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恋は冗談

 弥生。三月。

 どこからともなく吹く強い風が早咲きの桜の花びらを散らつかせていた。

「春」っていうのは「出会いの季節」であり「別れの季節」でもある。前向きな意味とちょっとネガティブな意味とを併せ持つ。

 僕は彼女とそんなに上手くはいってなかった。どちらかというと、もう限界に近かった。でも僕から別れ話を持ちかけるのは違うと思った。

 季節、って便利で、別れの季節にきっと別れを自然に告げることができる。そう思ったのは彼女も同じで。だから二人は別々の道を歩くことを決めた。


 卯月。四月。

 大学の入学式で僕と彼女は出会った。それは今から二年前のことだ。

 大学時代というのは人生にとっていちばんの花咲く季節だと思っていた。当然僕だって、それなりの青春が待っていると思っていた。でも、それは大きな勘違いだったようだ。いざ大学に入ってみれば、友達はできず、ひとりぼっちの食堂でカツ丼の大きなサイズの丼をかきこんですぐに授業に向かう。

 昼からの授業をとっていたので、大学に来ていちばんにすることが食堂で昼食をとる、というものだった。

 そんな僕の青春時代の一ページに書き込んでくれたのは彼女だった。

 美山聡子。


 皐月。五月。

 風薫る季節、ゴールデンウイークの京都だった。大学の入学式で出会ってから、彼女とは普通の友達の関係だった。もちろん、語学の授業は違うクラスだったし、サークルに入ってなかった僕は彼女以外の女性と出会うきっかけもなかった。

 出会いは単純だった。同じ大学の同じ学部。いわゆる「オナダイ・オナガク」なんて古い言葉だけど、それ。

 僕と彼女はひょんなイキサツから京都の街をデートすることになった。当然そんな、彼氏彼女の関係ではなくて、ただのデートだった。それでも高校時代は暗い暗澹たる生活だったから、デートなんてハイカラなものは初めてに近かった。高校の後輩とちょっとした買い物に出かけたことはあっても、本格的にデートなんてのは初めてだった。

 二人は、まず京都の観光名所を回ろう、なんて話して、清水寺に向かうことになった。

 清水寺の舞台の上から下を見下ろして、坂を歩いて登ってくる人を指差しては、何気に笑ったりした。

 関東から来ていた彼女の方が京都の街に詳しかった。それは彼女が修学旅行で一度京都に来ていたらしく、それでその時に立ち寄った大学に憧れて京都を目指したらしかった。

 いろんなところに出かけて、僕は憧れの鴨川の恋人が等間隔に並ぶ、あの中に入りたいと言ったら、彼女もそれに憧れてた、って言い出した。そして二人はカップルの間に混じって、川べりに座った。

 もうその頃には夕焼けが綺麗だった。

「思い出を語るだけで小説になる」

 彼女は突然そう言い出した。

「好きな小説家はいるの?」

 と僕が聞くと、彼女は一冊の本を黄色い鞄の中から中勘助の『銀の匙』を取り出した。

 僕は初めて聞く名前だったし、初めて聞くタイトルだった。

「あのね、これはすごく難しい本なんだけど、面白いかどうかは別として」

 生き生きとした彼女の目が働き出した。

 淀みなく、流れるように語り出した。

「この小説はね、灘中、灘高の国語の先生だった橋本武先生って人がいてね、中学だったか、3年間かけてこの本を読んで、授業をしたの」

 キョトンとしている僕にまた彼女は続けた。

「最初は生徒の中には、教科書も読まずにこんな小説をしかもこんなにゆっくり読んで何の意味があるのか、って反発した生徒もいたみたい。でもね、この本にはいろんな、人生に役に立つことが出てくるの。例えば、橋本先生はこの小説の中に凧揚げのシーンが出てくると、実際に生徒と凧揚げをしに行ったり。あと、駄菓子なんかが出てくると実際に駄菓子屋さんに行ってその駄菓子を食べてみたり」

「へえ、面白いね」

「でしょ。でしょ。それでね、国名でもアメリカが亜米利加だとしたら、他にどんな国名を漢字で表記するか、とか。例えば、仏蘭西、露西亜、新西蘭、土耳古、墺太利、獨逸、瑞西、などなどね」

 彼女の目が生き生きと走り出した。そして、僕の手を柔らかく握ってきた。

 僕はドキドキしながら鼓動が波打っているのがわかった。

「恋ってね、こういうことだと思うの」

 彼女は何を言い出したのかと思うと、

「この『銀の匙』を教材に使った橋本武先生がね、この授業はいますぐには役に立たない、って言ったの。でも、いますぐ役に立つものはすぐに役に立たなくなる。って。ずっとずっと役に立つものが本当の教育だ、ってね」

「うん」

 僕の教養のなさに僕は赤面した。

「恋と一緒よね」

「それは、どういうこと?」

「今は、ただの恋だけど、それがいつか思い出になった時に、振り返った時に、きっとそれが人生の糧になると思うの」

 彼女のセリフが難しくて僕にはわからなかった。

「多分、私、矢島くんのこと、好きなんだと思う。でも、好き、以上の感情はないんだと思う」

 まるで僕は振られたような気分になった。

 

 水無月。六月。

 どうして二人は出会ってしまったのだろう。というのはよく歌詞でも出てくる。僕もそう思った。哲学的な彼女は僕にはレベルが高すぎた。そう思える時間が多くあった。

 ある時から僕は彼女のことが心底好きになった。そうして、それを彼女に打ち明けた。

「そうね、嬉しい。でも、恋は冗談だと思うの」

「恋は冗談? どういう意味?」

「だから、冗談よ」

「僕にはその意味がわからないよ」

「冗談ってどんな時にいう?」

「人を笑わせる時かな」

「そうよね。人を笑顔にするためよね。でも、それだけじゃないわ。冗談はブレイクタイムよね。恋もブレイクタイムみたいなものなの」

 純喫茶の一番隅っこのテーブルで彼女はアイスコーヒーを口に含んだ後、真剣な顔をしてそう言った。いや、そう言い放った。

「恋は、ブレイクタイムか」

 僕がそう呟くと、彼女は大きく頷いて、そうして少し黙り込んだ。

「あのね、恋の上は愛だというのは大きな誤りだと思うの。恋の上とか下とかないと思うの。恋は恋愛の冗談」

 ますます僕は彼女の言っている意味がわからなくなった。


 そうして季節は巡り、弥生三月、もう終わりかけの頃、僕と彼女は正式に別れた。

 別れた原因は彼女のハイレベルな哲学的な恋愛論によるものではなかった。

 ただ僕にはどうしてもわからないことがあった。それは恋は冗談、っていうこと。

 恋が冗談だとしたら、愛は? むしろ全くわからなくなった。

 もし、彼女に一言だけ付け加えるとしたなら、僕は恋は冗談だとは思わない。

 だから、別れる時、最後に彼女に聞いてみた。

「ねえ、最後だから教えて欲しいんだけど、恋は冗談、って前に言ったよね。あれはどういう意味だったの?」

「うん、なんていうか、冗談ばっかりいう人いるでしょ。無理に笑わせようとして。それに似てるかな。笑うのってしんどい時あるよね。冗談ばっかりだと疲れるの。だから、恋に溺れていると疲れてしまうの。でも、緊張した時に少しの冗談があると助かると思わない? 私、多分、冗談ばっかりはしんどいけれど、ブレイクタイムとしての冗談はすごく楽しいと思うの。恋は、楽しいときもあるけど、続くとしんどい時もあると思うの。だから、恋は冗談。冗談ばっかりいうとしんどいし、逆に冗談がないと、それもまた逆にしんどいの」

 彼女は僕たちの行きつけとなった純喫茶の、いつものテーブルでまたアイスコーヒーを口に含んで、そう言った。


 今、こうして思い出しながら少々つまらない文章になったなと反省している。こんなとき、少しの冗談があれば楽になれる。

 彼女は恋をこのように言いたかったのかもしれない。少し疲れた時に、冗談が欲しかったのかもしれない。恋を冗談と例えた時に、僕は少し寂しい気持ちがした。それが彼女とのすれ違いだとしたら、確かにそうかもしれない。それと、彼女の言っていた、「今すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」と言った国語教師の言葉はまさに彼女の恋愛論そのものに違いない。彼女はいつかは役に立つ、僕との恋を大切にしていたのだろう。(了)


ここまでお読みいただきありがとうございました。

またお会いできたら嬉しいです。

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