第十一話 真相と深層
妹が出てくるのが見えた。
妹はわざわざ運転席まで回ってきた。どうしたのだろうか。
窓を開けた。雨が顔に当たって冷たい。
「ねえ、今日牧田先生家に呼んだから一緒に乗せてってね」
「えっ」
驚いている僕のことはお構いなしに「雨濡れるからもう窓閉めていいよ」と、そそくさとピアノ教室の中に帰っていた。
牧田先生が家に来る。
急にそわそわしてしまう。ルームミラーで自分の顔を映した。
雨で少し前髪が、おでこにひっつている。左手でしゃかしゃかと前髪を解し、首を振ってニュートラルな髪型になるように何回も試みた。
ドアが開いた。
妹と牧田先生が相合傘でこちらに小走りで来た。妹はいつも助手席に座るが、牧田先生を後部座席に案内してそのまま後ろに座った。
「お願いします」と、牧田先生。
ルームミラー越しに目があった。
満面の笑顔。
トクンと鼓動が高鳴った。
無邪気な笑顔を綺麗だと思った。
僕は「はい」とだけ答え、車を発進させた。
家に着くまでの間、優子と牧田先生は話が途絶える事は無かった。ピアノの話、学校の話、恋愛の話、優子はよく喋る。それに対し牧田先生は同じ温度で対応している様子に好感を持てた。
家に着くと牧田先生は「ありがとうございました」と言って、車を降りて行った。今度は目が合わなかった。相合傘できゃーと短い距離を小走りで走っていく二人を車内から見ていた。
そういえば、宿題の提出今日免れて良かった。そう思った。
しーちゃんの母は、しーちゃんが五歳の時に亡くなった。
交通事故だった。
父親はすぐに母の代わりを連れてきたという。
父と代わりの女はホステスと客から始まった関係だった。年齢も母と変わらない。
母が亡くなってすぐに別の女を同居させるその無神経さにしーちゃんはどう感じたのだろう。想像でしか出来ない。怒りだろうか悲しみだろうか。どちらにせよ精神衛生上悪いのは疑いようがなく負の感情がしーちゃんを支配していたのは想像に難くない。結果としてその頃からしーちゃんは笑わなくなり、話さなくなった。
声すら出さなくなった。
新しい女が作ったご飯には手をつけなくなった。
次第に痩せていった。
そういう状況をしーちゃんの父から伯母は相談を受けていたらしい。
伯母は妹の葬儀の時に初めて妹の主人と顔を合わせた。しーちゃんもその場に居たはずだけど、伯母には印象に残ってなかったらしい。
妹の主人はまだ若く幼さが顔に残っていた。
驚いたことに、葬儀に両親は来なかったという。
何かあったらと、こちらから社交辞令で連絡先を妹の主人に教えた。それから数週間後にはじめて妹の主人から連絡を受け、それからしーちゃんのことで相談を受けるようになった。
その日の相談は虐待を疑われて敵わないということだった。
作っても何も食べないから痩せていってしまい、ネグレクトだと後ろ指を指されると苛立った様子だったという。
その頃伯母はまだ結婚していたので、妹の子供とはいえよその子供の問題を真剣には捉えなかった。寧ろ、自分の夫の浮気問題のことで悩まされていたのでそれどころではなかった。
子供の精神状態がおかしくなったと苛立つ父親に苛立っていた。
そもそも新しい女を同居させたのが原因でないか、妹が死ぬ前から関係があったのではないか。自分の夫の浮気と重なり怒りは増幅された。
そして何かが弾けた。
「あんたが妹を孕ませて作った子供のことでしょうが。妹が死んで早々新しい女連れてきたりしてその神経を疑うわ。その新しい女と相談してどうにかしなさいよ。勝手に子供作って、妹を連れて行って、死んだら新しい女つれてきてそうやって勝手にしてきたんだから責任持ってあんたで解決すればいいでしょ。私に何のよう?巻き込まないでよ。くだらない」
それからしーちゃんの父は二度と伯母に連絡をすることはなかった。
それから七年後その父が事件を起こし警察に捕まったと知らされる。
女はもうその時にはいなかったらしい。
しーちゃんは独りになった。
伯母も離婚し独り身になっており、しーちゃんと自分が重なった。昔は印象に残らない気にも留めない存在だったが、自分と重なって初めて彼女の存在を意識した自分に苦笑した。
そして、彼女を初めて不憫に思った。
契約社員として健康食品のコールセンターの稼ぎと別れた夫からの慰謝料があり、子供一人くらい養えると大雑把に計算し、しーちゃんを引き取った。
そして、すぐ後悔した。
「今日、来るって知ってたの?」
台所で鼻歌を歌いながら忙しそうに料理する母をみてそう、訊いた。
「知ってたわよ。優子に言われてたから。可愛らしい方ね」
「ま、まあ・・・」
「美味しいもの作らなくちゃ」冷蔵庫を開けて食材を選ぶ母を背に、自分の部屋に戻る。
その途中、優子の部屋から二人の笑い声が聞こえてきた。
そそくさと自分の部屋に入りベッドに寝転ぶ。
目を瞑ると牧田先生の顔が浮かんできた。「可愛らしい方ね」母の声が聞こえてくる。
そして、いつの間にか眠ってしまった。
一体どのくらい寝てしまっていたのだろう。すっかり暗くなっている部屋で今、何時だろうと思いつつベッドから起きれずにいた。
「ハルーーーー、ご飯出来たよーーー」
下から母の声が聞こえてくる。夕飯前ということは1 時間くらい寝ていたのか。楽しそうな声がぼんやり聞こえる。
牧田先生の声も聞こえる。
「ハルーーーー、ごはんーーーー」
再び母の声。何故か気分が削がれた。苛立っている自分を認めた。トントンと階段を上がってくる足音。ガチャと部屋が開けられた。
「ちょっと、ハル。ご飯出来たってば。ハル、起きなさい」
母に体を揺らされたが、頑なに寝たふりを決め込んだ。
やがて、諦めた母がもうと溜息交じりに吐き、部屋を出て行った。
心に黒い雪が積もっていく。
冷えて暗い気持ちがどんどんと強くなっていく。
そんな自分に戸惑い、憤り、情けなくなっていく。
本当は行きたいのに部屋から出ないのは、ベッドから起き上がらないのは何故だろう。
笑い声が聞こえてくる度に、目を強く瞑った。
暫くするとピアノが聞こえてきた。
僕には何の曲かは分からない。ただ、牧田先生が弾いていることは分かった。
優子も毎日ピアノを家で弾く。
意識せずとも毎日耳に入れていると優子の弾ける曲のレパートリーが分かる。
この音の並び、重なりは知らない。
優子のレパートリー外ということから牧田先生だと判断したのが強いが、それ以外にも何か違うような気がした。
同じピアノなのに。曲のせいなのか。
もっとなんだろう。優しい音がした。
強く瞑っていた目は緩み、緩んだ目元が滲んだ。
僕はどうしてこの部屋から出られず、ベッドから起き上がれなく、目元を濡らしているのか。
分からないことが多すぎて心の真ん中に埋もれていたものの存在が強く際立った。
認めざるを得ない気持ち。
もう僕はそれを誤魔化すことも無視することも出来ない。
ほっと力が抜けるのを感じそして、とめどなく泣いた。