File8-12「アヴァリュラス神」
青い空から降り注ぐ陽の光が、目に眩しい。かつては存在しなかった白亜の宮殿が遠目に窺える。空に浮かんだ島と島を繋ぐ石橋から集いの場を眺め、冥界の主神カルトールはそっと目を伏せた。
今、各地で出現した魔王の討伐に、異世界間連合と勇者、異世界間仲介管理院は駆け回っている。カルトールのもとには、死神たちから寄せられる死者の魂たちの訴えが絶えず報告されていた。その中で、カルトールはただこうして傍観していることしかできない。
カルトールの両手に、力がこもる。
あの時、かの神を止めるべきだった。
カルトールはギリッと唇を引き結ぶ。
――もうどうせならさ、本人が望んだ形で輪廻転生させてあげた方が真剣に取り組むかもよ?
あの時、騒がしかった場が水を打ったように静まり返った。
その場に集った神々の視線が、一柱の若い神へと向く。長い金髪に青い瞳を持った神は胡坐をかいた腿上に肘を置き、頬杖を突いた状態で笑っていた。
カルトールは表情こそ変えなかったものの、ちらりと傍らに座す母神を見た。
母神は普段にも増して厳しい表情をしている。そんな母神の雰囲気に、幼いアスラとリシェラノントが不安げな顔でカルトールを見上げてくる。己にしがみついてくる二柱を優しく抱きしめ、カルトールは震えている小さな背を安心させるように軽く叩いた。
「アヴァリュラス神よ、それはどういう意味か?」
神々の意見を取りまとめていた母神が、眉根を寄せてアヴァリュラスに問いかけた。
「どうもこうも、言葉通りの意味さ。女神スルシェメフィナ」
アヴァリュラスは身を起こすと、軽く肩をすくめた。
「良質な魂を世界に循環させ、各世界の発展を促進する仕組みを作ればいい。作物を育てるのと同じだ。そして足りない分は他世界からもらい受ければいい。そうして世界秩序の循環システムを構築し、神々への『信仰』が絶えずもたらされるのであれば、世界は自ずと発展する」
「なるほど、それは妙案だ」
「それならば魂を循環させやすくなる!!」
「さ、されど罪を犯したモノには相応の罰を与えなければならない。どうすべきか?」
「それこそ、受け入れた世界の神が枷を与えればよい。どのみち責め苦を味わうなら、本人が望んだ形にしてやれば奴らも文句は言うまい」
「魂の不足した世界にとっても、よい救済案となろう」
「うむ、これでみだりに異世界からの召喚で、各々が管轄する世界の魂を強奪されることも減るであろうな」
「正直、魂の取り合いは面倒くさいからなぁ……」
その場に集った神々が口々に賛同の意を示す。
母神は黙り込んでいた。じっとアヴァリュラスの顔を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「ならば、それらを効率よく循環させ、かつ異世界間で起こるトラブルを解決するための専門機関が必要だ」
母神――スルシェメフィナの提案により、異世界間仲介管理院の創設が決定された。
当時、神々の直面していた問題を早期に解決するためには、アヴァリュラスの提案が最善であると思えた。今考えても、カルトールには当時のアヴァリュラス神の案に匹敵するだけの代替案をひねり出すことはできない。そうして、月日ばかりが悪戯に過ぎていった。
世界秩序が安定するとともに、アヴァリュラスの発言力はますます強まっていった。
等間隔に設置された柱に埋め込まれた魔力石が、淡い光を明滅させる。
このまま真っ直ぐ進めば、友であるスグルがくつろいでいる東屋がある。彼に相談すれば、カルトールが抱えるこの不安を多少は拭えるだろう。しかし、今のカルトールはスグルに会いたくない気分だった。スグルを含めた管理官たちに顔向けできない後ろめたさが、カルトールの足をこの場に留めていた。
――よいか、カルトールよ。
遠い記憶の中で、母神スルシェメフィナの厳かな声が続ける。
「アヴァリュラス神の提案は神々の危機を救った。一時的にだがな」
スルシェメフィナはそう言うと、カルトールの肩に手を置き、その紅の目を見据えた。
「だが、慢心してはならぬ。神とは己が守護する世界に住む全ての命に対し、その責を負う存在。己が利益のみばかりを追求しつづければ、必ずやその反動が返ってくる」
その時のスルシェメフィナの表情を、カルトールは決して忘れない。
「私がそなたに『死』を託すのは、『命』を軽んずることを禁じるため。相手が同じ『神』であってもだ。カルトールよ、たとえ同族殺しの汚名を着せられようと、そなたは常に『命』を平等に扱え。一方を贔屓すれば、必ずや他方も同じように扱わねばならぬ。『死』は常に、もっとも中立で絶対的な調停者の立場であり続けなければならぬ」
スルシェメフィナの言葉に、カルトールは無言で頷いた。そして今日まで、カルトールはその約束を守り続けてきた。
「母神……我はどうすればよかったのでしょうか。あなたの懸念に、我がもっと早く動いていれば……」
後悔したところで、この危うい均衡によって成り立った世界が改善されるわけではない。それでも、カルトールは悔やまずにはいられなかった。
「兄神」
不意に、空間が揺れた。顔を上げれば、輝かしい光に身を包んだ弟神――アスラが佇んでいた。
カルトールはわずかに目を見開く。呼びつけた本人が、アスラの来訪にひどく驚いていた。
まさか、本当に来てくれたのか。
目を見開いて固まったカルトールに対し、アスラにも余裕がないのか、その表情は普段以上に険しい。カルトールは怯む内心を押し込め、己が弟神と向き合った。
「急に呼び立てたこと、謝罪する」
緊張のあまり、己の口から出た言葉はひどく素っ気ないものだった。
「謝罪など……兄神がこのような時に私へ連絡を寄越すなど、何か重大なお話でしょう。無視などできますまい」
アスラは気を悪くした様子もなく、小さく頭を振った。
「……感謝する」
どこかホッとした様子で、カルトールは唇に微かな笑みを浮かべる。
「判定者」であるアスラはカルトール以上に、異世界間連合の神々を落ち着かせることに忙しいだろう。それでもこうして、カルトールの呼びかけにすぐさま答えてくれた。
以前、スグルが言っていた。アスラはカルトールを嫌っているわけではないという言葉も、あながち嘘ではないのかもしれない。
「スグルを経由して、白装束の集団がアヴァリュラスの永獄に封じられた魔王を解き放とうとしていることは聞いています」
アスラはさっそく本題を切り出した。カルトールも無言で頷く。
「何としても阻止せねばならぬ。アスラ神、三貴神を呼び寄せることは可能か?」
「……事態が好転するのであれば、無理にでも成し遂げてみせます」
アスラはしっかりと頷いた。
カルトールと違い、決断力と行動力に優れた弟である。アスラがやり遂げると言った以上、彼は必ずやカルトールの要請を果たしてくれるだろう。
「しかし、各地に出現した魔王の存在も無視できません。勇者の数も減っている今、神々は勇者の資格の条件を引き下げる動きを見せています」
「それは禁じろ」
カルトールの鋭い声に、アスラは一瞬口ごもった。
「理由を……伺っても?」
「おそらく、かの白装束の集団の狙いは永獄に封じられた魔王ではない」
カルトールのいつになく強い口調に、アスラは戸惑った。
「それは……封じられた魔王が目的でないとしたなら、白装束の連中は一体何のためにアヴァリュラスの永獄への道を探っているのですか?」
「今はまだ、確証がないのだ。だからこそ至急、三貴神を見つけ出してほしい。できることなら、我の考えていることが……見当外れであってくれればよいのだ。それを、急いで確かめなければならぬ」
カルトールは目を硬く閉ざす。
かつてアヴァリュラスに出現した魔王を封じるため、多くの神々が出陣した。神々の力を集結させ、ようやく永獄に封じ込めることに成功した。
だが、その代償は大きかった。
アヴァリュラスに出現した魔王との戦いで生き残った神は――たったの三柱だけだったからだ。
異世界間連合では生き残った三柱の神々を「三貴神」と呼び、英雄神として称えている。しかし、当の本神たちは早々に異世界間連合を脱退し、己の世界へ引きこもってしまった。外部からの干渉をひたすらに拒み、己の世界へ通じるあらゆる道を閉ざしたと聞く。
「我も死神たちに捜索を命じているが……一向に足取りが掴めぬ。アスラ神よ、無理な願いとは重々承知している。しかし、どうかこの愚兄に力を貸してほしい」
これ以上、手遅れにならないためにも……。
カルトールはそっと弟神に頭を下げた。アスラが息を呑む気配が伝わる。
「兄神……どうぞ、頭を上げてください」
アスラがカルトールに歩み寄ると、そっと肩に触れる。カルトールが顔を上げると、困ったような、それでいてどこか嬉しそうに微笑むアスラの顔があった。
「兄神がそこまでおっしゃるのです。私の方でも、すぐに使徒を派遣させましょう」
「アスラ神……感謝する」
「女神リシェラノントにも連絡を入れましょう。他にも、いく柱の神に協力を要請してみます。事は我々だけで対処するには深刻すぎる。神々の手が多いことに、不利益なことはありますまい」
「ああ……その際、どうか勇者や異世界間仲介管理院の管理官たちには、我々が三貴神を捜索していることを伏せてほしい」
カルトールの言葉に、アスラは頷いた。
「心得ております。これ以上、勇者や管理官たちの損耗が激しくなれば、万が一アヴァリュラスの永獄が破られたときに対処できなくなりますから」
そうして、アスラはカルトールに別れの挨拶をすると来た時同様、光を纏って虚空の中へ消えていった。
弟神が消えた空間を、カルトールは黙って見つめる。冥界の主神の焦りが伝わったかのように、集いの場に落ちた影がより一層深まった。
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