File2-7「幸せの定義」
アキラたちと別れ、アラタは異世界転生仲介課の事務室に戻った。
自分の机にたどり着くなり、全身から空気を抜く勢いでため息をつく。
「お疲れ、予想通りの疲労困憊ぶりだね」
お決まりのように、資料の山の間からオギナがからかう。
「俺は……つくづく人の真意を探るのが苦手らしい」
アラタは呟き、再びため息をついた。
オギナは変わらぬ笑顔を浮かべている。まるで微笑ましいと言わんばかりだ。
「そこがアラタのいいところだけどね。自分のことをあれこれ観察されて、心情を見透かされるっていうのは気分がいいものじゃない」
「それ、慰めているのか?」
「そのつもりだけど?」
微笑むオギナに、アラタは軽く頭を振った。
ひとまず、目の前の仕事を片づけよう。
姿勢を正して、目の前に広げた書類へ向き直る。
待魂園での一良とのやり取りを記録しなければならない。
異世界転生仲介課において、管理官と転生者とのやり取りを記録した公文書は異世界間仲介管理院の膨大なデータベースへ保存される。厳重なセキュリティ管理の下、転生者の思想推移や神々への要望傾向などを分析、データを蓄積することで新人管理官の教育にも生かされるためだ。
アラタは記録を書き進めていく。
一良にとって、譲れない主張は一点のみ。
生前の妻と再び同じ世界で生きることだ。
順調に書き進めていたアラタの手が、ぴたりと止まる。
そこは一良本人が自覚している幸福指標の項目だった。
――幸せな人生だった。
一良はそう誇らしげに笑っていた。
次いで、先程まで言葉を交わした先導者の青年の顔が脳裏を過る。
――幸せな人生であったはずがない。
死神ツイははっきりと断言した。
アラタの中で、両者の主張がまたしても正面から衝突する。
アラタはひどく混乱するばかりだ。紙面の上を走らせていたペン先を浮かせる。
「なぁ、オギナ……幸せって、どういうものなんだろう?」
アラタの呟きに、オギナは少しの間書類を作成する手を止めた。
「人がどういう時に幸せだと感じるかってことかい?」
「いや、その……上手く言えないんだが。例えば、本人は幸せだと言う。けれど、周囲はその人を不幸だと言う。この場合、本人が幸せだと言っているのに、何故、実際は不幸だと周りから思われるのだろう。それとも、本人がわかっていないだけで、周囲の認識の方が正しかったりするものなのだろうか。そもそも、幸せの基準というか、尺度というのはどう測るべきなんだ?」
うーん……、とオギナは思案するように虚空を眺める。
「色々な意見があるだろうね。一言にこうだと結論を出すことは難しい」
オギナはそう前置きし、続ける。
「明確な基準は存在しないが、幸せかどうかを客観的に分析する方法はいくつかある。中でも主な方法は三つだ」
まずは、境遇。
オギナはそう言って、人差し指を一本立てた。
「その人が生まれ育った環境というのは、人格形成の上でも大きな影響を及ぼす。その人が生まれた場所はどんな国で、どんな種族がいて、どういった慣習があったか。社会的な制度もこれらに含まれる。また、家庭環境は良好だったか。親兄弟はいるか。そう言った最大から最小コミュニティに至るまでのデータをもとに多くの事例から比較分析する方法だね」
オギナは人差し指を立てたまま、さらに中指を立てた。
「次に、心理面。その人自身が成長するにつれて培ってきた人間関係や、影響を受けた事物はどういったものであったか。その人がどういったものに対して怒り、悲しみ、喜びを得るか。明確な事例を収集し、データを比較することで導き出すというもの」
オギナが薬指を立て、三本の指が一列に並んだ。
「最後は主体性だね。幸せの尺度はあくまでも自己申告。それが強制されて、心にもないことを発言しているのならそれは虚言となる。ほら、魔法や薬で幸せだと思わされているのは論外でしょ。拷問や脅迫における言論統制なんてもってのほかだ。人が何か行動を起こす時には必ず責任が伴う。何かを決めなければならない局面を迎えた時、人は己が積み重ねてきた経験や知識をもとに判断を下す。先に述べた境遇と心理面を踏まえた上で、主体性の有無が、その人の感じているものが本当に『幸せ』であるのかを知る手がかりになるんじゃないかな?」
「さすがオギナだ」
オギナの言葉に、アラタは感心したように頷いた。
しかし、オギナはどこか困った様子で眦を下げた。
「俺が言ったのはあくまで一般論だよ。結局のところ、こういった分析を経ても本当の『幸せ』が何かなんて誰にもわからない。それこそ、神さまでさえ何が幸福であるのかわかっていないんじゃないかな」
そんなこと、あるのだろうか。
目を丸くしたアラタに、オギナは苦笑する。
「考えてもみなよ。もしもこの世が幸せに満ちているのなら、俺たち管理官は必要ないだろ? 神々の世界でも争いは起こらず、安定した世界情勢になっているはずだ。神さまと言えど、万能ではないんだよ」
アラタは手元の書類に視線を戻し、黙り込む。
本日行った鈴木一良との面談記録は、まだ半分も埋まっていない。白紙の手元を見下ろしたまま、アラタはオギナの言葉を反芻する。
「ねぇ、アラタ。煮詰まっているなら、仕事終わりに飲みにでも行かない? 俺も気分転換がしたい」
黙り込むアラタに、オギナが手元の資料を傍らの山へと積み上げながら誘った。
「明日も仕事だから、食事だけなら付き合う」
わかった、とオギナは笑う。
オギナに倣い、アラタも急いで作業を再開した。
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