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妄想による傀儡

 その時、俺は十九になった。十八最後の夜にはベットの片隅で泣きながら、何もかもからの卒業を感じていた。乾ききった肉体は潤いを失って女の湿り気を必要としていた。ただ、俺にとっては女であれば誰でもよかった。だから思いついた中で一番手っ取り早いのが幼馴染の奈津子だった。俺はすでに俺の妄想の中のマリオネットだった。妄想による傀儡だった俺は歯止めが効かなかった。俺が奈津子に求めたのは肉体の潤いであって精神の鎮静ではなかった。だからといって窮地の中で同じ時を共に過ごした彼女を一瞬の欲望で傷つけることはできなかった。それでも奈津子のうなじに見える黒子ほくろを後ろから抱きしめたいと思っていた。

 十九になったその日の朝、外は晴天でひとつかみの雲もなかった。だからといって俺の心まで晴れ晴れしていたわけではない。鬱屈した気持ちのまま自分の勉強部屋から見えるシニカルな青い空をあざ笑っていた。ただ思っていたのは、十代最後の年なんだというごくわずかな期待とは対照的な莫大な不安だった。結局、曇っているのはじぶんの心内だけなんだと気付かされてカーテンを閉めた。

 十九になって一番に祝ってくれたのは、家族でも友人でもなく、誕生日から一ヶ月有効散髪屋の割引券付きの葉書だった。そいつだけが、モノクロ印刷でローマ字でハッピーバースデーと三十パーセントオフの文字で、さんざめくように祝ってくれた。友人は大学生位になって新しい生活に胸を躍らせているようで、直接聞かなくてもテレビの入学式を扱ったニュースで否応なしにその姿は容易く想像できた。俺はそこだけは拘った真新しい青のボストンバッグにクラス選抜テストの際に購入したテキストを入れて、予備校の入校式に参加していた。テキストを持参したのは、入校式後すぐに講義が始まるからだった。青のボストンバッグともう一つ拘ったのが、青いスニーカーだった。俺はどこから来るかわからない根拠のない自信があって、この青いスニーカーなら大学に受かることはおろか、空だって飛べるような気がした。上着とジーパンには肩入れしなかった。俺が予備校に通う際に新調したのは青いボストンバッグ(そこには夢なんて格好良いものは詰まっていない)と、空だって飛べる青いスニーカーの二つだけだった。

 初っ端の講義が始まる前の数分間、俺はクラスのこれから一年を共にするライバルたちの姿を見回した。服装に無頓著だった俺には同い年の奴らが着ている紺のブレザーが兎角洒落て見えた。颯爽と教室に入るなり、椅子の背にサッと脱いだブレザーを引っ掛ける。その様が俺には大人に見えた。俺の一番身近な存在であったその紺のブレザーの持ち主は隣の席の男だった。臆病の化身だった俺は彼に自分から声を掛けることは出来なかった。そいつはクラスでも一等美男子で(俺が初っ端に見回した限りでは)俺は情けないかな初めて男にときめいてしまった。俺には妄想というもう一人の俺が居る。そいつに俺は支配されていて、傀儡である俺はそいつには逆らえも抗えも出来なかった。そのブレザーの男に心を打たれたのは妄想の俺の方だった。詰まり、自動的に操られている俺も彼に淡い恋心を抱いた。

 初っ端の講義は英語構文だった。講師が最初の講義で受講生たちの気持ちを掴もうとしたのか、調子外れのギャグを飛ばしたが、春には似つかない季節外れの冷気が教室内に吹き荒んで一部の女子が冷笑するぐらいだった。俺が気になったのはそんなギャグでも、頻出、必出の構文でもas soon asでもなく、隣の美男子のことだった。彼は勇ましい団栗眼を大きく見開いて講師の板書した重要構文をペンを走らせてノートに書き込んでいた。俺はそのノートの文字にうっとりした。悪筆な俺と違ってその巧緻な文字に、こいつは性分も繊細に出来ているに違いないと思ったのだった。俺がこの男とはじめて会話を交わすまでに、絡まった糸をほどくほど相當そうとうの時間を要するだろう、という一種の不安というか、案じていた想いは一瞬で解けた。

 一限目の講義の後、男の方から声を掛けてきた。腹の足しにチョコレートでも、と一口サイズのチョコを三つ、四つ分けてくれた。はじめて交わした会話がそれで、その後、男の方から、そういえば名前を聞いてなかった、と俺の名前を訊いてきた。俺は俯き加減に少しだけ目線を上に向けて、名字を名乗った。彼の名前を池田とかいった。ただ、ここでは仮名で、というのも俺の記憶は時々、主人である妄想の俺によってかき消されてしまうので、仮に池田としておく。池田は立て続けに志望大学を訊いてきた。分厚い唇から発せられる低音の声は耳に心地よく、聴いているだけで精神が鎮圧化される。もっと聴いていたい。そう思ったのは妄想の俺だけではなかった。傀儡である俺自身もそうだった。だから俺自身も池田の声をもっと聴きたくて取るに足らない話でなんとか会話自体を繋ぎとめようとした。彼は彼の方で饒舌で話が途切れることはなかった。妄想の俺は声だけで絶頂に達し、俺自身を支配していることを忘れている様子で俺はやっと自由になれた。糸から解放されたマリオネットはあらぬ方へ暴走してしまいやしないか不安だった。

 予備校生活が一年間も続くのかという憂いは池田と出会ったことで杞憂に終わった。講義は午前中だけで、午後からは自習室にこもって、ひたすら鉛筆を握って英単語やら世界史の語句を覚えていく。その単調な作業の苦痛から解き放ってくれたのは矢張り、池田であった。もし彼の存在がなければ俺は凡そ300日にも渡る日々を退屈と対峙していたに違いない。

 予備校の普段の教室は殺伐とした雰囲気は全くなくあいあいとして一週間と経たないうちに仲の良いグループが幾つか出来ていた。

 勿論、全員が全員グループに属していた訳ではなく、年間を通して一匹狼を貫く奴もいた。俺は池田とあと二人の都合四人のグループに居た。もう二人のうち一人は寺の息子で残りの一人は精神科医の息子だった。二人の名前が思い出せない。というのも、二人とも名前で読んだことがなく、坊主とドクターと呼んでいたからだ。坊主は毎朝、寺の表に貼ってある半ば強制的な有難いお言葉を書いたメモを俺たちに見せてくるのだった。ドクターは科学的根拠のない死生観は信じないたちで、死に対して持論を持つ坊主とは時々対立していた。池田は黙ってそれを静観していた。俺は池田に追随する形だった。坊主がいくら良い言葉を持って来ようが俺には響かなかった。寧ろ、池田に傾倒していた俺は、彼の、大丈夫だよ、という言葉の方が俺を苦しみから解放してくれるのだった。妄想の俺はそんな池田のことを心底愛すべき対象として見ていた。俺はどうにかこの池田を独り占めしたいと思うようになっていた。それはこの予備校に通う意義が大学の合格通知を受け取るよりも遥かに上の目標になっていた。

 幾千幾万の星たちが夜空に輝くように、幾人もの人たちがこの世に生まれては死んでいった。長い歴史の中で俺と池田が出会った奇跡は尊いものに思えた。誰だって何時だって、そのようなことは思う。七十億分の一の奇跡だとか。だけれども。俺の心内での池田への想いはそんな上っ面の表現で済むものではなかった。低空飛行を続ける俺を下から上に持ち上げてくれるような存在であった。

 ようやく予備校生活に慣れてきた頃、ある昼下がり、教室から百米メートル程離れた自習室に向かう道中、俺は池田の、長い髪の女と仲睦まじく手を繋いで歩く後ろ姿を見てしまった。純白のスカートに薄桃色のブラウスを着たその女は悔しいかな池田に相応しい雰囲気を醸し出していた。後ろ姿だけで顔を見た訳ではないが、おそらくは美人であろう。美人でなければ妄想の中の俺が許さない。ついて行く積もりはなかったが俺の行く先の自習室なので自ずと同じ道を辿った。自習室の入り口で池田は女に手を振って二人はそこで分かれた。予備校の教室とは違い、自習室は席順が決まっていなかった。だからといって池田の隣を陣取るほどの積極性を俺は持ち合わせていなかった。出来る限り池田の見える席を取るのが精一杯だった。端正な顔立ちで貴公子とでもいうべき風采ふうさいを女どもが放っておく筈もなく、自習室の池田の周りを彼女らが囲んでいた。その様相を俺たちは、お花畑、と呼んでいた。俺はお花畑に近寄れず、輪の中に居る貴公子を目を細めて見つめているだけだった。

 五月の末つ方、校内模試の結果が返ってきた。池田とは話すのがまだ億劫だった俺はその模試の成績表に救われた。彼の方から、偏差値はいくらか、と訊いてきたのだった。俺は六十二と答えると彼は笑いながら、同じだ、と手を叩いた。俺は些細なことだが池田と同じ数字になったのが尋常ではないほど嬉しかった。所謂、ダサい方の男の俺と、格好良い方の池田とにはじめて共通項が見つかった。以来、俺は池田を単なる憧憬の対象としてではなく、ライバルとしてみるようになった。教室で池田がノートをとる姿を見ては自分も負けないように講師の話に耳を傾けたし、自習室で池田が居眠りしていると、俺は彼を抜くチャンスだと思うようになった。(了)


お読みいただきありがとうございました。

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