第十三話 魅惑の溶き卵
その日は母が奮発し腕をふるいすき焼きを作ってくれた。
普段は食べない上等な牛肉だ。牧田先生を迎え賑やかな夕食。
今日は父も夕食に間にあった。電気技術者として勤める父は、繁忙期で最近は殆ど夕食を共にすることはできていなかった。
牧田先生はすき焼きの具を生卵にとおして食べる事は出来たが、残った生卵を食べるのが苦手らしい。
残った生卵はうちの家族は卵かけご飯にして食べる。
僕は寧ろすき焼き終わりの卵かけごはんの方が好きだった。
牧田先生はそれが食べられないという。
残すのが悪いと思ったのか頑張って食べようとしていたところ、母が無理しないで、残してもいいと止めた。牧田先生は申し訳なさそうなのと食べなくていいという安堵の気持ちが混じったような表情をしていた。
そして、母から見事なセンタリングを受ける。
「あんた卵かけごはん好きでしょ?牧田先生これハルにあげていい?」
「えっ、あたしは全然。でもそんなあたしの食べ残しなんで・・・」
「いいわよ。そんなの。うちは気にしないから。ほら、ハル食べるでしょ?」
母は男女が一緒に寝ることには厳しいが、間接キスには甘い。
食べ物を残さないということに比重を置いている母は、息子の妄想力の強さを変態さを考えてもいないだろう。
こんな正確なセンタリングだったら僕はゴール前で突っ立っているだけでいい。
「うん」
「ハルくん、ごめんなさい。あたしの食べ残しで」
「ああ、ううん。全然。大好物なんで」
大好物なんで。気持ち悪く捉えられなかったか言ってすぐ心配になった。
ちらりと牧田先生の顔を盗み見た。
妹と音楽について話している。どうやら気持ちがられていないようだ。
牧田先生の溶き卵を食すべくおかわりした白いご飯に、牧田先生の溶き卵を流し込む。
ふと視線を上げると牧田先生と目があった。
心臓が早鐘を打つ。
見られているのも非常に食べづらい。牧田先生の内の部分を体内に取り入れるのだ。この溶き卵に溶かれているのは卵だけではない。牧田先生の分泌液を自分の体内に入れるのだ。そんな心の内を知らずに牧田先生は穏やかな笑顔を湛えている。過度な妄想は一瞬に僕を駆け巡り支配した。
扇情的な溶き卵に生唾を飲み込む。
緊張と興奮の精神状態の中、卵かけごはんと少しの罪悪感を流し込んだ。
味は全くしない。
「またピアノ弾いてほしいな」母が馴れ馴れしく牧田先生の腕に自分の腕を絡ませながらおねだりする。いつの間にそんな近い関係になったのだろう。
「あ、弾きましょうか」
やったーと諸手をあげて子供のように喜ぶ母、見てるこっちが恥ずかしくなる。すかさず優子は牧田先生の横に椅子を並べ座る。連弾でもする気かと突っ込みたくなる。邪魔なはずなのに牧田先生は笑顔で妹を迎えている。寧ろ牧田先生自身が、妹の場所の為に少し横にずれた。
母は乙女のようにピアノの近くに座り手を合わせキラキラした眼差しをピアノに向かう牧田先生の背中に送っている。父は我関せずの意思表示のように新聞を広げ読んでいる。
案外、新聞の向こう側で聞き耳を立てているのかもしれない。
「では」小さく言ってから鍵盤を叩く。
しかし、叩くというよりは撫でていると表現した方が適切だ。鍵盤の上を右へ左へと手が流れる。それなのに音は力強く鳴り、それでいて音の繋がりは優しかった。
あの日、自分の部屋を出られずベッドの上で聴いた曲。
今は、笑った拍子に出る唾が当たってしまうくらいの距離で聴けている。
優しさの迫力にたじろいだ。そして、とても深い郷愁に駆られた。
何故か泣きたくなる。
一番の盛り上がりを迎えた。牧田先生の腕が激しく動く。指先も早回しのように動いている。体も頭も揺れている。その動きも全部鍵盤を叩く指先に伝わっている。
今度は確かに叩いているのに何故だろう。
聴こえてくる音の一体は、完全な優しさをもっていた。
その完全な優しさに僕の全てを預けてしまおう。そう思った。その瞬間、視界は牧田先生を写しているはずなのに一瞬、ほんの一瞬真っ白な世界が見えた。
穏やかで清らかな場所だと無条件に感じた。はっとした時にはもう見えない。
だけど心が安らいでいるのに気がついた。
あの場所は何処だろう。
牧田先生のピアノは涙のようにポツリポツリと音を奏で、その演奏を終えた。
牧田先生が椅子から立ち上がり僕等の方に向き直りそして、一礼をした。
ピアノコンクールさながらの所作。少し照れた笑いを宿す牧田先生。その穏やかで柔らかな表情を見つめながら思った。
このピアノの演奏こそが彼女自身なんだ。
柔らかなタッチで力強い音を鳴らしたように、彼女の内には何か強い意志や決断が秘められているのかもしれない。そして、その強い秘められた思いは、純粋な愛に根ざしているのだ。詳しくは知らないが、まるでナイチンゲールやマザーテレサといった女性を思わせた。
漠然と愛の塊と関連付けられている女性の名前が浮かんだということは、牧田先生もそういうことなのである。
愛の塊。
確かに僕はこの数分、愛の塊に打たれたのだ。自然と拍手をしていた。自分の拍手の音が目立たないのは、聴いていた両親、妹が既に盛大に拍手をしていたからだ。
それに気付いて拍手をすぐ止めた。
父はいつの間にか新聞を畳んで傍らに置いていた。三人ともが興奮冷め止まぬ表情で牧田先生の演奏を賞賛している。思い思いの感想や感情を、声、言葉、仕草にして牧田先生に伝えている。
物静かで内向的な父も、言葉に発して演奏を称えている。
素直に感想を表現し伝えている三人の手前、酷く幼稚な捻くれだと承知はしているが制御する術もなく三人の喜びのボルテージが上がれば上がるほど距離を置き冷めた態度に変わっていく。こうなると、牧田先生の笑顔が鋭利なガラス片と思えた。
何故僕は傷つき、へそを曲げた子供のようにいるのだろう。
ふと、牧田先生と目があった。愛の密度が圧倒的に高いその瞳は強力な引力を引き起こした。それは、光さえも飲み込むブラックホールさながらだ。彼女の内に引き込まれるなら願ってもないことだ。自分の内に取り入れた牧田先生との間接溶き卵かけごはんが浮かび体を熱くさせた。捻くれた心は解されて穏やかなものになっていった。
そうして、圧倒的な愛を感じると素直になった。
一瞬、綺麗なアーモンド形の瞳が脳裏を過った。
これは。はにかみの妖精。
ああ、そうか。僕は好きと言えずに恋を終わらせていた。
もう、何も言わずにいるのはよそう。時間は何をしなくても過ぎていくし、突然会えなくなることもあるのだから。
「あの」やっと発した僕の言葉が響いた。
静まり返り皆の視線が僕に向いた。
「すごく、素敵でした・・・」自分の心臓の音に掻き消される程の声量だ。
ちゃんと牧田先生の耳に届いたか不安になり恥ずかしさが光の速さを超えてやってきた。
意図せずに牧田先生の瞳から抜け出してしまった僕は呆然と立ち尽くす他無かった。反面、パリで暴動を起こす市民のように心臓が暴れまくっている。
「ありがとう」牧田先生は満面の笑顔で答えてくれた。
届いていた。
よかった。牧田先生の内にいる素直な僕が言葉を繋げられたらよかっただろう。だが、残念なことに恥ずかしさにその世界から引きずり出されてしまった。いま、牧田先生の目の前に居る自分は捻くれた心と虚栄心を持つ男だ。
素敵でした。そこまでで、満足すればよかった。ましてや素直の僕ではないのだから、これ以上無理して言葉を繋げなくてもよかった。しかし、パリの暴動はおさまらず後戻りが出来ない状態になっていた。
心臓が暴れる惰性そのままに言葉を繋いだ。
「今度、ピアノ教えてくれませんか?」えっ、という表情がそこにいる誰もがしたように感じられた。少なくとも目の前の牧田先生はそんな表情に見えた。
当然のことだろう。自分自身も驚いた一人なのだから。心臓の暴動はそんな僕をさらに動かす。そのビートに合わせるように一気に言い放った。
「今、ちょっと気になっている人がいてその人に弾いてあげたいと思うんです」
ナニヲ、イッテイル。
「え。何言ってんの」と、妹。はい。僕もそう思います。
「あら。もう好きな子ね。どんな子なの?」と、母。いや、そこ掘らないで。
「うん、うん」と、頷く父。いや、何を納得している。
「あ、いやちょっと言ってみただけ・・・」慌てて訂正を試みるも「それって、素敵ですね。わたしが出来ることなら協力しますよ」と、牧田先生はやけに嬉しそうで乗り気だ。
マサカノショウダク。
嬉しそうな牧田先生に今度は複雑な気分に苛まれる。
妹がそんなことよりと楽譜を開き始め牧田先生に質問をし始めた。母は、明日の準備をしなくちゃと台所に移り、父は「明日、はやいんだ」と、誰に言うのでもなく呟き部屋に戻っていった。僕はその場に立ち尽くし、よく喋る妹と笑顔でそれを聞く牧田先生を眺めていた。
これからどうなるか分かるはずもないが、これを一つの前進として捉え半ば強引に良しとした。