第二話 思いがけず、恋煩い。
今日も大学終わりに自動車学校に寄った。
もう少しで実技も終わる。
妖怪ともおさらばだ。
一刻も早くこんなところ卒業して免許取って、車買って、彼女つくって隣に乗せて。よし、帰ってきた和山春人栄光時代。
心に余裕が生まれるとそれまで見えていなかったことが見えてくるようになる。
自動車学校の受付嬢は、なんて可愛い人が多いのだろう。と、こんな具合に。その中でも僕の視線を釘付けにしたのは右耳と右肩で受話器を挟み電話対応している彼女だ。
胸元まで伸びた黒髪にはっきりとした顔立ち。綺麗なアーモンドのような目。
何も知らないような純粋無垢なような目、全てを見透かしているよいうな目。
そのどちらにも見えた。
現状を変えたかった。心から変化を求めていた。
その強い気持ちは砂漠でオアシスに近づくように極自然に僕を受付嬢の元へ向かわせた。
「あの、ペン借りてもいいですか」
電話対応を終えた彼女は、すぐにペン二本差し出してくれた。
「えっと、シャープペン?」と、彼女は少し首を傾げ訊いた。
正直どっちでもよかったから、勢いで「あ、はい」と返事したものの、この後の目的を考えたら消えないボールペンのの方がいいと思いなおし「あ、やっぱボールペンで」と、ぎくしゃくしてしまった。
彼女もそれに合わせ最初シャープペンを差し出したがシャープペンを引っ込めボールペンを差し出しなおした。
そのぎくしゃくが、可笑しく二人は笑った。
そして僕は受付に置いてある教習日程が書かれた紙をさっととった。その紙の余白に借りたボールペンで十一桁の数字と名前を書いた。書いてからしばらくその十一桁の数字を眺めていた。
別に何も期待していない。
「これ、ありがとうございました」そう言ってボールペンを差し出した。
はいと言って両手で彼女は受け取った。
思わず「かっわい」と、語尾を上げて心の中で言ってしまう。そして、和山春人の歴史に刻まれるであろう行動をとる。
十一桁の夢と希望と勇気がつまった紙を差し出した。
ん?と首を少し傾げまじまじと綺麗なアーモンド形の目でその並べられた十一桁の数字に、言い換えれば和山春人の夢に視線を落とした。
「よろしければメールか電話ください」
彼女は自分に与えられた状況を理解し、顔をトマトのように真っ赤にした。そして、はにかんだ笑顔をみせ「えー」と、静かに驚いた声をだした。
僕は頭を下げその場を離れた。
帰り道、花屋に寄った。
今度会う時に、あのトマトのように赤くなってはにかんだ妖精に添える花が欲しい。
気がつくと溜息ばかりついていた。
「ハル君、なにニヤニヤしてるのさ」
気持ち悪いものを見るような目でそう言ってきたのは妹の優子だ。
「聞きたいかい?」
ニヤニヤしてしまうのも無理はない。何故ならば、はにかんだ妖精の顔を思い浮かべていたのだから。
この甘美で崇高な彼女に対しての感情をどう伝えればいいのかしばし思案し充分に勿体ぶり、いざ話そうとしたその瞬間、いや、いい。と、一言。そして、去り際に気持ち悪いと捨て台詞。なんと無礼な態度。しかし、今の僕にはそんな些細なことで心を取り乱すことはしない。
僕の世界には、はにかみの妖精しか存在しなかった。
彼女が今の僕の全てだった。
時計をみる。一八時三十分を回っていた。もうそろそろ仕事を終えただろうか。
時計と携帯電話を気にしながら彼女の世界に浸っていた。しかし、その浮かれた世界は長くは続かず、その夜からなかなか寝付きの悪い夜を過ごすことになった。結局、彼女からの連絡を知らせる音は鳴らず、携帯電話はお葬式にでも参加しているかの如く沈黙していた。何かをする力も無くなっていき、食事も喉を通らなくなった。葬式中の携帯電話ばかり気にしていた。
お願いだ。鳴ってくれ。
最初のニヤニヤは嘘のように消え、それは次第に悲痛な面持ちに変わり、悲痛な叫びを密かな胸中で発していた。
砂漠地帯の昼夜の如く変わった兄の情緒に心配の面持ちで優子に「ごめん」と言われた。何に対しての「ごめん」か、いまいち判然としなかったが、僕の感情がまだ砂漠の昼時代そう、ニヤニヤと彼女の世界に浸っていた時に冷たく扱ってしまったことを詫びているのかもしれない。もし、そうであれば妹よ、検討外れだ。冷たく扱われたことも詫びの言葉もどうでもよかった。
苦しい砂漠の夜の感情の今でも、結局僕の世界は、はにかみの妖精だったから。
迎える夜は長く淡々と積み重なる秒針が重く、苦しい。
それでも僕は彼女の連絡を持った。眠ることが出来れば楽なのに、期待はしていなかったつもりだったのに。携帯電話を握りしめ朝を今日も待つ。
砂漠の昼にみた彼女は蜃気楼とでもいうのか。砂漠の夜にみた彼女は悪夢とでもいうのか。朝はいつも来るけど、携帯電話は僕に何も知らせることはない。
そうやって、一週間が経過した。
十一桁の勇気と希望を、はにかみの妖精へ無謀に突きつけてから教習所には一度も行っていない。
はにかみの妖精からの連絡はもちろんない。もちろんと自分で言ってしまうところが虚しさに輪をかける。もう、何もかもやる気が出ないのだ。こんなことになるのなら、気まぐれにあんなことをしなければよかった。
見てるだけでよかったのだ。
たまたま行った教習所で、たまたま居た美しく可愛い受付嬢。それだけでよかったのだ。ただ、それだけで。その程度が丁度よかったのだ。
「おい」と、言われ顔を上げると先生が立っていた。
目が合うと同時に机の上のプリントを指差し「やれ」と一言。ほら、こうなる。いつの間にか彼女との理想を膨らましていて、現実とのギャップが大きくなるにつれ辛くなっていく。テストもやる気が起きず、先生の話も聞こえない。
僕は、どうしたらいい。
「それは、もう一回その人の前に行って直接告白しろ」
車のトランクの内張りを外しながらだいちゃんは、少しニヤけた顔でそう言った。だいちゃんは、ガレージで作業をしている最中だ。大学は長い夏休みに突入していた。
「えっ、直接告白?」
自分では鉄粉程も考えたこと無かったその回答に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「うるさいな。直接告白?じゃねーよ。お前のことだろう。好きなんだろう?その人のこと」
だいちゃんはそう言って、テールランプユニットを配線に気にしながら慎重に外している。
「好きだけど、もうフラれたようなもんだし」
もう十一桁の勇気と希望を雄々しく渡してから、女々しく三カ月が経過している。
口では諦めたようなことを言いながら、その実、まだ日々暮れる空に彼女を想っている。かといってそれだけで何も行動が出来ていない。だいちゃんの言っていることは最もだ。
だいちゃんはこちらを一瞥し、外したテールランプを慎重に床に敷いてある新聞紙の上に置いた。
あのなぁと、何かを言いたげにしている様だったが結局続きは発されることは無く、無言で車に向き直った。
だいちゃんは今、何を言おうとしていたのだろう。今、どんな表情をしているのだろう。背中しか見えない今の僕にはどちらとも分からない。
だいちゃんと初めて言葉を交わしたのは今から三年前。当時、高校生だった僕はバイクだの車だのに心の全てを注いでいた時だった。
バイクも車も無いので代わりに自転車を弄った。イメージは暴走族の族機使用。族機使用といってもホームセンターで買った何に利用するのか分からない鉄材を二段シートの如く聳えさせ、キラキラと光もので固めただけのものだったが近所では有名だった。今、思うと恥ずかしい限りだ。
コンビニからその族機使用に改造した自転車で帰路についていた時だった。
バリバリバリ・・・
後方から物凄い音が近づいてきた。
バリバリバリバリ・・・
徐々に音を大きく響かせながら近づいてくる。追手かと振り向くと目に飛び込んできたのは、ド派手な紫に塗装された旧車の王道ハコスカGT‐R。
今から四十年以上も前の車なのにそのシルエットは廃れることなく不変の美しさを燦々と放っている。
美しい。雑誌でしか見たことのないようなハコスカが眼前で音を奏でて動いている。美女が腰をくねらせ魅惑的に歩き去っていく姿を、まんまと間抜けに眺めてしまうように思わず見入ってしまった。
あっ、しまった。と、思った時には手遅れだった。その紫の美しいハコスカは僕の真横にに来て停車したのだ。その時、僕の思考回路も数秒停止した。
こういった車に乗っている人って。
悪い考えが脳裏によぎる。
これから自分の身に起こる想像できそうで想像できない恐怖に思考の次に身も固まっていく。
自分の車好きを、好奇心を、無知を、思春期を、そしてそれらを具現化して出来上がった族機使用の自転車を呪った。
助手席の窓が機械音を発しながら少しづつ開いた。
高鳴る鼓動。口の中が渇いている。飲み込む唾も残されていない。咄嗟にレモンや梅干しを想像し唾液を発生させようと随分見当違いなことをしていた。
「おい、すげーチャリだな。特攻服着ないんか?てか、おまえなんちゅう顔してんだよ」
ハハハ、と軽快に笑う声が続く。
ゆっくりと声の主に焦点を合わしていく。そこに見えてきたのは金アクセサリーがいやらしく似合う色黒の男でもなく、悪しか知らないという出で立ちの男でもなかった。想像とは裏腹に爽やかな笑顔を持つ爽やかなお兄さんだった。それが今、目の前でシャカシャカとスプレーを振り、布に吹き付けテールランプを拭いている僕の恋の背中を押すだいちゃんだった。
「なあ、後悔ってしたことないのか」
不意に作業する手を止めてしかし、背を向けたまま言った。突然の問いに沈黙を作ってしまうと続けてだいちゃんが話しだした。
「俺、高校からサッカーを始めたんだよ。中学の頃は帰宅部でさ」
不思議と、声というよりだいちゃんの背中から真剣さが伝わってくる。
「体育の時間でサッカーの試合したら俺、めちゃくちゃ活躍してね。サッカー部の奴等と互角かそれ以上に渡り合ってたんだ。その度にいつも言われた。なんでサッカー部入らねーんだよって」
自分も昔、同じ境遇だったこともありその状況簡単に想像ができ親近感を覚えた。
だいちゃんも学生時代数々の女子と相思相愛を楽しんでいたのかもしれない。いや、きっと楽しんでいただろう。サッカーというスポーツは素晴らしい。
「確かに。どうしてサッカー部入らなかったんですか?そんな上手だったなら」
だいちゃんはこちらに向き直り頭を振った。
「多分、分かんないけど自信が無かったんだろうな」
「自信ですか?」
サッカー部の奴等と互角にまたは、それ以上に渡り合い、その度にサッカー部へのスカウトを受けていたなら逆に自信がついていくのでは。それなのに、自信が無いとは意外だった。
「要は、失うものが有るのか無いのかの違いだよ。素人は失うものなんてない。ボクシングのタイトルマッチでいう挑戦者。サッカー部に入部して一度サッカー部員にでもなって、周りがサッカー部の人と認識してしまったら出来て当たり前って思われるんだよ。そういった期待のベルトを守り続けないといけなくなるわけだ」
は、はぁ。たかが中学校の体育のサッカーの試合に、サッカー部だからとて、一体誰がそこまでのタイトルマッチのベルトにまで例えられた期待を寄せるとでもいうのか、聊か疑問だ。しかし、だいちゃんは僕の気の無い返事は聞こえているのかいないのか真剣な眼差しは当時に向けられているようだった。そのままに話し続ける。
「その期待を守る自信が無かった。ちょっとドリブルでかわしたり、ゴール決めたら騒がれ喜ばれるその場所が居心地良かったんだ。サッカー部じゃないのに凄いなって皆言ってくれてさ。この・・じゃないのにって部分が最高に自分を優越に浸してくれていたんだろうな。けど、その場所は成長を与えてくれない。そして、先を与えてくれない」
そこまで言ってだいちゃんは大きく息を吐いた。そして、何秒かの間が空いた後僕の目を見た。
「いいか。同じ場所に留まろうとする奴は絶対にそれ以上に何も得ることが出来ないからな」
ドクンと鼓動が突き動いた。だいちゃんは何の話をしているのだろう。たかが体育のサッカーの試合で活躍云々の話ではなく、サッカー部に入部云々の話ではない。話の後半になるにつれ苦しそうだったのは何故だろう。
一体だいちゃんは何をして、いや、何をしなくて後悔しているのだろう。
「だいちゃんが、後悔していることってなんのこと?同じ場所にいて得ることが出来なかったものって?」
堪らず訊いた。
だいちゃんの恐ろしいくらい真っすぐな目が返ってくる。
「とっても大好きだった人だよ」