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黒ずんだ爪

 油まみれの君の指先はいつも黒ずんでいた。勤め先から帰ると君は真っ先に手洗い場の石けんで指の汚れをていねいに落とす。いくら洗っても完全には落ちなかった。君ぐらいの年頃ならばネイルの飾り付けの一つでもしたいに違いない。直に君に聞いたわけではないが、派手なネイルの女性を街角で見かけるたびに君ぐらいの年頃はそんなもんなんだと思っていた。その爪の先も僕よりもひどく荒れていた。そんな君に負担をかけさせるような僕の男としての甲斐性の無さも情けないが、病状とにらみ合わせながらこの道を選んだ僕を支え続けてくれる君に心底申し訳が立たなかった。そのようなことを言うと君はあどけない笑みを浮かべて柔肌の体を僕に預けてきた。

 君は尾道の中学を出てすぐ大阪の町工場に就職した。僕にとって尾道は両親と最後に行った思い出の土地だ。幼少期を過ごした思い出深い土地へ一度も帰ることもなく体力のいる仕事に勤しんだ。戦後まもない話ではない。平成の話だ。

 湿った黴と前の住人の煙草のにほひの染み込んだ六畳間で二人が暮らすことになったのは君が十七、僕が三十半ばの秋だった。

 病弱の僕は身体を気遣いながら、ひたすら万年筆を走らせ金にならない原稿を書き続けては君の帰りを待つ日々を送った。家具を揃える余裕はなく、机は酒屋でもらってきた木の箱を横にしベニヤ板を載せたものを食卓と兼用にした。

 どんなに辛くても君はに心配をかけたくないと気丈な振る舞いをして見せはしたが、僕以上に僕のことを知り尽くした君は、咳き込む度に背中をさすってくれた。時たま歪んだ原稿の文字を読んでは「面白いね」と顔をしわくちゃにして笑った。「面白いところなんてないんだけど」と言うと又君は黒ずんだ手を口元にあてて笑った。仕事は男っぽいが仕草は女だった。

 昼間は窓を開けて明かりを入れる。夜の帳が下りると蛍光灯の紐を引っ張って部屋の明かりを灯す。

 或る日、いつものように木箱に向かい原稿を書いていると、ブルーブラックのインクがかすれた。万年筆の扱いに慣れていないので、インクを出そうと振ったりコンバータを回してみたりした。ボトボトとインクが溢れ落ちてそれまで書いていた箇所が汚れた。小説家気取りをしているわけではない。薬の副作用で手に力が入らないなら万年筆が良いと知人にアドバイスをもらったのだ。髙島屋と阪急と大丸をまわったが硝子ショーケースに入った万年筆は国産品も舶来ものも値段の張るものばかりで到底手の出るものではなかった。自転車での移動は真冬とはいえ帰る頃には汗でぐっしょりだった。万年筆をあきらめて、2Bの鉛筆を買いにと訪れた近くの書店で独逸製の鉄ペンの万年筆が三割引で売られていた。これなら手が届くと残り一本のそれを取り置きしてもらい、部屋に戻ってわずかな酒代として残しておいた金を持ってまた書店を訪れた。三千円で釣りがきた。知人の言うように万年筆は筆圧をかけなくてもインクがぬるりと出た。最初に入っていたインクカートリッジはすぐに使い切った。替えのカートリッジを数箱買ったが、それも使い切るとはインク代を浮かすためにコンバータとボトルインクを買った。

 思い入れのあるその万年筆にはもう一つ特別な思い入れがある。はじめてその万年筆で本格的に書いた小説が君との物語だった。今でも小説を書くときにはニブの先から飛び出るブルーブラックのインクに君を重ねる。

 木箱に向かい書く間も、君は今頃汗を垂らしてがんばってるんだろうなと一生懸命働く君の姿を思い浮かべた。手が油まみれになるぐらいだから、オイルを使った仕事か何かなんだろう。君は仕事の愚痴どころか、何をしているかのさえ僕に言うことはなかったので君の仕事に関する僕の知識はまったくなかった。ただ毎朝楽しそうに出て行く姿が印象的で僕は毎朝目を細めて君を見送った。

 壁の時計をちらっと見た。ホームセンターで気に入って買ったその電波時計が二人で買った数少ないハイテク製品の一つで、夜の十二時二分ごろになると翌朝六時まで針が止まる仕組みになっていた。その針の音が鳴り止むと寝床に就くことにしていた。

 その晩、針が止まる頃になっても、君は帰って来なかった。こんな時間まで仕事ではないだろうと心配になった僕は連絡をつけようとしたが、いつまで待っても君から返事はなかった。休み前だから飲みにでも行ったのだろうか、といろいろ考えてはみたが呑めない君が誘いに乗ることもないだろう。布団を敷いて一人眠りについた。


 翌る朝、台所の包丁の音で目が覚めた。

「昨日はどうして連絡もしてくれなかったんだ」

 朝帰りの君に、心配と連日の疲れと病状の良くなかったのが重なってつい強く当たってしまった。

「友だちと一緒にいただけよ」

 君の目には隈ができていた。

「そうか、それならメールの一通でも返してくれたらよかったやろ」

 不貞腐れた返事をした。それでも君はいつもの笑顔を見せた。

「朝ご飯出来たよ」

 明るい声で君が木箱の上に茶碗と味噌汁のお椀、それにパン屋のシールを集めてもらった白い皿を置いた。

 大根の味噌汁をすする。大根のツマにしょう油をかけプランターで育てた大葉で巻いて食べる。茶碗の白飯の真ん中に窪みをつけ卵を落とし天つゆを二滴垂らす。それが二人にとっては朝からのご馳走だった。目の前には君の笑顔があり、そこに『しあわせ』という確かな形があった。

 朝食を食べ終わると僕は紙袋に英字のTシャツ数枚と数日分の下着を詰めた。二人でアパートを出て、商店街の突き当たりにあるコインランドリーに向かった。僕が手をつなごうとすると、君は恥ずかしいといっては手を振り払った。商店街の入り口にあった洋品店の店先のワゴンに積まれたカバンの山があった。

「あのカバン、かわいいね」と君が呟いた。

 物欲しそうな目をしたのはこのときぐらいだった。初夏のころに涼みにショッピングモールへ行ってもショップの洋服や下着も欲しがらず、フードコートの前も素通りするような君がはじめてといっていいぐらい店先で足を止めた。二千円均一のセール品だった。。ワゴンのカバンの中から水色のカバンのストラップを肩からぶらさげて赤いアーケードが反射した店の硝子窓に映る姿に君はしばらく見とれていた。勤め先に弁当を入れて行くのも、こうやってちょっと出かける時もいつも紙袋だったからカバンの一つぐらい買ってあげてもいいだろう。そっと僕がジーンズのポケットから財布を取り出して千円札を二枚渡した。

「あなたの大切なお金でしょ。それに紙袋で充分だよ」

 そう言って二千円を返してきた。

 むなしかった。レモンの酸っぱさとゴーヤの苦さを混ぜ合わせたようなえぐい味が口の中に広がった。コインランドリーからの帰り道、洋品店の店先のカバンが目に入った。

「あのさ、今日の晩ご飯なんだけど」

 君は話をそらした。カバンにはまったく目もくれなかった。むしろ見ないように無理して僕に話しかけているようだった。やっぱりむなしかった。

 アパートに戻ると小説の執筆を続けた。震える手で万年筆を走らせる僕の横でにこやかに原稿に目を落とした。

「何て読むの?」

「ああ、これは平仮名の『の』やで、手が震えるからどうしても……」

 そう言うと君は気まずそうに「ごめんね」と一言呟いた。

 うちわで扇ぎながら交互に万年筆を握っていると君が突然うちわを取り上げて笑った。

「そんな書きながらだったら捗らないでしょ。あなたは書いて。私が扇いであげるから」

 君が扇いでくれたお陰で随分と右手は楽になった。

 ふたりの首もとには僕の実家から持って来た目の荒い白いタオルが巻かれていた。汗を吸い込んでお揃いのねずみ色のTシャツは変色していた。

 集中して執筆し少し疲れていた僕は畳の上に平伏した。

 しばらく眠ったあと夕食の準備に取りかかった。朝に弱いので朝食は君が、夕食は僕が作ることになっていた。僕が出来る料理といえばごく簡単なものだけだった。コインランドリーでの待ち時間に立ち寄ったスーパーの精肉コーナーで買った特売の豚肉でピカタを作った。余った玉子は玉ねぎの味噌汁に入れた。君と味で揉めたのは味噌の味加減とお好み焼きのソースの量ぐらいであとの好みは似通っていたので料理をするのにあまり気を使わなかった。料理といってもフライパンで作れる簡単なものばかりだった。卵とレタスの具だけの焼き飯、一袋二十八円のソース焼きそば、キャベツたっぷりの焼きうどん、煮込みハンバーグ、生姜焼き、魚肉ソーセージと輪切りピーマンの入ったナポリタン、ケチャップライスで作ったシンプルなオムライス、関西風のお好み焼き。ほとんどスーパーの特売の品を狙って作ったものばかりだった。君が一番喜んでくれたのが玉ねぎを甘くなるまで炒めて作ったハンバーグだった。その次が豚肉のピカタだった。君は自分の好物が出て来ると喜んだ。だからこの日は特別機嫌がよかった。君が機嫌を損ねたのは一度だけでそれも大したことではなかった。

 その夜、二人は折り重なった。天井の染み、畳の屑、薄い布団、机代わりの木箱。部屋から漏れる音を掻き消すためにボリュームを上げたラヂオからは九十年代のヒットソングが流れていた。君が生まれた頃で、僕が青春時代を過ごした頃のGLAYだの、JUDY AND MARYだの、TRFといった曲だ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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