第十八話 静寂の刃
牧田先生の旦那はホストだ。
今度はそんな噂話を直接耳にしたのは、優子と牧田先生を迎えに行ったピアノ教室で他の生徒がヒソヒソと話していた。教室に牧田先生は見当たらない。話していたのは、中学一年生くらいの女子四人組みだ。四人とも牧田先生にべったりくっつく群れの中に見た顔だ。その中の一人が、声を潜め「ねえ、知ってる?」と、今から噂話をしますと同義の言葉で他の女子の興味と関心を誘った。「なになに?」と、ランエボのアクセルのレスポンスのような早い反応をみせた。年頃の女子の噂話なんてなんだか懐かしい。そう思いながらつい、耳を傾けてしまう。
「牧田先生の旦那さんホストらしいよ」
また噂話か。優子に聞いて最初は、動揺したもののなんとか飲み込み平静を保てていた矢先のこと、まさか直接その類の噂話を聞けるとは、思ってもいなかった。どうやら噂話は、順調に毛を生やしながら歩を進めているようだった。他の女子はえー、うそーと綺麗にハモる。噂話のお手本のようだ。思わずその噂話の元凶を、睨んでしまう。彼女が、根も葉もない噂話を吹聴している奴だったか。少し怒りの感情が、目つきにでてしまう。
「うちのお母さんが、保育園に弟迎えに行った時に見たんだって。まだ、一歳くらいの赤ちゃんを抱っこして派手な男と歩いているとこ」
「えーホストとか、イメージなかったね」
「先生硬派そうなのに」
「先生が、お母さんってやばくない?」
「確かに。若くて全然お母さんに見えない。旦那さんみてみたいね」
「絶対イケメンだよね」
「どうする?数学の山下みたいだったら」
「えー、絶対やだ」
そこまで聞いて所詮、年頃女子の勝手な噂話だと気にしないことにした。結婚しているわけがない。まして子供がいるだなんてあり得ない。旦那さんが、元ホストだなんて馬鹿馬鹿しい噂話だ。結婚して子供いる人が、個人的にピアノ教えに来ないし、映画にも行かないだろう。それについて早々に考えるのを止めた。考えて牧田先生に当たった過去の自分の同じ轍を踏むまい。
それにしても牧田先生は、何処にいるのだろう。優子もいない。
直感的に二人は一緒にいると思った。かくれんぼの数え終わったあとの鬼に自分が陥ったような錯覚を感じた。
「はい、もう帰るよ」
そう言って手を叩きながら残っている四人組みの女子に帰宅を、促したのは片山先生だ。
聞き分けよく四人は帰り支度をして帰っていく。四人を見送った片山先生と目が合った。その瞬間何かを察したように片山先生は、目を瞑り口を窄め二度頷いた。それが僕に向けられた何らかのサインなのか、はたまた酸っぱい梅干しを食べたのか、分からず困惑した。
「あの・・・」
すぐにしっと声を発するのを制された。片山先生は他の生徒が帰ったのを見計らいこっちに来るように手招きをした。それに従い片山先生に近づいて行くと耳元で「二階の奥の部屋よ」と、囁かれた。状況が読み込めず不安なまま片山先生を見ると、とにかく行きなさいと顔を二階に向けるだけだった。どうやら行くしかなさそうだ。
全くその先に何があるのか分からないまま階段を上がり、奥の部屋を目指した。二階に上がるのは初めてだ。二階はL型になっており、部屋は三部屋あるようだ。とりあえず奥の部屋だ。途中にある部屋を通り過ぎ奥を目指す。正面に一つの部屋。そしてそのすぐ右側にもう一つ部屋がある。奥ってどっちだろうと、両方のドアに耳を当てた。どちらもしんとしている。少し迷ったあげく正面の部屋のドアをノックした。返事はない。「ゆうこ」と声をかけながら恐る恐るドアを開けた。
光が溢れた世界の中に、牧田先生がいた。傍らに優子もいる。やっぱり二人は一緒に居た。みーつけたとおどけてみようと思ったが、声が出ない。それは、こちらを見た牧田先生の瞳に、留めることのできなかった感情の跡を見てしまったから。
車内は、いつもとは打って変わって静寂に包まれていた。
ウィンカーの音が、今日は主役になっている。時々、バックミラーで後ろの様子を窺う。牧田先生は、ずっと窓の外を眺めている。優子も反対の窓の向こうに視線を飛ばしている。何があったのか見当もつかない。そして、訊ける雰囲気でもない。
あのドアを開けたとき、光溢れる部屋の中にいた牧田先生と目が合った。すぐに逸らしたその目から二滴の滴が落ちた。静寂を静寂で切り裂いたような涙。涙に音が無いとそんなずれた様なことを思っていた。「帰るけど・・・」こんな時、なんて声をかければいいのかなんて、まだ車を運転できるようになっただけの、十八歳の男には分からなかった。
傍らにいた優子が「先生、今日は・・・」と、声をかけた。そうだ。今日は僕のピアノを個人的に教えてくれる日だ。今日は無理に来なくてもいい。その優子の気遣いに気づき同調しようとした時、牧田先生は薄く笑みを浮かべ首を横に振った。「大丈夫よ」とでも言うように。
行くわ。そう静かに牧田先生の口から漏れた。一つまた静寂が落ちた。その世界に残されたのは気の利いた一言も言えず、ただ黙り、頼りなく頷くちっぽけな男だった。
家に着くと、優子は直ぐに二階に上がって行った。牧田先生はピアノのの横にあるソファに静かに腰を下ろした。バックから楽譜を取り出しペラペラと捲る。時々、何かをじっくり考えるように動きを止める。ピアノを弾けば何かアドバイスをくれるだろう。牧田先生を過度に気にしないようにし、僕はピアノの前に座った。右手だけ四小節分繰り返し弾いた。
短いが、その音符の繋がりは幾らかのメロディを形成した。
「この曲はね、作曲者の悲恋が背景にあって、去って行った愛する人へ、また会えたらいいなっていう願いが込められているのよ」
牧田先生が、いつもの口調と明るさでそう言った。思わず手を止め牧田先生を見た。牧田先生は笑っていた。
「それを上手く表現出来ればコンクールにでても良い賞がとれるのよ」
「そんな余裕無いなー」
「ふはは。コンクールが目的じゃないものね?」
「そ、そうですよ。それっぽく曲を弾ければいいんです」
「相手がいるものね。聴かせないといけない人が」
この話題になると、後ろめたさが出てしまう。そうだ。コンクールを目指すことにして最初の話を、想い人の為に弾く話を有耶無耶には出来ないだろうか。
「うーん。こんな僕でもコンクール出場出来ますかね?」
牧田先生の言葉にうーんと曖昧に返事をして、話題をコンクールに持っていこうとした。このうーんは優秀で返事だけでなく、実はコンクールのことを考えていたよ。というニュアンスも兼ねていて「相手がいるものね」という、牧田先生の言葉を無視せずに無効化させることができる。この言葉だけではなく、声の大きさその時の視線も、大切なポイントになってくる。簡単に言えば心ここにあらずの雰囲気を作ればいいのだ。さっきの牧田先生のように。
「ちょっとなんで話、戻すのよ」
うーんという言葉は悪くない。悪いのは声量と視線で心此処にあらずを上手く表現出来なかった僕だ。うーんを大きくはっきり言い過ぎてしまったかもしれない。
「いや、戻したつもりはないんだけど、コンクールってきいて少し興味が出たっていうか・・・」
「でも、教え子がピアノコンクールに参加してるとこを観るのは少し夢かも」
「まじっすか。僕も牧田チルドレンとして出場しようかなー」
冷ややかな視線を向けられた。
「最初の目的はどこにいったの?目的をぶらさないように」
最初の目的を曖昧にしようとした結果、より強く釘を刺されることになってしまった。
「でも、まだ四小節だけだけど作曲者の背景を上手く表現できそうな片鱗は感じられたから死ぬ気で練習すれば案外面白いかもね」
「ええ。マジっすか。やっぱり僕・・・」
「目的はぶらさないこと」
「はい・・・」
牧田先生はピアノを教えられても、ピアノコンクールの審査員にはなれないと思う。
作曲者の背景を表現してはいない。だってピアノを弾きながら考えていたのはあの部屋で静かに涙を流す牧田先生のことだったから。その涙の理由を、考えていたのだから。
生徒たちのくだらない噂話が、耳に入ったのだろうか。僕には、いくら考えても分からない。一体何に悩んでいるの。何に傷ついているの。その涙はどうして流れたの。
「もう一度弾いてみて」牧田先生は僕の隣に立った。はい。言われたようにもう一度右手だけで繰り返し弾く。
「まだ目的がぶれてるわね」
突然、牧田先生がそう言ったから思わず指を止めた。
「今、何を考えているの?本当に想い人に演奏しようと思ってる?」
核心を突いたその質問に、頭が真っ白になった。
「ハル君のピアノの良いところは、さっきも言ったけど凄く表現に長けてるとこなのよ。とってもエモーショナルなの。それが作曲者の背景を表現できる片鱗なの。なんか今のは集中に欠けているようだったわよ。雑念があるわ」
ああ、作曲者の背景を表現出来ているとは言ってなかったか。審査員になれないと思ってしまったことを心の中で詫びる。
「そんなこと・・・」と、言い終わらないうちに「分かるのよ。ピアノの音で」と、意味あり気な笑みを浮かべた。
「ピアノはね、指のタッチ加減によって音の強弱を自由に変えられるの。だから、いろんなものを表現できるのよ。そして、それは心の中のことをそのまま正直に表現してしまうことにもなるのよ。今のハル君のピアノのように。なに考えてるの?」
そう説明してくれる牧田先生の声は、柔らかく向けられた眼差しは、優しさに満ちていたから思わずそれを訊きたいのは、僕のほうだと言いだしそうになった。まるで、見透かされているようだ。
「いや、なんも考えてないです」と、静かに答えた。「嘘」牧田先生は、その優しい眼差しを真っすぐ僕に差し延ばしてくる。
「ピアノは心を写す鏡なのよ。ピアノをある程度経験していたらピアノの音を聴けばすぐに心境や想いが伝わってくるのよ。今日はずっと何かに心奪われている感じね」
本当のことを言おうか心が揺れている。けれど、どうしてもピアノを練習している本当の理由を今、告白する勇気は持てなかった。それどころか、今考えている気持ちすら口にだせない。先生の涙の理由を、考えていました。それは、訊いてはいけないような気がしたし、それを言うのは、愛の告白と同じことのような気もしたからだった。
「本当になんでも表現出来るんですか?」話を逸らすのは、僕の常套手段だ。牧田先生もまた話を意図的に逸らしたことに気付いているようだ。少し笑みを浮かべ、少し残念そう。
牧田先生はそんな質問を無視して、僕を問い詰めることも出来たであろう。しかし、牧田先生はそうはせず、そのまま質問に答えてくれた。
「ええ、なんでもよ。喜怒哀楽はもちろん、その中には恋心といったような複雑で繊細な感情も含まれてる。あ、そう。水の流れさえも表現した作曲家もいるわ」
牧田先生は、いつになくと言ったら失礼だが先生らしくなった。そこに少し違和感を覚え、そしてそれは、距離ができてしまったように感じてしまう。
「ラヴェルの水の戯れ、リストのエステ荘の噴水が有名どころかしらね。まあ他にもドビュッシーやショパンにも水を表現した曲があるわね」
聞きながら頭に浮かんできたのは、静かな涙を流す牧田先生だった。
「あの涙をどうピアノで表現できますか?」牧田先生にか、ドビュッシーか、リストか。はたまた自分自身にか。そんな当てどころのない質問を僕は持て余す。
「まあ、言いたくないなら無理にとは言わないけど。コンクール出場するわけでもないしね。早く想い人に曲弾いて想い伝えないとだ」
「はい。頑張ります」そう、牧田先生の目を見据え答えた。
牧田先生が帰った後、優子に牧田先生の涙の理由をなにか知っていないか訊いた。
あの場に居た優子なら何かを知っているだろう。その確信に近い期待は「私も知らない」と、簡単に砕かれた。
生徒たちの噂が関係していると、依然睨んでいいるが、真相は定かではない。
なにか落ち着かない。
胸騒ぎは、新しい朝のデフォルトに設定されてしまった。充分な睡眠もとれなくなり、食事もろくに喉を通らなくなった。視線は、現実の向こう側に焦点を合わせるようになり、気がつけば溜息ばかりついていた。牧田先生の涙を皮切りに感情の起伏がより激しくなり、僕のコントロール出来る範疇を超えてくるようになった。牧田先生に子供がいる。結婚している。旦那はホスト。そんな噂がわざわざ振り返し一気に落ちて来る。そうなると体をいろいろいな方向に動かして、心の中からの叫びを発する。どうしたらこの気持ちを処理できるのか分からない。そして、溜息をつくのだ。これは恋の副作用だ。牧田先生が僕の感情と選択の源になっていることを、僕は初めてしっかり認めた。
こうなるともう、誤魔化すことも消すことも出来ない。恋に破れ、恋を捨て皮肉な男女の関係に適当に雑に満足していたあの日々に、真っ向から対立し否定する感情。シニカルな笑みを浮かべ手招きする恋に抗うことはもうせず、苦しい恋の入口にまた立っている。これだから恋というのは厄介だ。
恋の副作用や、噂の数々が一気にのしかかってきても、耐えられるようにならなければならない。しかし、スクワットや走り込みでどんなに足腰を鍛えても耐えることはできないだろう。像に踏みつけられた蟻のように、一瞬でぺちゃんこになった僕は、見る見るうちに憔悴していった。