第十六話 意味ある一気飲み
カレンダーが、一枚捲られた頃妙な噂を耳にした。牧田先生に子供がいるのではないかという噂だ。ピアノ教室に通う生徒は誰もが知っている噂らしい。何故その噂が、僕の耳に達してしまったか推理して貰いたい。まず、この噂を教えてくれる人の条件とて、そのピアノ教室に通う生徒であること、そして僕と関係のある人物となると、見た目は子供でお馴染みの国民的名探偵でなくても分かるだろう。所詮、噂話とあしらったが自分が動揺しているのが分かった。そして、それ以降モヤモヤと気持ちが悪い。知識が豊富な僕は、火の無い所に煙は立たないという諺を知ってしまっていた。もしその噂が本当だったり近しい状況であったりしたらと、つい考えてしまい心が暗くなってからいや、ただの噂だと否定を繰り返し心をなんとか保っている。
自分の情緒を交流電流の周波数のようにしてくれた原因の噂話で、僕の鼓膜を震わしてきた妹と諺の知識を得てしまっていた自分を呪った。
ピアノに触れる時間が減り、次第に弾かない日も出てきてしまった。
噂話を耳にしてから初めて牧田先生からのレッスン。週に一回はこうして直接レッスンをつけてくれる。これはとても贅沢なことで感謝してひれ伏す程だと理解しているつもりだったが、噂話に支配されている僕は少なくとも感謝の気持ちを見失っていた。さらに、ピアノに触れていない日を過ごしてしまったせいで指も動かない。噂話からくる動揺を隠すために平静を装うと、受け答えがよそよそしくなってしまう。
ここまでくると、流石に牧田先生はレッスンを途中で中断した。
「何かありました?」
「あ、いえ・・・別に・・・」
これであ、そう。と言われるわけ無いと自分でも分かっている。昔、ガチャガチャを親におねだりした時の自分と重なった。欲しいが親の経済状況を気にして、買ってもいいよと渋々了承してくれている親にいらないと断った。その後、自分でいらないと言ったにも関わらず、ずっと不機嫌になっているのだった。「そう不機嫌になるのなら買えばよかったじゃない」と母に言われたことを覚えている。
あの頃の僕と何も変わっていないじゃないか。情けなさずぎて自分に腹が立つ。
「んー。今日はやめときましょうか?」
牧田先生は、僕のことを思いやって言ってくれている提案だろう。しかし、その思いやりが今は心を逆なでする。その思いやりに答えることが出来ない自分に腹が立っているのだ。思いやられる、心配される状況をつくってしまっている自分が惨めで情けないのだ。
「今日ってか、もう、いいです・・・」
「え?」
「もうピアノ辞めます。だから、もういいです」
本心とは真逆な言葉だった。苛立ちに身を任せて後先何も考えずに自棄になって放った言葉だった。噂話に簡単に翻弄され動揺している愚かな僕の一種の八つ当たりだった。この言葉で、牧田先生が悲しんでくれればとさえ思っていた。何故、牧田先生がこの言葉で悲しむことを期待したのだろう。教えて貰っているのは僕の方で、そもそも頼んだのは僕からだ。営業時間外に金銭の発生も無くボランティア状態で、しかもピアノを教えてほしい理由が、僕の好きな人への告白の為という、牧田先生にとっては至極関係が無く、メリットも無い話しなのだ。なのに遠慮しガチャガチャを回し損ねた幼い僕が機嫌を損ねたように牧田先生を本心とは裏腹に突き放している。
ピアノを教えている時の牧田先生が楽しそうだったから、最初にお願いした時も自分のことのように喜んでピアノのレッスンをつけてくれることを快諾してくれたから、ピアノお手玉もわざわざ作ってくれたから。だから、いつの間にか勘違いしたのだろうか。しかし、ここで牧田先生が喜んで二つ返事で僕の申し出を了承するとは思えない。そういう人ではない。案の上、牧田先生は心を沈ませた目をこちらに向けている。
「どうしてですか?何かありました?」
そう訊かれると、やっぱり心が棘になる。
鋭利に尖る棘を衝動的にぶつけたくなる。そんなことはしたくない。よりによって牧田先生に。不機嫌に黙ることが、今この時の最大の思いやりだった。自分勝手甚だしい。
「・・・。今日はもう帰りますね」
少し牧田先生も投げやりな溜息をしたように聴こえた。牧田先生にこんな溜息をつかせてしまったことに酷く落ち込む。戻れないところまできてしまった。感情を隠そうとせず黙ったまま、目も合わせないまま頷いた。それを、見届けたであろう牧田先生はバッグを拾い上げ立ち去って行くのを背中で感じた。気配が遠くなりそして、止まった。
「あたし素敵だと思っていたんですよ。誰かの為にピアノを弾くって。一途に思われている相手に羨ましいとさえ思って、その思いが届けばいいなって。こんな素敵なプロジェクトに関われて嬉しかったんですよ。それなのに・・・。本当にもういいなら二度とピアノはを教えには来ません。失礼します」
語尾が震えていた。怒りというより悲しさの震え。
思いっきり鍵盤を叩いた。心の音が部屋に広がった。
ピアノを弾かなくなってから三週間が経った。牧田先生とも会っていない。優子を、ピアノ教室に送迎は続けていた。以前なら牧田先生は玄関から出て来てそして、一言二言言葉を交わしていたが、今はもう姿を現さない。次第にこうなってしまった状況を考える冷静さがでてくると殆ど同時に、後悔がやってくる。明らかに僕が悪い。僕が子供過ぎた。そう自分を認めた時、牧田先生に謝ろうという考えに行きついた。
謝らないと。ケータイで何度も詫びの文面を作成しては、全部消すことを繰り返した。送信する勇気がでないのだ。これでいいだろうかと、キリが無い不安に駆られてしまいその不安に屈してしまう。いい加減そんな自分に嫌気がさしシンプルに「この前は失礼な態度を取ってしまってすみませんでした」と、だけ打ち込み送信しようとした。その時、携帯電話が着信を知らせてくれた。送り主が牧田先生と表示された。その名前に、心臓がドキッと高鳴る。一体どういう内容か皆目検討がつかないので嬉しさと不安が混じった気持ちだ。でも、こういう時はネガティブな内容と想像し心して確認する方が得策だろう。タイガーウッズから学んだメンタルコントロールだ。
恐る恐るメールを開いた。
文頭のごめんなさいという羅列が、目に飛び込んできた。ごめんなさい。心の中で反芻する。
ごめんなさい・・・牧田先生が何故謝るのだろうか。
「ごめんなさい。この間、感情的に部屋を出てしまってから今まで悲しさと怒りでいっぱいだったんですけど、あたし自分のことばかりでハルくんの状況やピアノ辞めると言った理由を考えていませんでした。お恥ずかしいかぎりです。また傷つけてしまったら申しわけありませんが、その・・・、好きな人と何かあったのでしょうか?告白する必要が無くなる何か、出来事があったのでしょうか?もしそうであれば、あたしは最低なことをしました。本当にごめんなさい。また直接お話しできたら嬉しいです」
ああ、なるほど。そうきたか。
読み終わって少し安心していた。突き放される内容ではなく、寧ろ直接お話しすることを望んでいるようだから。しばらくその文面を眺め返信の内容を考えていた。会って直接話せるなら願っても無いことだ。しかし、嘘から始まったピアノ練習。僕にピアノの演奏を聞かせて告白したい想い人はいないのだ。僕にいるのは嘘をついてでも一緒に居る時間をつくりたい人。
それを牧田先生に話す勇気は、まだ持てていない。
「謝るのは僕のほうです。本当に失礼な態度でした。申しわけないです。もし、牧田先生がよければ、またピアノ教えて欲しいです」
親指は、躊躇いも無く送信を押した。
翌日、早速僕は牧田先生と会うためにピアノ教室の近所にあるカフェに向かった。
住宅街にあるそのカフェは、若いご夫婦が営んでいる知る人ぞ知る隠れ家のようなカフェで、真っ白な壁に青い扉と真っ赤なポストが良く映えている。店内は緑と茶色のアースカラーでまとめられていて、とても洒落ていて落ち着く空間が創られている。こんなカフェがあるのは知らなかった。
牧田先生からの提案でこのカフェで待ち合わせることになった。地図が苦手ということで、場所の詳細は優子から教えてもらった。
優子とは、何度も行っているお馴染みのカフェらしい。
連絡を久し振りに取り合ったその翌日に、直接会うだなんてまるで会いたいが募っていたようで恥ずかしい。牧田先生も同じ気持ちでいてくれたのだろうかと想像してから首を振る。きっと、そうじゃない。こう思うのは、実際違った時のメンタルの崩壊をある程度防ぐための技術だ。タイガーウッズのメンタルコントロールが、いつの間にか根付いている。
まだ、牧田先生は来ていない。約束より三十分も早く着いてしまっているので当然だ。
窓際の席に若い男女がいる。他に客はいないようだ。愛想がいい奥様に会釈し、入口に近い席に腰を下ろした。主人は黙々と何かを作っているようで、背中しか見えない。取り合えずオレンジジュースを頼む。ちびちび飲んで牧田先生が来るのを待とう。しかし、僕という人間は目の前にある分だけ飲み食いしてしまう性分で、オレンジジュースが運ばれて来るや否やズズズッという音を響かせ、飲みほしてしまった。すぐまた手持無沙汰になり、牧田先生を待つ緊張で落ち着かない。氷の僅かな解け水も吸い上げ、ついに氷本体を口に放り込もうかと考えた時、入口のドアが開いた。お互いの視線はまるでプログラミングされたように交じりあった。綺麗なブルーの丈が長めのワンピースに、黒のコンバースのハイカットを合わせカジュアルダウンさせている。そこが彼女に良く似合っていて僕の鼓動を早くさせた。肩まで伸びた黒髪は少し重みをもち、前髪が眉毛の上に揃えられている。童顔な彼女にそれはよく似合っていた。久しぶりに会い、その容姿は新鮮に映った。
まさに息を飲むほどの素敵さで、暫くそのまま見入ってしまった。牧田先生は、照れたように視線を外し笑みを浮かべ小さく頭を下げた。それでようやく我を取り戻し、立ち上がり頭を下げた。
「ごめんね。お待たせしてしまって」
「いや、全然です。こっちこそすみませんでした」
「ううん。あたしのほうこそ考えが足らず申しわけなかったです」
いやいや、こちらこそ。いえいえ、あたしこそ。そんなやり取りが続き終わりそうにない。一旦、座りましょうと僕が言い、お互い座ったことによって謝り合戦が終戦した。
「何頼みますか?これメニューです」
「あ、ありがとうございます。ハルくんは・・・あっ、ごめんなさい。もう頼んでたんですね。あたし遅いからもう飲んじゃって」
「あ、いやいや。自分直ぐ飲みほしちゃうんですよ。お恥ずかしい話なんですけど出されたら出された分すぐ飲んだり食べたりしてしまうんですよね」
なんだか謝ってばかりだ。空のコップを直ぐに下げて貰うべきだったかと後悔した。
「ふはは」
牧田先生が笑っている。自然な表情に安堵するとともに笑っている理由が不明で戸惑いもあった。
「えっと、なにか?」
牧田先生の笑顔につられ少しの笑みを浮かべながら恐る恐る窺う。
「ハルくん相変わらずですね」
「え。なにがですか?」
「映画の時」
「映画・・・?」
「映画一緒に観た時も飲み物すぐ飲みほしてたから。それ思い出しちゃって。ふはは」
「ちょっと、そんなことよく覚えていましたね。まず牧田先生が、僕が飲みほしていることを知っていること自体にびっくりです」
「だってズズズッて音立ててたから。まだ映画始まる前なのに。ふはははは」
「ちょっと馬鹿にしていません?流石ピアノの先生だけあって耳はいいんですね」
「あっ、耳はってなによ。失礼な」
「おお。よく気付きましたね」
「耳はいいからね」
一気に緊張が解けた。冗談や皮肉を言い合いその度に二人は笑い合った。一度、それが怒りの感情でもぶつけ合ったことによって、さらに距離が近くなったように思う。
「じゃああたし、期間限定自家製梅ソーダにしようかな」
「あ、いいですね。僕も同じの頼もうかな」
「うわ」
「え?なんです?」
「まねっこ」
「いや、いいじゃないですか。え?だめ?」
「嘘ですよ」
「ちょっとなんですかその嘘」
こんな具合に牧田先生がおどけてくれるのが、内心堪らなく嬉しい。笑顔に溢れる奥様にそのまま注文する。
「梅好きなんですよね」
「あ、僕も好きなんですよ。梅。できれば自分で梅ソーダ作りたいですもん」
「ああ。わかります」
「そうなんですよ。映画で家族が、毎年梅を漬けることが描写されていて、それを観た時にもし自分の家族が出来た時、家族の文化として毎年梅を漬けようって思ったんです」
「えー、なんか素敵ですね。あたしもそうしたいな」
「ですよね?梅を漬ける容器が売っていると見ちゃいますもんね。見ているだけで楽しくなってくる」
「ふふふ。なんかわかる気がする」
牧田先生が同調してくれる度に、自信が募る。そして気分が高揚し鼓動が高鳴る。本当は「あたしもそうしたいな」の返答の選択肢に迷った。あえて触れず深く捉えていないような返答をしたが、一旦冷静に考えると「あたしもそうしたいな」って結構衝撃的な言葉ではなかろうか。もはやこれは告白いや、プロポーズではなかろうか。そうだとしたら、返答に間違えた。大間違いだ。なんて失敗だ。後悔が、一瞬に僕を支配する。どうにかしてまた「あたしもそうしたいな」と言った彼女の意図を都合よく妄想し、またその言葉を彼女から発信させたい。そうしたならば、今度はそれを受けとめるから。昨日まで持てなかった勇気を今なら持てる気がする。
「いやー、家族の文化にしたいなー」
また牧田先生から「あたしもしたいな」を引き出すために、もう一度同じことを言った。これで狙い通り牧田先生から返答がきたならば、それを受けとめ、そして僕の元に引き寄せる言葉を放つ覚悟を早急に作成した。即席の分その覚悟は、簡単に砕けそうになりながら必死に絶対言うと何度も心の中で反芻した。スコープでターゲットを狙う狙撃手の如く息を殺し密かに牧田先生の返答を待った。
「ねえー・・・」
きた。同意の返答だ。放て。
「いっしょに・・・」
「どっちが美味しく作れるか勝負しましょ。和山家対牧田家」
僕の口がスナイパーライフルではなくてよかったと思う。一緒にと言いかけて止められた自分を褒めてあげたい。冷静になれば牧田先生の返答の意図に最初から僕との将来は含まれていない。何だろう。気持ちが前より抑えられない。もう勇気を持つとか持たないとかの話ではなく、その選択肢ごと凌駕する思いが迫っている。
「和山家の方が美味しいです」
「はいはい。あっ、今日はそんなことより話したいことあって」
こちら側の孤独な戦いをあざ笑うように、そんなことよりと突き放されてしまった。完全に自分の立場を知った。遠い。牧田先生は遥か遠くにいるのだ。それも仕方ない。そもそも牧田先生は、僕には想い人がいてその為に、ピアノを練習していると思っているのだから。
そう改めて考えると、少しピアノへの熱量が下がったのを感じた。
「話したいことって何ですか?」
「映画観に行きましょ」
「は?」
「え?何その反応。ダメですか?」
「あ、いやダメではないですけど・・・てっきりピアノの話しかと思っていたから」
「ピアノの話じゃないんだなー。観たい映画が、今週末公開するの。ほら、前また一緒に観てくれるって約束したでしょ?」
「まあ、しましたけど・・・」
「あれ。あんまり乗り気じゃないですか?」
「あ、いえいえそんなことないんですけど、話の内容が意外で状況理解が追いついてないです」
「多分ハル君も好きそうな映画ですよ。今週の土曜日って空いてないですか?」
「土曜日・・・は、何もないです」
「ほんと?やった。映画行きましょ」
「わかりました。いいですよ」
「よかったー。ハルくんと連絡取らなくなってしまってからハル君が、ピアノを断念してしまった悲しさより、一緒に映画を観てくれる人を失った悲しさが大きくて、もう一緒に観てくれないんだって考えたら苦しくなってきて。でも、本当安心した。よかったー」
そこまで一気に言い終えたタイミングで自家製梅ソーダが運ばれてきた。牧田先生は、満面の笑みでそれを迎え、そのまま一気に飲み干した。
「ズズズ・・・」
「はやっ。貰った瞬間ズズズって僕じゃないですか」
自虐で突っ込みを入れる。
「ふはは」
心から安らいで笑っている。
「まねっこ」
「真似じゃないで・・・あっ・・・」
「ん?どうしました?」
「い、いえ。ごめんなさい。なんでもないです」
そう言ってふははと笑って誤魔化す牧田先生。何を誤魔化したのかはさして気にならなかった。きっとピアノを断念してしまうより一緒に映画を観てくれる人を失うほうが悲しいと言ったけど、それは多分嘘だろう。でもそれも気にならなかった。僕の気持ちは、既に土曜の映画に支配されていたからだ。牧田先生とまた映画に行ける。何より今、目の前には母親に抱っこされながら寝ている赤ちゃんのような微笑みを浮かべる牧田先生がいる。
それだけで後は、なんでもいい。どうでもいい。そう思っていた。