという言葉は、このことの前触れだったのかと思う。その理由も事情も知らず、気づかず、満足げに帰ったあの日の僕を憎く思うが、どうしようもないと思う自分もいた。どうして僕の好きな人は、僕の目の前から消えていくのだろう。久し振りにしーちゃんを思い出した。

 それで、忘れていたことを知った。

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