File9-1「オミクロン」
共鳴具からもたらされる報告に、マコトは己の中指にはめた指輪を撫でた。
彼の前にある卓上には、先代と会話するための宝珠が置かれている。しかしそれは真っ二つに割られ、破片が床に散らばっていた。
アディヴ襲撃の報を受けてすぐ、マコト自らが叩き割ったものだ。敵方に、先代の居場所を知られるわけにはいかなかった。
「院長! 中央塔へ魔王の軍勢が押し寄せていますわ!」
マコトのいる執務室の扉を開け放ち、転生部部長のセイレンが厳しい表情で叫んだ。マコトはゆっくりと彼女を振り返る。
「そうか。兵力差は歴然。アディヴ陥落も時間の問題だな」
落ち着いた声音で呟いたマコトに、セイレンは焦りを滲ませた口調でまくしたてる。
「現在、ナゴミ管理官を筆頭に中央塔の防備を固めていますが、突破されるのも時間の問題ですわ! どうか急ぎ避難を――」
「皆が戦っている中、私だけ逃げ出すわけにはいかない」
マコトはぴしゃりと言い放つと、手に持った分厚い魔導書を広げる。
「ましてや、敵前逃亡は管理官を統率する者として恥ずべき行為だからな」
「何を言って――」
紙面を撫でるマコトの指先に添って、そこに刻まれた文字が輝きを放った。
「院長権限執行、能力封印!」
マコトの力ある言葉とともに、セイレンの全身を光の鎖が巻き付く。
「院長!?」
目を見開いたセイレンが咄嗟に手にした鞭で光の鎖を絶ち、拘束から逃れる。
「随分と巧妙に隠したものだな、白き衣を纏う者」
マコトは己の術中より逃れたセイレンを睨みつけると、低い声で告げた。セイレンはゆっくりとした動作で顔を上げると、マコトに向けて嫣然と微笑む。
「いつ、お気づきになりましたの?」
セイレンはマコトの言葉をあっさり肯定した。
もっとも、この期に及んで隠す意味はないと判断したのだろう。
「先の転生者調査課におけるトラブルで、データベースへの細工が見つかった。装備部の者がそこに記録された内容を改竄することは難しい。であれば、改竄した者の候補は絞られる。注意深く調べなければ見落としてしまいそうなものだったと、私の腹心が褒めていたぞ」
「光栄ですわ」
セイレンは己の胸にそっと手を当てた。
彼女の纏う黒い制服が、純白へと染め上がる。
「こちらの姿で名乗るのは初めてですわね、マコト院長」
真っ白な装束を纏ったセイレンが優雅な仕草で一礼する。
「わたくしの名は『オミクロン』――〝真実を隠す者〟ですわ」
どうぞお見知りおきを、オミクロンはそう言って口元の笑みを深める。
「よく言う。生かしておくつもりなどないくせに」
マコトは目を細めると苦々しい顔で呟いた。
「そんなことはございませんわ。わたくしたちの目的はあくまでも永獄にありますもの」
オミクロンはそう言って姿勢を戻した。その青い瞳がマコトを鋭く射抜いた。
「院長が永獄への道を開いてくだされば、手間が省けますの。そうすれば、これ以上の追撃をやめるよう仲間たちに通達いたしますわ」
「ふん、それで止まるような連中か? 共鳴具の報告を通して、お前たちの暴虐ぶりは聞き飽きた」
「うふふ、信用がありませんわね。とはいえ、わたくしたちは今対等に交渉できる立場ではありませんことよ。それに、あなたには悉く計画を邪魔させられたのです。正直、ここで始末したいと思うのも本音です」
「……」
オミクロンの言葉にマコトは沈黙に徹する。それが癪に障ったのか、オミクロンが手にした鞭を振るった。身構えたマコトの頬に、裂傷が刻まれる。
「苦労したんですのよ? 五千年以上前から入念に仕込んで、異世界間仲介管理院に保護された転生者をわたくしたちの領域へこっそり引き抜くのは……。転生者の魂に刻まれた加護を奪い、我々が神々と対抗するのにはかなりの時間が必要でした」
「加護を奪った転生者たちはどうした?」
ギリッと歯を噛み締め、顔を怒りに歪めたマコトを前にオミクロンは嘲笑った。
「あら、容易にご想像できますわよね? 加護を奪われるということは、魂を引きちぎられるようなもの。そんな魂、二度と転生は叶わない――」
「院長権限執行、不死鳥の怒り!」
マコトの足元から炎が燃え上がり、巨大な鳥の姿を形作る。甲高い叫び声とともに、炎の鳥がオミクロンに向けて突っ込んで行った。
「〝絶花〟」
オミクロンが床を蹴り、氷の花が彼女の身体を包み込む。
「あらあら、お怒りになりまして? さすがは異世界間仲介管理院の院長さま。慈悲深いお方ですこと。けれど所詮、己の世界の神々からも不要と言われたような輩ではありませんか。そのような輩、我々が気にかける価値などあるのでしょうか?」
「黙れ! 人の人生の価値を……その人の立場を……貴様ごときが量るな!」
炎の鳥を従え、マコトの憤怒に歪んだ顔が怒鳴った。
オミクロンも浮かべていた笑みを消し、己の頬を手のひらで撫でる。
「本当、嫌になりますわ」
オミクロンの表情が、不快げに歪む。
「どいつもこいつも……お綺麗な言葉を並べて、平然と世界を歪めていく。異世界間連合の神々を数柱手籠めにして異世界間仲介管理院の責任を追及させ、その独立した組織形態を早々に潰してしまっていればこんなに苦労することもなかったのですわ。それを……あなたは悉く潰してくださいましたわね!」
それだけではない、とオミクロンの美しい顔が鬼のように歪む。
「ユプシロンがあの元・転生者を捕獲できる機会をあなたは潰しましたわ。六百年前の魔王討伐で功績を上げた管理官を抱え込み、かの元・転生者の護衛に当てた。さらには任務中に我々と接触させることで、元・転生者本人に力不足を自覚させ、自らに施された封印を自発的に解くよう仕向ける。……本当に腹立たしいったらありませんわ!」
オミクロンは苛立たしげに鞭で床を叩いた。絨毯が裂け、大理石の床に亀裂が生じる。
「わたくしたちが囲い込む隙を与えず、あまつさえ『覚醒』間近にまでかの者の力を安定させる始末……。アルファが残念がっておりましてよ。せっかく素晴らしい『器』だったのにって……認めましょう。異世界間仲介管理院第三代目院長マコト、あなたは大した策士ですわ」
オミクロンの暗い笑みが、マコトをなじった。
「善人の皮を被って、なかなか腹黒い御仁ですこと!」
「……君も知っているだろう? 私は長年、召喚部の部長を務めていた。この程度の根回しくらいは造作もない」
マコトはどこか自嘲めいた笑みをこぼした。
基本的に、マコトは二代目院長の指示に従ったまでである。オミクロンが言うほど、マコトは自分があまりこういった策略事を巡らせることに向いていない自覚はあった。それも長年の間、アラタ管理官を見守ってきたからこそ、マコトは彼に触発されて動くようになったと言える。
「この際だ、私も一つ君に尋ねたい。君たちが神々や我々の目から魂に刻まれた加護を隠す方法が未だにわからない。我々はアラタ管理官を先導者たちの目から隠すのにだいぶ苦労したと言うのに、君たちは平然とそれをやってのけている。一体、どういったからくりなんだ?」
「あら、そんな簡単な仕組みもご存知でなかったの?」
オミクロンは心底可笑しそうに笑っている。
「そんなもの、己以外の管理官の魂の情報を写し取って己の情報として定着させてしまえばいいだけのことですわ。魂に加護を刻んだ転生者なら、比較的簡単に手に入れられる能力ですのよ?」
「そうか。ありがとう、一つ賢くなったよ」
マコトの指が魔導書の紙面をなぞる。
「院長権限執行、雷帝の鉄槌」
熱された空気に、稲妻が迸る。
「感謝の印に苦しまずに葬ってやろう」
マコトの静かな怒りを前に、オミクロンも己の周りに冷気を纏う。
「あなたの実力、拝見いたしますわ」
冷気と炎、そして雷が中央塔の天井を飛ばし、激しくぶつかった。
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