第十二話 雨と帰り道
今朝から降り続く雨は止むどころか、段々とその雨足を強めている。僕は自宅の最寄り駅の窓に雨粒が当たり流れる様子を眺めていた。初めはゆっくり流れるが、やがて他の雨粒と合流し面積を広げた水滴はすーっと流星のような軌跡を創り流れていく。
昔から雨の日の窓を見るのが好きだった。
不規則に流れあちらこちらで雨粒が合体し、水流は合流する。
合流した水流は勢いを増し流星の軌跡を創るが、合流しない雨粒はゆっくりと触角を持つ昆虫のように探り探り流れていく。
その雨粒一滴ずつにそれぞれの物語を感じていたのだ。
だから飽きもせずにずっと眺めていることが出来る。
あの雨粒は上手く大きい水流に合流できたな。あの雨粒はまだ一人ぼっちだな。そこからそういう流れで合流するなんて大逆転劇だ。と、いった具合に。何故か僕の中でどれだけ雨粒同士が合体し大きい水流を創れるか、大きい水流に合流できるかが、雨の窓枠内の世界での成功と決めていた。
昨日の夜、妹に突然頼まれた。
「明日牧田先生泊まりに来るから駅まで迎えにいってくれない?」
牧田先生が初めて我が家を訪れた日から、たった数日のことだった。
「え、また来るの?てか、なんで?自分で行けよ」
「明日学校遅い日だったの忘れてた」
「いや、来てくれる時間遅くしてもらったら?」
「ううん、できないの」
「どうゆうこと?」
「とにかく駅までお願いね」そう言って、自分の部屋に戻っていってしまった。そして携帯電話の着信が鳴った。妹からのメールで文面には「十七時三十八分着の電車」と打たれていた。妹の強引さに圧倒されつつ、牧田先生の名前の登場に精神は反応し爆発した。その爆風に乗って精神は既に今日を飛び越えて行った。
「わかったよ」と妹に返信をした。
妹から返事は無かった。
時計の針が十七時三十八分の五分前を指そうとしている。
駅内にアナウンスがかかり隣の駅を電車が発車したことを伝えてくれた。
牧田先生を乗せた普通電車が隣の駅を発車した。
そう意識すると落ち着かない。立ったり座ったりを無意味に繰り返した。
やがてカンカンと踏切が鳴り遮断機が下りる。
音叉と化した心臓は踏切の音に共鳴するように鼓動をはやめていく。そして、次第に踏切の音より早く大きくなっていく。
もう駄目かもしれない。
右手で心臓を思わず抑えた。その時電車が滑りこみ金属音を派手に鳴らし止まった。
ぞろぞろと人が駅に入ってくる。
ちらちらと視線を感じながら牧田先生を待った。
苦しそうに右手で胸を押さえているのだから見られても仕方ないだろう。
傘を忘れた学生や仕事帰りの男が迎えに来てくれている車に乗り込んでいく。
車でこればよかったかな。そう後悔した。
駅から自宅まで徒歩五分だったのでわざわざ車を出さなかったのだが、雨降っているし、妹も車の運転を期待して僕に頼んだのかもしれない。
泊まりだから荷物も大きいかもしれない。不安が膨らんでいく。
徒歩で迎えに来たと知ったら牧田先生をがっかりさせないだろうか。嫌な思いをさせないだろうか。そんな不安に駆られていると、牧田先生がゆっくりと現れた。
僕に気付き満面の笑顔で手を振っている。
僕の精神はそこで大爆発を起こし恐らく地球を光速で一周し戻ってきた。
どうやら牧田先生が精神に混じると爆発を起こしやすくなるらしい。
手を振り返す代わりに頭を下げた。
「すみません。お迎え来て下さって。駅から近いから優子ちゃんに自宅までの地図教えて貰ったんだけど自信なくて」
「全然。ほんと近いんで。それで、徒歩なんですけど大丈夫ですか?もし、必要だったら車とりに帰りますけど」
「そんな。大丈夫ですよ」
「すみません。じゃあせめて荷物持ちますよ」牧田先生の右腕に黒いトートバッグが提げられている。
「あ、じゃあ、お言葉に甘えてこれいいですか?」
「もちろんです」
渡されたトートバッグは予想以上に重く驚いた。
「結構重いですね」
「すみません。楽譜とか入れてるので結構重くなってしまいました」そう言って無邪気に笑う牧田先生。そんな笑顔を見せられたらトートバッグ、後、十個あっても持ち上げてしまうだろう。
「それじゃ行きましょう」
駅を出て二人は同時に傘を広げた。牧田先生は僕の右隣りを歩いている。
傘に当たる雨音、地面に落ちる雨音。二人は雨音の中にいた。
「雨ですね」ぽつり呟いてみた。
「雨ですね」と返ってきた。
「僕、雨って嫌いじゃないんですよね」
「どうしてですか?」傘を少し上げ顔を覗かせた。
「雨が降るとこれまでの雨の日を思いだせるんですよ。遠足、修学旅行、体育祭そういった数々の行事は雨のことが多くて。その時のことはもちろん思いだせるんですが、例えば雨の日の通学路、雨の日に妹と遊んだこととか、そういった日常の極平凡な場面を雨が降っていれば思いだせるんです。なんでしょう。匂いなんですかね。そうすると懐かしくなって微笑ましくなって。だから雨嫌いじゃないんです。でも大事な日にはいつも雨が降るってのは、あれ、なんなんですかね」
「確かに。分かる気がする。あ、じゃあ今日のこともいつか思い出すかもしれないですね。何日か後か、何カ月後か、何十年後かの雨の日。今日の雨の日を思い出すかもしれないですね」
「かもしれないですね」何の意味もない言葉だったかもしれない。深い意味も他意もなくましてはそこに好意が含まれているわけでもないのに、僕の精神は牧田先生を含んでいたので勘違いでもやはり爆発を起こし、この一言の間に地球を恐らく三周した。
僕と一緒に歩くこの時間が大事な日だと言われたみたいだった。
苦し紛れの会話だったかもしれない。でもそれがとても素敵な会話になったような気がする。
牧田先生の未来を与えてくれる言葉に僕は虹を見た。
雨は降り続いている。雨は不思議だ。雨の日にはどさくさに紛れる気持ちになる。言葉を変えると、いつもより積極的になれる。こんな素敵な会話が出来たのも雨の日だったからかもしれない。
雨は嫌いじゃない。
僕は、傘を少し高く上げて「もうすぐですよ」と、言った。
牧田先生はそれに笑顔で頷いた。天使かもしれない。
天使の横を僕は歩いている。
家はもう少し。傘を少しどかして雨空を見上げる。所々青空がでてる。顔にポツポツと雨粒が当たる。
「濡れますよ」
「もうすぐ雨あがりますよ」
「あ、そうかもしれないですね」
普段より色をはっきりさせたアスファルトが目の前に延びている。
雨は嫌いじゃない。