第十五話 太陽と水溜まり
エスカレーターでどんどん上に行くと、照明が一段と抑えられたフロアに着いた。
甘いキャラメルの香りが鼻を刺激する。
大型画面から作品の予告が流れている。何年振りだろうか。
小学生の頃に友人と、クラスメイト同士が殺し合う映画を観た以来の映画館。年齢制限がかけられていて、本当はその映画を視聴できるまで三年足りない年齢だったが、その友人の母がチケットを買ってくれて、中に入って視聴することが出来た。しかし、その衝撃的な内容の映画を観終わった後、気まずい雰囲気になったことをよく覚えている。
僕と友人は、同じクラスだったからもし自分のクラスが、映画の中のクラスのように、殺し合わないといけなくなったらどうしようとお互い考えたのだと思う。少なくとも僕は考え、映画の中で友達同士が殺し合うシーンが頭から離れなくなり、急いで考えるのを断ちきった。しかし、断ちきったつもりだったがその後暫くこの件で悩まされることになった。
年齢制限は守らないといけないのだとそこで反省し、年齢制限を守らないで観てしまったこと、友人同士で観てしまったことに酷く後悔した。
僕は友人である彼を殺さないだろう。
だけど、友人である彼は僕を殺すだろうか。思い計れない他人の思いに、永遠に悩まされていたような気がする。
牧田先生を映画に誘ったその日に、僕は牧田先生と連絡先を交換した。
「日にち決まったら連絡してくれるかな?予定合わせましょ。観る映画はハルくんにお任せするね」
そう言いながら携帯電話を、僕に向けて無防備にさらした。それが、連絡先交換の意図だと気づくのに一拍遅れた。慌てて自分の携帯電話を、ジーンズのポケットから取り出そうとするも、硬いポケットに苦戦しなかなか取り出すことが出来ない。普段は造作もないことであるのに、意識し過ぎるとそれができなくなる。一瞬、入学式の入場で、手と足が、一緒に出てしまっていた沼田君を思い出した。
沼田君・・・。
きっと僕は、その類の状況に陥っているのだろう。ついに左手でポケットの口を広げ右手の人差指と中指を、箸のようにして取り出した。両手を総動員させたその必死加減が、自分の心の内が透けてしまっているようでとても恥ずかしい。牧田先生の顔を見ることが出来なかった。携帯電話に視線を落としたまま、連絡先を交換した。
太腿に振動を感じ、携帯電話を取り出すと牧田先生からメールの着信が入っていた。少し遅れるという旨を伝える文面が、そこには打ち込まれていた。
遅刻は問題ではないこと、慌てずに気をつけて来るようにということを、丁寧な文章で作り上げ返信した。観たい映画の上映時間には、まだ余裕がある。
牧田先生が来る前に何か出来ないかと思案し、チケットを先に購入することにした。自分から誘った映画だし、男たるものデートは奢るものだと考えている。中段の真ん中の席を二つ選んだ。そこでやっとデートを垣間見た気がした。
隣の窓口で高校生くらいの若い男女が、チケットを購入している。席を決めるその時から二人は、楽しそうに盛り上がっている。
牧田先生が来てから一緒に購入するべきだったかと、少し後悔した。
僕が来てから既に何度目かの映画の予告が流れた時、エスカレーターに乗って上がってくる女性を目敏く見つけた。
牧田先生だ。
紺のベレー帽にトップスは盛り袖の白いブラウス、ボトムスにハイウェストの切りっぱなしのデニムパンツ、足元は目の粗いシルバーのペタンコパンプスを履いている。グレーのハンドバックには青生地のスカーフが結ばれている。
今まで見たことのない姿だった。
シンプルだがとても洗練されている。僕の鼓動は彼女を認めた瞬間に大きく鳴り、今は早鐘を打っている。
僕の視界には、もう牧田先生しか映らない。
牧田先生も僕を見つけ、あっという表情をし、手を振りこちらに駆けて来る。その、あっという表情に心を掴まれた。その握力の強いこと。呼吸に支障をきたす。
僕も牧田先生に向かって歩を進めた。
牧田先生は駆けて来たので、僕は歩数にして三歩、歩くだけでよかった。
「遅れてごめんなさい」
開口一番にそう言ってから、牧田先生は深々と頭を下げた。
「ううん。全然大丈夫ですよ。映画の時間までもう少しありますから。あ、先に牧田先生分のチケットも一緒に買っておきましたよ」
そう言ってこれと手渡した。しかし、牧田先生は僕の想像と違う表情を浮かべた。僕の想像は喜ぶ牧田先生だったが、目の前の牧田先生は、少し困っているような表情だ。
「ありがとう・・・。でも、この分はあたし払わせて」
「いやいや、いいですよ。僕の奢りで」
「いや、でも・・・」
何処か居心地の悪そうな表情で、返事も歯切れが悪い。年下で学生の身分の僕に奢られのが、気に障ってしまったのだろうか。予想していなかった反応に困惑し、頭の中でぐるぐると原因を探す。
「あ、じゃあ映画の料金はやっぱり払わせて。その代わりポップコーン奢ってくれる?」
こちらの勝手な善意を挫かせないような提案だった。男としての面子を立ててくれたのだ。
「わかりました。ちょっと買ってきますね。何味がいいですか?」
「んーキャラメル。・・・と、塩」
だめ?とでもいうような視線を投げてくる。
「わかりましたよ。じゃあ塩とキャラメルの半分このやつにしますね。あ、飲み物いります?」
「じゃあ、甘えちゃおうかなー」
悪戯な笑みに男心を擽られる。しかし、可愛い過ぎやしないだろうか。ボンボンと体の内から心臓が叩いてくる。
僕がピアノだったらどういう音が鳴るだろうか。
近くに居るだけで心臓が早鐘を打ってしまうような人と居る時、僕はどんな音がでるのだろう。
「僕、ジンジャエールにしますけど、牧田先生何にします?」
「んー、じゃあメロンソーダ」
「りょーかいです」
「ふふ、ありがとう」
お礼を言う牧田先生が、少し照れているように見えた。ざわざわと体の内から生みでるエネルギーを感じた。買って戻ると牧田先生は、ズラリと並べられているこれから公開される映画のパンフレットを眺めていた。そっと近づいてみると、既に何枚かのパンフレットを手に取っていた。
「まーきた先生。お待たせいたしました」
「あっ、ありがとう」
「なに見てたんですか?」
「あーそうそう。じゃーん」
そう言って、得意げにおどけて手に取っていたパンフレットの一枚を見せつけられた。
「あ、これ」
それぞれ代表作のある人気と実力を兼ね備えた四人の女優が共演することで、既に話題になっている邦画だ。僕も好きな女優が出演するということで気になっていた。公開は来月だ。
「流石に知ってますよね。凄く話題になってますもんね。あたしこれは、一人でも映画館で観ようと決めていたんです」
チャンスだと内側の自分が訴えてきている。
「牧田先生、映画好きなんですね」
「実はね。でも一人で観るより誰かと一緒に観てその後に感想を言い合うのが好きだからなかなかその機会が・・・ね。無くてね。ふふ。でもこの映画は一人でも観ようって決めていたから観るんだ」
照れたように笑う牧田先生。僕はこの照れた笑顔に弱い。
好きだ。
「よかったらその映画一緒に観ません?来月ですけど・・・」
勇気が恥ずかしさに変わる前に、牧田先生はみるみる目を大きく見開いていき顔を輝かした。
「本当ですか?いいんですか?」
「もちろんです。その、僕で良ければですが」
「いえいえ、寧ろ一緒に観てくれるなんて嬉しいです」
「じゃあ、また来月ですね」
「はい。よろしくおねがいします」
ニヤニヤと笑いながらぺこりと頭を下げた。彼女の旋毛が目にとまり、何故か心臓がトクンと鳴った。
「あ、もう中入りましょうか?」
「そうですね。行きましょう。今日のも楽しみ」
「良かったです。僕に付き合わしてしまって興味無かったら凄く申し訳ない気持ちでいたから」
「全然。大丈夫ですよ」
公開から大分時間が経っている映画ということと、平日の夜ということもあってスクリーン内はほぼ僕らしかいなかった。
確かアメリカだと映画をカップルで行くのは、キスをする為だと聞いたことがあった。
スクリーン内の後ろの席を取り、奴等は暗くて人目が無いと見るや否や、激しくお互いの唇を交じ合わせるのだろう。確か誰も乗らない時間帯の地下鉄では、それより先のことを・・・。いけない。何故に牧田先生を横にしながら不埒な思いに囚われているのだろう。もし、このうような状況であれば極端な話、相手が女性であれば誰であろうと興奮してしまうのだ。その強い感情を得てして男は好きだという感情と誤解する。しかし、その実好きなのはその行為自体のことなのだ。もっと言えば強いて好きという言葉を使うならば、好きなのは相手ではなく快感を得ている自分自身なのだ。そうであれば、どうして純粋に好きな人を不埒な思いの対象として成り下げて見ていいだろうか。
そんな風に彼女を見たくはない。
自分しか愛せない人の末路は孤独だと思っている。
牧田先生は、ポップコーンを食べている。僕はドリンクのストローに口をつけて吸い込むもズズと音が鳴り、吸えたのは氷の解け水だった。少し前の勇気のせいだ。
光が落とされ当たりは暗くなった。
スクリーンの明りの元、顔を一度牧田先生と見合わせた。
にこりと白い歯を見せて牧田先生が、笑顔をつくった。僕もそれに合わせて笑ってみせた。
スー。もはや氷の解け水もない。
このままでは、体内から干からびてミイラになってしまう不安に駆られた。牧田先生が、笑顔でこちらを向くということはつまり、太陽を雨上がりの水溜りに三十センチメートル近づけた状態と同じことが起こっているといえるだろう。
恋には水分が必要だと後世に伝えることに決めた。
人間の体の50~75%は水でできているのは偏に恋をするためなのだ。
映画が始まってからも隣が気になり映画に集中することが難しかった。
僕の視線は確かにスクリーンに向けられ映像を捉えていたし、耳からは英語が確かに入ってきていたが、それ以上に変換処理されることはなかった。頭の中で違う映像が流れていたからだ。他のことに心が奪われて注意が向かない状態。これが上の空だ。国語辞典を引いてしまったように分かりやすい状態になってしまった。
「いい映画でしたね。感動しちゃった」
結局、国語辞典化したまま映画が終わってしまった。牧田先生は感動したと少し瞳を滲ませている。
「あたしね、映画は自分でお金払わないと気を使って本心の感想が言えない気がするから映画とかそういうのは自分で払うようにしているの」
「あ、だから最初・・・」
「そうそう。変な感じにしたくなかったんだけど、ごめんね」
「あ、いえ。全然それは大丈夫でしたけど。ポップコーンとかドリンクは買わせてくれたじゃないですか。そこでバランスとっていましたよね?」
「あ、やっぱバレてました。映画の料金はやっぱり譲れなくてね。こう観終わった後にあれがどうだったとか、あのシーンはこういった意味があったんじゃないかとか感想、意見言い合うのが好きなんですよねー。今日誘ってくれてありがとう。久し振りにいい映画観れて本当に満足」
国語辞典化している場合じゃなかった。
「全然。喜んでもらえて誘った側としても嬉しいです。本当感動しましたね」
本当は夕食に誘い今日観た映画のあれこれについて語り合えたら、完璧だっただろう。しかし、上の空であったがために、僕は映画のあれこれについて語ることが出来ない。主人公の名前から怪しいときた。そして想像する。映画についてあれこれを語り合うのが好きな牧田先生が、何故か今さっき一緒に観た映画のあれこれについて語れない僕を目の前に落胆する姿を。そしてその空間があたかも教官の太腿を鷲掴みにしてしまった車内のように変わることを。そんな墓穴を掘るような真似はしたくない。まだ死にたくない。自分自身の延命を選んだ僕は、帰ってピアノを練習するという理由で切り上げた。
牧田先生は拍手して偉いと褒めてくれたが、心なしか淋しそうにしていたのは気のせいだろうか。
それは流石に自惚れだろうか。
せめての収穫はまた来月と次の約束を確認して別れたことだろう。
今日の失敗をもうしてなるものか。そう硬く決意した。
帰ってから言い訳のようにピアノに触れた。