アール予備校動物コース
こんにちは。今日も過去作です。楽しんでいただけたら幸いです。
この予備校に赴任して三年目。
一年目は新任ということもあり、底辺大学進学クラスの国語を受け持った。二年目は中堅私立大学の英語を受け持った。英語はあまり得意ではないので、平日講義を行いながら、週末は英会話学校に通うというハードな生活だった。
三年目の今年、校長から辞令が渡された。そこにあったのは、今年から開設された「動物コース」の日本語科。動物コース。ピンとこない。私立文系の英語科とか、国公立文系の国語科とかいうのが普通だろう。予備校で動物に日本語を教える。なんだろう、この虚空感。
早速、受講生名簿を渡された。牛、猿、なんだ、干支か。猫、いや、違うな。犬、羊、鶏、やっぱり干支か。鳩、違う。烏。八匹というか八頭というか八羽というか、ようは八種類の動物に言葉を教えるということだな、そう理解した。
受講生名簿と教材を持って、五階の502号教室に入る。教室の後ろで犬と猿が喧嘩をしている。まさか、犬猿の仲ってやつか、目を疑った。
「そこ、犬と、猿、座りなさい」
気分が悪い。まずは注意から始まったことだ。第一回目の講義ぐらいは気分よく元気な挨拶から始めたかったが。
「それでは出欠取ります。牛尾、君が牛尾君な、どうや? 机と椅子の間、狭くないか? もしあれやったら、この教室は本来五十人入る教室やから、適当に広げてくれていいからな」
「モー」
「ああ、そうか、まだ一回目の講義やから、言葉が話されんねんな。悪かった」
「モー」
「それでは、続いて、犬伏」
「ワン!」
「おお、元気がいいな。犬伏、授業が始まったら席着いとくことな。続いて、烏丸。烏丸は京都の烏丸みたいな名前やな。ここまでは何で来たんや?」
「カー」
「おお、車か。僕も車の免許は持ってるけど、週末ドライバーやからなぁ。そうか、運転には気をつけるんやぞ。続いては鳥谷。鳥谷どこや?」
「ココー、コッコー」
「おお、その赤いトサカのな。覚えておくわ。えっと、続いて……。出欠取るだけでもかなり時間かかるなあ。次は誰かな、猫田さんか。猫田はそこの茶色いコやな。大人しいな。がんばろうな。続いて、鳩山、どこや?」
「クルックー」
「お、元気やな。このクラスは鳥が三羽おるんやな。烏丸と鳥谷と鳩山か。あとは羊さん。そうか、君は、遠いな、和歌山から来てるのか。ここにプロフィールがあるからな。和歌山と言えば何が有名かな、蜜柑か」
「ウメェェェ」
「ああ、そうやったな、梅もあったな。僕も蜂蜜漬けが好きでな、あれ、結構高いねんな。上に敷いてある昆布がうまいねんな。だいたい、出欠は終わったので、これから授業に入るな」
とりあえず出欠を取って、自分の「間」に持っていった。存外やりにくいかと思いきや、生徒もみんなやる気を持っていて、最初に席に着いてないことで注意をしたものの、みんな前向きだ。
「ウキキー」
「ああ、すまん、猿飛。忘れてた。犬伏とは気が合わんかもしれんけど、喧嘩はアカンぞ。まあ、出欠取り忘れた僕の失敗でチャラにしてあげるけどな」
意外と僕は間抜けなところがあって、完璧主義なようで、完璧を求めるあまりに、まるで空いた穴にパテを塗り付けようとすると、次の穴がまた空いてしまう、という悪循環を繰り返す。昔から直らない悪いところだ。
無理難題なところがあることは、校長以下、百も承知だ。教材だって、八種類の動物ごとにそれぞれ対応しないといけない。でも、パッと見る限り、このテキストはオリジナルにしてはよく出来ている。今ある言葉力にどんどん語彙を増やしていって、最終的には人間と同じようなレベルまで到達させてあげたい、という気持ちが沸々と沸いて来た。
動物たちに分かりやすいように、絵の描かれた紙を黒板に貼って教える。
「牛尾、この食べ物は何やと思う?」
「モー」
「惜しいな。これは『イモ』や。言ってみ。『イモ』」
「イモー」
「伸ばさんでいいからな、『イモ』、もう一度」
「イモ」
「そう、その通り。じゃあ、次は犬伏、いこか。黒板のこれ、このご飯食べるときに使うこれ、なんや?」
「ワンワン」
「うーん、一回目やから難しいな。発音記号ちゃんと見てや。『チャワン』や」
「チャワン」
「そうそう、いい感じ」
ところでここまで読んだ読者は、どうして言葉を発せない動物たちが僕の言葉を理解しているのか、と疑問を持ったに違いない。それもそのはずである。実は学術研究レベルではまだ解明されていないが、動物は人間の話す言葉を理解できる能力があるのだ。だから、犬は『お手』や『お替わり』をするし、羊はかけ声で小屋に入ったりする。実は人間だけが動物の言葉を理解できないのだ。そこでこの動物コースは動物に言葉を教えることで人間とのコミュニケーションを交すことを理想とし設立されたのだ。人間と動物がコミュニケーションできたらどんなに素晴らしいだろう、それは僕も同じ考えだった。
一回目の授業を無事終えると、去年、中堅私立大学コースの同僚だった吉村と、八田がスタッフルームで僕が終わるのを待つかのように向かい合わせで椅子に座っていた。吉村は相変わらずの馬面で、禁煙のスタッフルームに空缶を灰皿替わりにくわえ煙草で、八田は先月、銀縁から黒ぶちに替えたばかりの眼鏡姿でテーブルに載るぐらいのぼてっとした腹でこちらを見つめる。
「よっ、宮下、今日は飲みにいくぞ。さっさと片付けちまえよ」
八田が黒ぶち眼鏡の右のフレームを親指と人差し指でつまんで、笑いながら僕を飲みに誘う。僕が下戸なのを知っていて誘うのだから、眼鏡だけならまだしも腹まで黒いやつだ。横で聞いていた吉村も続ける。
「宮下、駅前の『いろは』で今日はとことんまでいくでえ」
酒豪なのはいいが、こいつと割り勘は割に合わない。まあ、逆に(何が逆かわからないが)言えば、吉村は京大・阪大コースの数学科、八田は国公立コースの英語科に配属が決まり、いわゆる昇格なわけだから、それを祝うのも大人の礼儀の一つでもあろう、そう思い、僕はこの二人と一緒に駅前の「いろは」に向かった。
「いろは」はいわゆるチェーン店ではない居酒屋で、内装がジャングルのようになっていて、観葉植物でそれぞれの席が区切られている。真ん中には十五名ほど座れる大きなテーブルがあり、奥には掘りごたつ形式の座敷がある。三人は奥の座敷を指定した。
飲みものを先にオーダーする。僕はウーロンハイ、残りは生だ。
「それにしても、宮下も動物コースなんてな。やっぱり予備校講師の花形は国公立だよな。それに何を教えてるかわからないけど、動物が言葉をしゃべって、何の役に立つんだよってんだ。こちとら、京大医学部、阪大医学部へ入れて、将来の日本を背負って立つ人間を作ってるんだと思ったら、気を抜けないねえ」
吉村はチクチク刺さる嫌味を僕に言って来る。僕にだってプライドはある。
「動物コースの日本語科は、これから絶対、役に立つんだ。将来は動物も人間と同じコミュニケーションを取ることで、生態系やいろんな環境問題も解決できるようになるはずなんや」
僕がいくら言っても、吉村と八田の耳には届かない。はなから僕を見下しているのだ。八田が運ばれたばかりの生のジョッキを片手に、
「それにしても、リスト……」と言おうとした時に吉村が八田の口を塞いだ。
「いやね、リスやトリかトラにも言葉を教えられるといいな、なんてね」
吉村はすぐにそう言ったが、僕にはもう「リストラ」という言葉が伝わっていた。
「リストラ?」
僕はすぐに聞き返した。生のジョッキを一旦置いて、吉村が言う。
「いや、隣に新しい予備校できたろ? あそこの講師がみんな国立出身で固めてるんだよ。うちも隣に負けないように、エリート講師陣でいきたいわけよ。で、京大出身のオレと市大出身の八田で、私立文系のお前は、いずれ出される身なんだよ。理事会で決まったんだ」
「そういうこと。つまり、来年からお前はいない」
八田が念を押すように付け加えた。
怒りが込み上げてきて、舌打ちをした瞬間、大きな音で携帯の着信音が鳴った。すぐに出ると、ダイハン・スーパーマーケットの店長だと言う。ダイハン・スーパーと言えば、うちの予備校の百メートルぐらい行ったところの割と小規模のスーパーだ。まったく身に覚えがない。ダイハンの店長が何の用事だろう。
「はい、アール予備校の動物コースの宮下ですが……。え? 牛尾が? 万引きですか?
今日の、八時、あ、ついさっきですね。八時頃に、ああ、そうですか。今すぐ行きます」
僕は用件を吉村と八田に告げて、ジャケットを羽織ろうとした。八田が
「落ちこぼれを受け持つと大変だな。ま、今年一年の我慢だな」とほくそ笑んだ。
吉村は二杯目の生を頼んでいる。八田も半分飲みかけのジョッキを持ったまま会釈してきた。ある意味馬鹿笑いにも見えた。
急いでスーパーに駆けつけると、店長が牛尾の首を捕まえて、僕を睨みつけた。
「お宅が先生ですか?」
「はい」
もはや多くは語らず、謝ることしか頭になかった。
「この牛が、店内の野菜を食い荒らしましてね、こっちとしてはえらい損害ですわ。まあ、本人が牛ですから、警察に出すわけにもいきませんしね」
「申し訳ございません」
僕は頭を深々と下げた。店長は穏便に済ませたいから、と牛尾を出入り禁止にして、今後このようなことがないとの注意だけで済んだ。
僕はその晩、牛尾と一緒に駅に向かう細い道を歩いた。アブロード商店街を照らす月明かりが牛尾の白い体を黄色に染める。僕は注意する。
「牛尾、君がやったことはアカンことやぞ。何も野菜なんか万引きっていうか食い荒らさんでも、その辺に生えてる草食べればいいやろうに」
「モー」
「言葉を話せない、っていうのは不便だな。君はきっといい奴なんだ。まだ出会って一日しか経ってないけどな」
牛尾を駅まで送ると、バイブにしてあった携帯に三件の着信があった。どれも吉村と八田からだ。すぐに折り返し電話すると、まだ飲んでるので来い、という話だ。どうせ自慢話だろう、とは予想がつくが、それでもまあ昔の同僚だし、義理立てて行こう、という気持ちでそのまま駅の二階のスロープを渡って「いろは」の暖簾をくぐった。ジャングルに暖簾とは滅茶苦茶というか、よく言えば和洋折衷。でもジャングルは洋ではないか。
「来た来た、しりっちゃん、こっち、こっち」
吉村がどうやら、僕を手招きしているが、呼んでいる名前が違う。それでも、少し顔を赤らめながら、つまみの枝豆をくわえて「しりっちゃん」と呼ぶ。
「しりっちゃん」
「しりっちゃんって、何や?」
吉村が一笑して、枝豆の殻を鉢に捨てながら
「私立大学出身だから『しりっちゃん』や。親にたくさんお金を出させて、挙げ句の果てに就職できずに、たどり着いたのが無名予備校の講師だもんな。そういう俺たちだって無名だけど、とはいえ、引き抜きだけどな。まあ、あの年収を提示されたら、転職だってしちゃうよな。それに京大・阪大コースはドル箱だけにな。んだ? 動物コース? あはは、笑わせちゃうよな」
僕は返す言葉がなかった。たしかに二人とも引き抜きで、吉村は一流証券会社出身で、八田は一流メーカーの海外営業だった。その点、僕は吉村の言う通り、就職活動で失敗した挙げ句、最後に大学の地下の就職課の壁に小さく貼り出されていたアール予備校の案内を見て、キャリアアドバイザーに、大手の予備校と違って面倒見もいいし、受けてみたら? と薦められて筆記試験を受けたのがきっかけだ。その後、一次面接、最終面接を受けて、内定をもらったのが、年明けの二月だった。卒業式を一ヶ月前にしてやっと苦労の末の内定だった。そんな僕もたった三年でリストラのリストに入っているかと思うと、飲めない酒に自然と口が向かっていた。三杯目のカルピス酎ハイで頭がグラングランになった。それからの記憶がまったくない。まったくというと語弊があるが、レジで五千円を吉村に渡して、お釣りをもらった記憶がない。細かいことを言うとまたバカにされるので言わないが。気が付くと、自宅のベッドの上だった。せんべいのようなペッタンコの布団。一度だけ訪れたことのある、いわゆるデザイナーズマンションの吉村の部屋とは百八十度違う。吉村の年収は知らないが、証券会社よりいいということは二本はもらっているだろう。僕はサラリーマンの平均年収ももらっていない。聞くところによると、アルバイトの大学生の安田君の時給よりちょっといいぐらいだとか。
次の日、スタッフルームで待機しながら、テキストに目を通す。青い表紙のテキストの裏には「宮下公一」とサインペンで名前が書いてある。この日の授業は全員で今ある語彙からどんどん単語を増やしていく、というものだ。僕は彼らがどれだけの言葉を覚えることが出来るか、楽しみで仕方なかった。
チャイムが鳴って教室に向かうと、今日は整然と並んでちゃんと全員座っている。
「はい、では授業始めます。えっと、最初は昨日の『イモ』を覚えた牛尾。牛尾には今日は二つ教える、いいな。『イモウト』と『スモウ』の二つ」
牛尾は二本に分かれた蹄の間にボールペンを握ってノートに書き写して、発音する。
「イモウト、イモウト、スモウ、スモウ」
どうやら昨日の牛尾の万引き、というか、食い逃げは反省しているようだ。その隣にいる羊がテキストを忘れたようで、あたふたしている。
「どうしたんや? 羊?」
「メー、メー」
「テキスト忘れたんやな。わかってるぞ。隣の牛尾に見せてもらいなさい。そしたら、羊、夜に見るやつやな、または自分の理想でもいいぞ、それ、発音してみ」
「ユメ」
「そうや、『ユメ』や。その隣の動物も発音してみよか」
「カメ」
「その通り。よう予習してるなぁ。その丸い食べ物もいこか」
「マメ」
「完璧! みんな、羊を見習って、ちゃんと予習してくるんやで」
僕はうれしかった。最初は「ウメェェ」しか話せなかった羊が、「ユメ」「カメ」「マメ」と三つも言葉を覚えたのだ。トサカを振って鶏の鳥谷が足をあげる。
「どうした? 鳥谷?」
「ココッケ、ココッケ」
「ああ、次のテキストは鳥谷のところやったな、いいぞ、もう少しや、『コロッケ』って言ってみ。
「ココッケ、ココッケ、コロッケ」
「よし言えた!」
鳥谷は羽を広げて喜びを表した。僕は思わずガッツポーズを見せた。鳥谷がテキストの次の単語を読む。
「ココロ、ココロ」
「よし、連続正解! 夏目漱石の『こころ』と一緒、自分の思っている胸のうちのことを『ココロ』と言います。是非『心』を持った人になってください」
僕は少し「先生」になった気分で、指先のチョークの粉を擦り落とした。
こんな感じで授業を進めるが、どうも気になることが一つあって、吉村と八田の言ってたリストラの問題だ。吉村は京大・阪大コースはドル箱だと言っていたが、そのコースの大半は授業料無料の特別待遇生徒、つまり特待生だ。予備校にはびた一文も入ってこない。となると、進学実績で次年度の生徒を呼び込むための広告塔でしかない。その点、逆に言えば、動物コースは、農家や飼い主がかなりの高額の授業料を納めている事実上のドル箱だ。生徒からお金を巻き上げることをドル箱という言い方は失礼だが、実質そうである。しかも、動物コースは大学進学のために作られたコースではない。日本語を、というか言葉を教えるのが目的だ。
最後までお読みいただきありがとうございました。またお会いできると光栄です。




