ep.13 玄さんの言葉
原稿用紙10枚の短編です。取り留めもない話ですが。
「こんな老いぼれの話でも聞いてくれるのかい。ありがとのう」
近所に住む玄さんの口癖はいつもこうだった。玄さんが若い奴らから慕われるのはこういうところだった。つまり、自分の武勇伝や自慢話や説教を一切しないところだった。
俺は将来、歳をとって何らかの形で若者と接するときは、玄さんのようになりたいと思っている。
みんな、若い奴らも俺らみたいな中年も、玄さんのことを尊敬しながらも親しみを持って接していた。
玄さんの家は立派だった。庭付き一戸建てで、この街では邸宅といっていいほどだった。それでも玄さんの形振り(なりふり)からは微塵もそれらを感じ取れなかった。むしろ質素な生活をしているように見えた。
玄さんは家具屋で財を成した。しかも一代で。郊外に数店舗構える。オーナー社長だ。
仕事帰り、いつものように立ち飲み屋に立ち寄ると、隅っこの台に丸椅子を置いてその上にちょこんと座っていた。
一度聞いてみたいことがあった。
「玄さん、玄さんはどうしてそんなに金持ちなのに、質素な生活をしているんですか」
横にいた主人も興味津々に俺と玄さんの会話に耳を傾けてきた。
「なに、大したことないさ。ワシとカミさんとで昔は苦労したものじゃよ。戦後で食べるものもなくての、身からがら田舎を飛び出してこの土地へやってきた。頼るものも居らずにな、無一文だったわけじゃよ。戦後、さあ、どんな商売を始めようか、といったときに、家具が飛ぶように売れるところを見たんじゃよ。すぐさま、これだ、と思ったなぁ。で、家具屋を開くことを決心したんじゃ」
玄さんは今も現役で家具屋を営んでいる。
「当時は見合い結婚が多くて、仲人さんとまず仲良くなることから始めたんじゃ。結婚すれば婚礼家具が売れるからじゃな。村田英雄の『夫婦春秋』って歌を知ってるかな。知らないだろうな、若いコには。ちょうどワシが二十歳でカミさんが十九だった。花嫁道具としては手鍋ほどじゃった。歌の通り、明日の飯さえなかった。九尺二軒が始まりで、とあるが、狭いうなぎの寝床のような家だった。みかん箱をひっくり返してちゃぶ台がわりにしたもんだよ。でも不思議とそれが貧しいとかは思わんかった。戦後はみんなそんなもんだったよ。まだ職があるだけワシは恵まれていた」
枝豆をつまみながら、玄さんは懐かしいそうな目で俺たちを見て、笑った。シワシワの目尻は始終笑顔だった。
「何か、今の僕たちに言いたいことはありますか」
背筋が伸びて敬語で訊く。玄さんは笑顔で「釈迦に説法って言うけれど、どうだろう。釈迦はその説法を聞くのじゃな。どんな偉くなっても、人の話を聞くことが大事なんじゃないかな。老いては子に従え、じゃないけどな。だから、あなたたちに言うことなんてそんな大それたことは何もないんじゃ」そういってまた枝豆に手を伸ばした。
「僕は人の評価が気になるんです。何かいい解決方法はないですか」
玄さんは赤ら顔で少し酔いながら、
「我は評価され、我を評価せず。それでいいんじゃないかな。人から評価されて一人前、自分で自分を評価するのはまだまだ半人前じゃよ」と口についた枝豆の塩水を拭った。
俺の悩みは尽きなかった。ここぞとばかりに人生の師匠に聞いてみた。
「どうやったら、人間関係はうまくいきますか」
「そうだな。誰をも裏切らないこと。それには誰をもレベル化しないということだな。プライドは自分を高めるものであって、人を陥れるための道具ではない、ということかな。自分の中で持っていないといけないが、人を落とすためではないということ。それはどんなにいい学校や大学を出ても同じことが言える。知識や知恵を身につけるのであって、人を見下げる為に大学の冠を被っているのではないからな」
玄さんは微笑みながら俺の肩を叩いた。
「感情で許せて、仕事で怒鳴れる人間になればいい。それがあなたの歳ぐらいならできると思うんじゃな」
玄さんは俺の背中についたゴミを指でつまんで地面に捨てた。
「僕は先輩から粗探しばかりされるんです」
「ああ、それはあなたの欠点が少ないからじゃ。どうしても人は少ない方が目立つから、そっちばかりに目がいく。仕方ないことじゃよ。でもな、一つだけ言えるのは、その欠点を必死で探してくれている先輩への感謝を忘れないことだな。あなたを育てようとしてくれてるのだからな」
玄さんは穏やかな口調でギョロッと目を輝かせた。
「玄さん、秘訣はありますか」
「生きている以上は、人に知ってもらう前にまず自分自身を知ることじゃよ。そうすれば自ずと自身の魅力に気づくはずじゃ」
俺は頷きながら、玄さんの言葉にもっと興味を持った。
「自分が輝いていると感じることはあるかな?」
玄さんが俺の目をまっすぐに見て問う。
「はい、仕事をしている時は自分が輝いていると思うことはあります」
「そうじゃろな。でもな、自分が輝いているということは、周りも輝いているということじゃよ。自分が輝いている、という自尊心と周りに照らしてもらっているという謙虚な気持ちを持ち続けなきゃならん。自分がすごいな、と思った時は故郷へ帰るといい。ワシはそうしているんじゃ。その故郷が自分を育てたのだ、と。そうすれば常に謙虚な気持ちで居られるのじゃ」
俺は玄さんのコップにビールを注ぎながら、また訊いてみた。
「よく上司と意見がぶつかるんです」
「意見がぶつかるということは、並んだと思えばいい。でもな、超えたと思った時は残念ながらあなたの負けだ」
玄さんは目をつぶって首を縦に振った。
「さっき、粗探しをされる、と言いなさったな。ここにハンカチがある。一枚のハンカチが。ワシがここへこの醤油を垂らす」
そういうと玄さんは醤油を垂らした。ハンカチにシミがついた。
「さて、このハンカチはどうだろう。どこが汚れてる?」
「それは、醤油が付いている部分です」
「じゃな」
「それがどうかしましたか」
「この醤油が付いた部分が欠点だとしよう。すると、この白い部分はどうかな。どっちの方が面積が大きいかな」
「白い部分です」
「ご名答。白い部分があなたの長所で、醤油があなたの短所だとしたら、醤油ばかりがシミとして目立つ。だから、先輩は粗探しをしているのではなくて、目立つ部分に目が行っただけのことなんじゃ。あなたには白いいい部分がいっぱいあるんじゃ」
玄さんが醤油のシミのついたハンカチをポケットにしまい込んだ。
玄さんが好かれる理由がここにあるのだと思った。多分、玄さんは「こうしなさい」という口調で俺たちを諭したりしない。
そんな居心地の良さが、玄さんと若者たちを繋ぐんだろう。
そして玄さんは会計をしれっと済ませた。
「玄さん。また明日も来られますか?」
俺の言葉にほくそ笑んで、後ろ向きに手をあげて、去っていった。
玄さんは戦争で被弾し隻腕の傷痍軍人である。人一倍の苦労はそれだけでも見て取れる。ただ、玄さんは自分の悲劇を戦争のせいにしたり、時代のせいにしたりしなかった。泣き言を言ったことがない。だからみんな尊敬の念を抱いている。玄さんのような男になりたい。男が男に惚れるというのはこういうことを言うのだろう。
「主人、お愛想」
財布を出そうとした時、
「ああ、それなら玄さんがさっき置いていったよ」
玄さんは何も言わずにその場を去っていた。
店を後にすると、千鳥足の俺は自宅の玄関に着くなり、スーツのままソファに倒れこむようにして寝た。
次の日の朝、珍しく早く三時ごろ目が覚めたので、近所を散歩しようと家を出た。
公園に差し掛かった時、ゴミ拾いをしている老父婦がいた。玄さんと奥さんだった。
声をかけた。
「ああ、あなたでしたか」
「いつもゴミ拾いをされてるんですか?」
「ああ、お恥ずかしいところを見られましたな。この時間なら誰にも見つからまいと思ってやってたのですが」
俺は正直に気持ちをぶつけてみた。
「どうして見られたら恥ずかしいんですか」
「これを見た人は『いいことをしている』と思いなさるじゃろ。それが恥ずかしいんじゃ。ワシがやってることは『当たり前』のことなんじゃ。何も特別なことではない」
そう言って玄さんは照れ臭そうに俯いた。(了)
ここまでお読みたいだき、ありがとうございました。
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