File9-5「マコトの死」
「院長!」
足が硬い床を踏んだ瞬間、アラタは咄嗟に腕を伸ばした。傾くマコトの背を支え、その場に座り込む。マコトは口端から血を流しながら、虚ろな目をアラタに向けていた。
「院長、しっかりしてください! 今、治癒の魔法をかけます!」
「アラタ! みんな!」
アラタの悲鳴を聞きつけ、オギナが駆け付けてくる。彼の後ろにはツナギと、そして傷だらけのヒューズたちの姿もあった。
「オギナ、サクラ管理官を呼んできてくれ! 院長がオメガに――」
「無駄だ」
左目を開き、キトラがアラタの言葉を遮った。その細められた瞳は、マコトの傷口を観察している。
マコトが受けた傷は、胸元から腹部にかけて縦に裂けていた。傷口はどんどん黒ずんでいく。瘴気の影響か、はたまた別の要因なのか。アラタは咄嗟に判断できなかった。ただ、こうしてアラタたちがもたついている間にも、マコトの纏う真っ白な法衣がどす黒い血で滲んでいた。
「キトラ管理官、無駄って……」
「オメガの野郎、咄嗟に管理官が扱う魂破壊の魔法を使いやがったんだ」
キトラの表情が悔しそうに歪む。キトラの言葉を、理解できないアラタではない。それでも、アラタは彼の言葉を信じたくなかった。
「そんな……そんなの……」
アラタは緩く首を横に振る。
「遡行魔法と治癒、空間隔離を駆使してやれない?」
珍しく、サテナがキトラに意見した。カイも長杖を構え、いつでも動けるよう身構えている。
「術式効果を隔離し、その間に院長の生命維持と術式効果の無効化を同時進行で行うんだ。ここにいる皆で分担すれば、十分効果が得られるはずじゃない?」
サテナの意見に、キトラはあっさり首を振った。
「聞き分けろよ、三人とも。これは管理官の魂を消滅させるために、一部の防衛部所属の管理官が執行できる権限だ。魂の自己崩壊を促す特別な術式。これは一度執行されると、解除することはできないんだよ」
「では、その術式に直接干渉を――」
「俺たちは管理官だ。管理官の魂を消す術式は、いわば、神々からの呪い。俺たちがどうこうできないように術式を組み替えてある。それくらい、養成学校でも習っただろ!」
なおも言いつのったカイに、キトラが苛立たしげに吐き捨てた。
アラタたち三人は悔しそうに沈黙する。
「……咄嗟に、院長を消すことを優先したのか」
アラタが歯を食いしばり、顔を歪めた。マコトが管理官たちをアディヴから強制退去させる際、オメガは咄嗟に狙いをマコトに絞ったのだろう。あの瞬間、アラタたちが反撃できないことを瞬時に悟ったオメガは、最も影響力のある人物の抹消を最優先させた。長年、異世界間防衛軍の総隊長を勤めただけあり、咄嗟の判断力と決断力は侮れなかった。
アラタの脳裏に、満足そうに笑うオメガの顔が浮かび上がった。憎悪と怒りで、どうにかなってしまいそうだった。
「そんな……嘘だろ……」
ジツがへたりと地面に座り込んだまま、苦しそうに顔を歪めるマコトを見つめている。
「助かる方法は、本当にないんですか? そうだ、俺に刻まれた加護の中に、何か――」
「いい……、アラタ、管理官……」
アラタの腕を、マコトの震える手が掴んだ。
「院長、しっかりしてください! 必ず、あなたを助けます!」
アラタは管理官権限を執行し、必死に己の魂に刻まれた加護の情報を探した。しかし、アラタの想いとは裏腹に、結果は絶望的であった。
「アディヴに残った……管理官、たちは……?」
「ノア管理官が確認済みです。少なくとも、あの場に生き残っていた管理官はすべて、院長の転移のおかげで無事です」
息も絶え絶えのマコトの傍らで、ヒューズが膝を折った。その精悍な顔が必死に悲しみを押さえている。マコトはその表情を和らげた。
「そうか……よかった……」
「院長……」
アラタのかすれた声に、マコトが顔を向ける。自分を覗き込んでくるアラタの顔が、くしゃりと歪んだ。
「教えてください、院長。どうしたら、あなたを助けられますか? あなたは我々に必要な人です……このまま消えるなんて、やめてください」
「すまんな……こればかりは、院長権限でも、どうにも……できない」
苦しげに咳き込むマコトが口から血を吐き出す。傷口から、彼の全身へと瘴気が広がっていく。
「そんな……」
アラタの頬を涙が伝う。彼の顎から落ちた雫が、マコトの頬を濡らした。
「そう、悲しむことはない……今回、やられたのが……むしろ、私で……よかった……」
マコトは苦痛に顔を歪めながらも、アラタに微笑みかける。
「アラタ管理官……貴官に、これを……」
マコトが己の指から共鳴具を抜き取る。
それをむせび泣くアラタの手へ握らせた。
「永獄の……世界の脅威を……どうか、消し去ってほしい」
「私は……勇者ではありません。そのような大役……私には……」
マコトの言葉に、アラタは即座に首を横に振った。マコトが弱々しく微笑む。
「貴官なら、できる。いや……きっと、貴官にしか……できないことだ」
マコトの手が、アラタの手を強く握った。
「神々が警戒し、魔王を鎮め、魂の想いに寄り添える貴官だ。私は、貴官の可能性を……信じている。オメガの最大の誤算は、アラタ管理官ではなく、私を葬ったことだ……」
「院長……」
涙に濡れたアラタの目が、マコトに向けられる。
「きっと、貴官なら成し遂げられる。皆と協力して、世界の脅威を……絶て……」
そうかすれた声を最後に、マコトの腕から力が抜けた。目を見開くアラタの目の前で、マコトの全身に亀裂が走る。マコトは最後に、己を見つめる副官に視線を向けた。その顔が柔らかく微笑む。
――ミノル、すまん。先に逝く……。
マコトが穏やかな表情で、唇だけを動かした。そのまま、ジツの返事を待たずに、細かい光の粒となってマコトの魂が砕け散る。
「あ……あああ……」
虚空を舞う光の欠片に腕を伸ばしたアラタが、その拳を床に叩きつけた。
「うわぁああああぁっ!」
アラタの怒号が、艦内に響き渡る。それまで気丈にふるまっていたアリスが、わっと声を上げてツナギにしがみつく。そのまま、声を上げて泣いている。静かに涙を流していたツナギは、しがみついてきたアリスをしっかりと抱きしめた。
声を殺して全身を震わせているヒューズの肩に、キトラは手を添える。
「ジツ」
マコトが消えた空間を呆然と見つめて固まっているジツの背に、オギナはそっと手を置いた。
「……こんなの、認めない」
か細い声で呟いたジツの両目から溢れた涙を前に、オギナは苦しそうな表情でジツを抱きしめる。
「認めるかよ……なんで、お前が先に逝くのさ」
表情の抜け落ちたジツが、囁く。
「僕ら二人で、やり遂げなきゃいけなかったのに……何、先に逝ってしまうのさ」
「ジツ……?」
オギナの戸惑った表情も、今のジツには目に入らない。
「院長がいてこその、部下だろうが……。部下より先に逝くなんて、そんな無責任なこと許さない。絶対に、許さない」
ジツはうわ言のように何度も呟いていた。彼の両手から、するりと短剣が抜ける。硬い床を跳ねた短剣が甲高い音を立て、やがて沈黙した。
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