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四月の引力

こんばんは。お立ち寄りいただきありがとうございます。もう早いもので三月ですね。

今月一発目の投稿は、なぜだか「四月の引力」という季節先取りのタイトルです。

 四月一日、水曜日。

 戻れなくてもいいと、僕は思った。君という存在に溺れたのは、たぶんずっと前からだ。十一階の部屋から見える淀川の花火や、大阪湾のきらめきに目を細めながら、君は何度も「今度は昼に来たい」と言った。何かをねだるとき、君は必ず唇を預けてくる。それが君の武器だと知りながら、僕は抗えなかった。

 君はイタリアへ行きたいと言った。僕には金では買えない夢があった。君は笑うだけで、僕の夢を信じなかった。価値観は少しずれていた。それでも、夜が深まるたびに、僕らは互いの孤独を埋め合った。

 僕には妻がいる。子どもはいない。妻を愛しているし、添い遂げたいとも思っている。それでも、雨の日に相合傘をしたあの日から、君との距離は縮まり続けた。部署も違うのに、なぜ帰る方向を知っていたのか。聞きそびれたまま、関係だけが深くなった。

 君は会社では小林彩香と呼ばれ、タイピング大会の優勝者だった。饒舌で、笑うときは必ず「うん」と前置きをする癖があった。LEEの曲を口ずさみ、僕のいとこがギタリストだと知ると目を輝かせた。君と喫茶店「六角」で角砂糖を溶かす時間は、罪の自覚を一瞬だけ忘れさせた。

 四月二日、木曜日。

 君は置き手紙を残して先に会社へ行った。僕は母に教わった通りに卵を茹で、味塩を振って三口で食べた。ささやかな朝食の静けさに、胸がざわついた。

 社内ではLINEでしか交わせない言葉がある。隣に部長が座っていれば、目の前にいても文字で想いを伝える。短い文章が生命線だった。

 君は僕の部屋に来たがり、僕も拒まなかった。

 四月三日、金曜日。

 定食屋の裏メニュー、オムカレーを得意げに頼む君を見て、僕は安心していた。なんでも美味しいと言う君が好きだった。

 だがその夜、君は僕に尋ねた。

「明日、奥さん来るの?」

 僕は軽く答えた。痕跡は消してある、と。

 そのとき、君の唇がわずかに震えたことを、僕は見ないふりをした。

 四月四日、土曜日。

 妻が大阪に来た。部屋を見回し、「綺麗ね」と微笑む。僕は君の存在を消すために掃除しているだけだとは言えない。

 伊丹空港へ向かう車中、妻は不意に言った。

「子ども、そろそろ欲しくない?」

 結婚して三年。初めて聞く本音だった。

 僕は曖昧に笑った。子どもができれば、妻は母になる。僕だけの存在ではなくなる。それが怖かった。だが、それは言い訳だ。

 ずるいのは僕だ。

 四月五日、日曜日。

 大川沿いの桜は満開だった。青空の下、レジャーシートを敷き、君はフランクフルトを二本買って一本を僕に渡した。

「綺麗ね」

 君が言う。

 綺麗なのは桜か、それとも君か。僕は何も言わない。

 今日は別れを告げると決めていた。

 だが言葉は喉に引っかかる。

 ビールの缶を開ける音がやけに大きく響いた。花びらが肩に落ちる。

 小さな子どもを見て、君はぽつりと呟いた。

「やっぱり私も、子ども欲しいな」

 その一言で、すべてが終わった気がした。

 妻も子どもを望んでいる。君も望んでいる。

 僕はどちらの未来も壊す可能性を抱えたまま、ただ桜を見上げている。

「子どもかあ」

 繰り返すだけの僕に、君は何も言わなかった。

 川面を渡る風が、桜をひとひら、またひとひらと散らしていく。

 戻れなくてもいいと思った四月一日から、わずか五日。

 引力のように惹かれ合ったはずの僕らは、いま、同じ桜の下で、少しずつ離れていく。

 君の横顔は穏やかだった。

 たぶん、僕が言わなくても、君はもう気づいている。

 花びらが、僕と君のあいだに落ちた。

最後までお読みいただきありがとうございました。また機会があればお会いしましょう。

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