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遠雷

随分前のものを引っ張り出してきました。

 象のように臆病で円な目でうつむいて、小さな声で、

「明日、七時九分の電車ね」

 逃げるように走り去る丈の短いスカートがひらりと舞う弘香の後ろ姿をクラスメイトの晃一は黙って見送った。スカイスクレイパーに囲まれた梅田新道の歩道橋の上から見下ろした紺のブレザーは振り返ることなく真っ直ぐ走って行くのだった。その三分前、詰襟つめえり姿の晃一は弘香に好きだと言った。帰りの地下鉄で吊り革をねじりながら、生徒手帳に挟んであった南海本線の時刻表を取り出した。七時九分の下に赤のボールペンでアンダーラインを引いた。少し手が震えた。

 弘香のチャームポイントである、左の頬にだけできる笑窪えくぼと、アニメの声優のような甘いボイスに惹かれたのだった。この勝負は完全に晃一の負けだった。つまり片想いってことだった。

 お洒落をするにしても、長い黒髪のポニーテールと、薄いリップを塗っただけの純な弘香にとって、恋はまだ遠雷であった。だから、晃一の唇が初めて好きと動いた時、一緒に学校に行こう、とは言えなくて、自分の普段乗っている電車の時刻を言うのが精一杯だった。

 翌る朝、乾いた風が吹き込む駅のホームの3番のりばにポニーテールの弘香の姿を見付けた晃一は、押忍おす、と一言だけ口にすると、弘香は腰のあたりで小さく手を振って、おはよう、と俯いた。胸の高まりを抑えられない晃一は照れ隠しに、その日の放課後に出題される、英単語の小テストの範囲を訊くのがせいぜいだった。


「そんなこともあったね」

 カシスオレンジを飲みながら、ほのかに赤くなった弘香の頬の左側はあの頃と同じように笑窪ができていた。弘香の笑窪には二つの想い出があって、一つは好きになる切っ掛けだった。モスコミュールを口に含んで、晃一は弘香の笑窪をしばらく眺めていた。

 卒業二十年の記念の同窓会だった。四十人近くいた中で、この日集まったのは、男子は、幹事で言い出しっぺの河野、柔道部で主将だった山村、大工の岸田、公務員の中川、フリーターの村井、一緒の予備校だった下田、高校時代もこの日も影の薄い三島、そして晃一。女子は、銀行に勤めて十五年のゆかり、主婦で三児の母でもある蘭、そして弘香、男女合わせて十一人だった。

 晃一がこの同窓会に参加したのは弘香が十年ぶりに参加することが直前に分かったからだ。身体を壊して何もしていない晃一にはクラスメイトへの愛着も執着も何もなかった。だから同窓会サイトのボタンは不参加に設定してあった。弘香のボタンが参加のところにあったのを見て、慌てて締め切りの二日前に参加ボタンをクリックしたのだった。

 長い黒髪のポニーテールがトレードマークだった弘香は、ショートカットになっていた。耳朶みみたぶのピアスが煌びやかに光っていた。

「晃一君、だいぶ見た目変わったね」

 天辺てっぺんあたりが薄くなってきた晃一は気にはしてないとはいえ、やはり気になっていた。それが弘香に変わったね、と言われたのだから変わったのだろう。晃一のことを一番よく見てきたのが弘香だったからだ。

 モスコミュールを飲み干した晃一のグラスを見て、弘香が飲み放題コースの黒枠で囲まれたメニューを指差して、どれにする、と訊く。カルアミルクは男らしくないかな、と晃一が首をかしげると、別にいいっしょ、と親指を立てて、奥の方で談笑している店員を呼んだ。いつだってリードするのは弘香の方だった。高校時代に三十八度近い熱が出て、保健室に連れて行くのも弘香だったし、学校帰りのデートコースを決めるのも弘香の方だった。そんな、どことなく母性本能の見え隠れする母親のような弘香のことが気になる存在になっていったし、逆にうんざりすることもあった。宿題をしてこないと担当の先生より先に弘香に叱られたりした。もっとびっくりしたのは寝坊で遅刻しそうになった時に弘香の電話で命拾いしたことだ。


「すいません。私も」

 顔を紅く染めながら、髪の毛をくしゃくしゃに搔きむしる晃一の横顔をチラチラと見て、晃一の飲むものを真似した。あの頃も弘香は晃一の飲むもの、食べるものを真似した。自分で決められない性格だった。そのくせ、デートコースや自分の行きたい店だけはリードするのだった。

 同窓会という括りがなければ、二人は長年連れ添った夫婦のように夫婦じみていたし、またそうでなければ少し熟したカップルのようにも見えた。晃一はジェンガのように山積みになった枝豆を一つつまんで、指で豆を押し出した。晃一の口元についた枝豆のかすを摘んで灰皿に捨てる健気な弘香のことをまるで恋人のように思うのだった。だからといって今まで晃一は弘香と付き合ったことはない。

 晃一と弘香の恋物語は視聴率も取れそうにないドラマのように展開がれったかった。好きだというハートの目をむき出しにしていた晃一と、何か奥にしまってある大事なものでもあるかのように全く態度や表情に出さない弘香とは対照的だった。店頭に並んだまだ青いバナナを急いで食べようとするのは晃一の方だったし、食べごろになるまで待ちたいのは弘香だった。

 カルアミルクをマドラーで混ぜ、カラカラと氷の音を立てる晃一を、懐かしいね、と弘香もカラカラと氷の音を鳴らして回した。

 向こうの方で柔道部主将の山村と、家庭の都合で大工になった岸田が上着を脱ぎだし、ポーズをとって筋肉自慢をはじめた。山村の胸筋を岸田は、なるほど、と言って触り、代わりに山村が、あの頃は随分と華奢だったのにな、と岸田の上腕二頭筋を鷲掴みした。二人の鍛えられた肉体を間近で見ていた河野が指笛を鳴らし、ゆかりは恥ずかしそうに目をそらし、淑やかに二人の上着を畳んだ。

 ラストオーダーやで、と誰かが口々に伝えた。トイレから帰ってきた千鳥足のふらついた河野が、そこのお二人さん、相変わらず、と言って、ラストオーダーな、と親指を立てた。ほろ酔いの弘香の下り目がトロンと落ちて眠たそうに晃一の肩を借りた。まだ意識がハッキリしている晃一は、ラストオーダーに烏龍茶を弘香の分と二杯頼んだ。

 同窓会の言い出しっぺの河野が、二次会はどうしようか、と思い出話に浸っている晃一と弘香に尋ねてきた。晃一は口元で拳を作ってマイクを握る仕草で、カラオケでも、と答えた。河野は頭を掻きむしりながら、やっぱりそうだよな、と初めから決まっていたような口ぶりで指でO・Kマークを作った。

 カラオケの思い出といえば、初めてクラスの男女五、六人でカラオケに行った時、なぜか弘香の歌った曲だけレンタルして何度も聴いた覚えがある。だから今でもラジオやテレビで懐メロとして流れるとつい口ずさんでしまう。

 晃一は弘香にずっと片想いだった。そんな弘香の誕生日にプレゼントしたのは、ピアスでもなく、ハンチングでもなく、サングラスでもなく、学校帰りに日本橋の道でアラブ人が売っていた銀のリングだった。

 弘香が晃一に気軽に話ができたのは、弘香が晃一にその気が無かったからで、学校の行き帰りも弘香は意識することなく、自然とそういった関係でいられたのだった。それが梅田新道の歩道橋の上でストレートに気持ちを伝えた途端、何かが変わり始めたのだった。

「懐かしいわね。駅のホーム、思い出すわ」

 目を閉じたり開けたりしながら、弘香が言ったのは、高一の三学期の最後の授業のあった日、雪が降っていて、二人で高島屋でマフラーを買って、駅のホームで弘香が疲れて晃一の肩に身を委ねたことだった。

 高二になって初めての席替えで弘香と晃一は隣の席になった。ひょうきんでお調子者の晃一はクラスでも良い意味で目立つ存在で、控えめで大和撫子とはズバリ弘香のことを指すぐらいの二人の性格は真反対だった。そんなプラスとマイナスというより陽と陰といった感じの二人は友人として惹かれあっていった。晃一に弘香に対する恋心があるのかといえば告白するほどの勇気もなく一年あまりを過ごした。そうして歩道橋の上で好きと言った日から二人には少し距離ができた。

 洒落もなく、飾り気もない居酒屋をあとにすると、数台のタクシーに分乗して、桜橋にある、河野の行きつけのカラオケボックスに向かった。晃一の乗るタクシーには、弘香と山村と河野が同乗した。河野が呑んだ勢いでテンションが高く喋り倒すのに対して、残りの三人は気まずい雰囲気だった。

 助手席の河野のハイテンションぶりは異様だった。高校時代は瘦せ型だったのが、少し肥えたようだ。ビール腹かもしれないが。

(了)

お読みいただきありがとうございます。

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