第十話 檸檬色の家
優子は週に二回の頻度でピアノ教室に通っている。曜日は火曜日と金曜日と決まっている。
今日は金曜日だ。窓から見える空は曇天が広がっている。
今にも雨が降りそうだ。
夜七時に今日は終わる。もうそろそろ家を出ないといけない。
「今日も自分行くね」そう、母に声をかけて玄関に向かった。
「助かるー」と母の声が背中越しに聞こえてきた。
外に出る前に洗面台で鏡を覗き髪を少し直した。
シートベルトを締め、今日も五点確認をしっかりしてから車を発進させた。最初に比べて発進も上手になりスムーズに車は動いていく。
速度が乗ってきてシフトをチェンジする瞬間が好きだ。
運転しているという実感も持てるし、カクンとシフトが入る感覚が気持ちいい。
国道に出る前の赤信号で車を停止させた。右にはコンビニがある。
何か買っていこうと思いが過ったが、フロントガラスにポツポツと雨が当たり、コンビニに寄る意欲が削がれてしまった。
ピアノ教室に着く頃には雨足は強まっていた。
雨が車のボディを叩く音、雨が地面を叩く音、全体的にボヤっと白く見える雨の景色がくっきり僕という存在を浮き彫りにしているようだった。
こういう時間を作ってしまうと苦しいんだ。辛いんだ。
どうしてもしーちゃんのことを考えてしまうんだ。
かすみと萌と話した翌日、居ても立っても居られずしーちゃんが預けられていたという伯母さんの家へ向かった。
一度訪問した時にはしーちゃんを知らないと白を切られた。
別人が住んでる。
しーちゃんに嘘を付かれていたと傷心して帰った。
だけど、しーちゃんは家族と住んでいる部分は嘘を付いていたが、住んでいる場所は嘘ではなかった。
伯母さんも意図的に白を切った分けではなかったはずだ。見ず知らずの男がしーちゃんを尋ねてきたら不審がるのも当然な話しかもしれない。
しーちゃんの伯母さんの家は僕の通っている大学の最寄り駅の沿線上にあった。
大学帰りにいつも降りる駅の二つ手前で降りればしーちゃんの伯母さんの家の最寄り駅だった。そこから歩いて十五分ほどの場所にある外壁が檸檬色の戸建て住宅が伯母さんの家だ。
駅を出て南へ道なりに進んで歯医者さんの手前の道を右に曲がったとこにある。立ち寄りやすく覚えやすい場所だった。
いつも大学の帰りに寄る時は、そわそわして十五分という時間がもどかしかった。
大学は午前で終わった。
いつもの駅から二つ手前で降りた。
しーちゃんとよく通った道、よく見た景色。
しーちゃんが何処かにいるのではと期待し、やはり探してしまう。
伯母さんに何て切り出そう。そう考えながら歩いているとあっという間に檸檬色の家に着いてしまった。
心の準備を整える為に家の前を二、三回往復した。
それでも具体的なアプローチは思い浮かばなかった。
漠然と、礼儀として自分の名前を明かし、しーちゃんとの関係を伝えてから、念の為、此処がしーちゃんの暮らしていた家で間違いないか尋ねよう。
しーちゃんはいつも歯医者の所でバイバイを言った。実際にしーちゃんが檸檬色の家に入っていったのを見たことが無かった。それだから、一度此処を訪問した際に伯母さんから「知らない」と言われた時には妙に納得してしまった。僕は今までしーちゃんに嘘を付かれていた。だとしたら何故。他の情報も嘘なのではないか。しーちゃんについて知っている情報を思い浮かべようとしたが知っている情報は彼女の名前と家族構成と仲が良くない両親それだけだった。
誕生日も血液型も知らなかった。
二ヶ月間という短い期間であれ程毎日一緒に居たのにな。
僕等は何を話していたのだろう。いや、話していなかったということだろうか。
その事実がさらに僕を落ち込ませた。
檸檬色の外壁にくっついている黒くて四角いインターホンの前でそんなことを思い出していた。嫌なものが心に染みてくるのを感じ、その感情から逃げるようにインターホンを押した。
「・・・はい?」明らかに訝しそうな声音だった。
「あ、あの、和山春人といいます」
「はい?・・・」疑いが深くなっている声音に怯みそうになったが、ここで後には戻れない。
「高橋栞さんとお付き合いしていた者です。けど、急に姿を消してしまって探しています。ある程度の事情やここで暮らしている経緯については聞きました。もし間違いなかったら、何か知っているのではないかと思いお伺いさせて頂きました。なんでもいいんで栞さんについて教えてほしいんです」
勢いをつけて一気に要件を伝えた。
「・・・・」
インターホンから声は発せられない。流石に強引だったか。
そう思った矢先カチャと音が鳴りそして、ドアが開けられた。
「どうぞ」
とてもか細い声だった。
肩まで伸びた黒髪に艶は無く、全体的にぼさっとしている。生え際には白髪が目立っていた。
表情に疲れが滲み出ていて年齢は分からないが、その見目からきっと実年齢より老けている気がした。
「お邪魔します」そう言って、靴を揃えしーちゃんが住んでいた伯母さんの家に上がった。
日当たりのせいか室内は暗い。
靴箱の上には詩集と少し枯れかかっている紫色の花が飾られていた。
伯母さんにリビングへ通してもらい、二人用の小さいダイニングテーブルの椅子を引いて座るように促してくれた。
座ると正面に流しが見えた。伯母さんはお茶を用意しているようだ。
左側の壁際に大きな食器棚がある。独り住まいでは大きすぎるだろう。上段は両開きのドアになっており下段は引き戸になっている。今も下段の引き出しの中には大量の食糧やお菓子が入っているのだろうか。
つい、そんなことを思ってしまった。
「お茶を」そう言って伯母さんが自分の前にお茶を置いてくれた。
「あ、すみません。お構いなく」作ってる段階で言うべき言葉だったか。
適正な言葉では無かったような気がして苦い気持ちがした。
伯母さんは向かえ側に座りお茶を少し口に含ませた。コップをテーブルに置きそして目線がが初めて合わせられた。その目元にしーちゃんの面影があるような気がした。
「それで、貴方が栞の彼氏さんですって?」
唇を開けず訥々とか細い声でそう訊かれた。
暗くて静寂な室内ではそれでも充分聞こえてくる。
「はい。和山春人と申します。一ヶ月半前からお付き合いさせて頂いておりました」
「そう。貴方が和山さん」
「しーちゃん・・あ、栞さんから僕のことについて何か訊いていましたか?」
つい、前のめりになって訊いてしまった。
「和山君って名前は出かける前に栞がよく口に出していましたから・・・」
なんだそういうことか。
少しの気持ちの陰りを感じた僕は一体何を期待していたのだろ。「よく好きって言ってました」とか「王子様に会ったの」だろうか。
何を話していてくれてもいい。
いずれにせよもう、しーちゃんはいないのだ。
その現実があらゆる期待や喜びを直ぐ影に追いやっってしまう。
伯母さんは厚手の紫色のカーディガンを纏っていた。
その自分のすこし伸びてしまっている袖口に視線を落とし伯母さんはそこから静かだった。何故、伯母さんは今日僕を家に上げてくれたのだろう。伯母さんは一向に喋る気配が無い。
突然突撃したのは僕の方だ。考えを改め、僕自身から本題に入らなければ。
「突然に来てしまい申しわけありません。今日来たのは栞さんの居場所をもし知っていたら教えて頂きたくお伺いしました。何か栞さんについて知りませんか?」
思いきって訊いた。伯母さんはまた静かにお茶を口に含ませた。
「栞には悪いことをしました」
「悪いこと・・・」
「栞が此処に来たのは今から四年前です。私の妹の家族に不幸があり栞は犠牲者でした。両親が居なくなってしまったので、丁度私も離婚して独り住まいだったし子供もいませんでしたから、私の家で預かることにしたんです」
大方の話の流れは萌やかすみが話してくれた内容で間違っていないようだ。
「その両親が居なくなったって、何があったんですか?」
「私の両親はどちらも中学校の教員をしていて、職場結婚で出来た夫婦でした。教育には熱い父と完璧主義の厳格な母だった。小さい頃は習い事や塾に行かされていたし門限も高校生まであった。夕方六時までには帰らないといけなくて夕食は必ず家族揃って食べないといけないって完璧主義の母が定めたルールがありましてね。外泊はもちろん禁止だった。私たちは従順にその親の期待と規則の中でずっと生活していました。ある時、妹の様子がおかしいことに気がついた母が病院につれていって妹の妊娠が発覚。その時妹は十八歳だった。母親は真っ青になって酷く項垂れて何も言えなくなっていた。父は大激怒。結婚も出産も許さない。言うことを聞かなければ縁をきるぞって。本当に大きな声だった・・・本当に大きな声・・・」
細い声で淡々と喋っていたがそこで沈黙が訪れた。
伏し目がちな目元から今にも涙出そうになっている。
「怖かった。私は足がすくんでその場から動けなくなったのに対して妹はそれで吹っ切れたように家を出て行った。それから二度と会うことは無かった」
伯母さんの涙がそこで二、三滴落ちた。一体どういうことだ。
「栞の母親は今、何をしているんでしょうか?」
その問いに伯母さんがこちらに涙で潤んだ目を合わせた。
「もう亡くなっています」