File7-15「死の神の変化」
スグルは姿勢を戻すと、己の足元へ視線を向けた。
「もう出てきても大丈夫だ」
「……」
黒い靄がスグルの足元の影から湧き上がり、やがて人の姿を形作る。その白い顔がひどくやつれたように曇っていた。
「アスラ神とは相変わらずのようだな……」
スグルはため息交じりにカルトールを長椅子へ座るよう促す。
「弟神は、我をひどく憎んでいる。表面上では、あのように友好的だが……」
長椅子に腰を下ろしたカルトールがそっと目を閉じた。眉間に寄せられたしわが深い。卓上に両肘を置き、指先を組むとそれを額へ押し当てた。彼の唇から、長いため息がもれる。
「私を前にすると、あの笑顔がひどく黒く歪むのだ……まるで魔王のように」
「……」
カルトールの言葉に、スグルは目を細めた。
「ああ……貴神にはそう視えているのだね」
冥界の主神カルトールはこの世で唯一、神々の「想い」を読み取ることができる存在である。神を罰することができる「死」の神にとって、神がひた隠しにする「真実」を見抜く能力は必須。いかなる虚偽も通用しないカルトールを、快く思っていない神はごまんといる。
まぁ、己が絶対の君臨者として世界の頂点に居座る存在にとって、己の心内を見抜かれることほど不快なものはないだろう。
ひとたびカルトールの前に立てば、いかなる神も「嘘」を見抜かれてしまう。神々にとって魔王の次に「脅威」となるその能力を持ったカルトールを、最も身近で見てきたのが弟神であるアスラなのだ。
「この世で生命を生み出すことに特化したもっとも愛される存在である弟神が、冥界を治める我と兄弟神であることは……きっと弟神にとって耐えがたい屈辱であろう。皆に愛され、囲まれている弟神を見かけるたびに、我は耐えがたい罪悪感を抱く」
カルトールは額を手の甲へ乗せたまま、再び深いため息をついた。
この弟想いの兄は、母神から冥界の権利を受け継ぐなり、早々に冥界へ引きこもるようになった。そうして弟の顔色を窺う一方で、カルトールはその生来の真面目さゆえに己の役割を放棄するようなことはしなかった。
カルトールのやり方に問題はない。むしろ理屈としては常に正しい。だが、時には衝突を避けるべく柔軟さや妥協、他神への働きかけといった下準備というものが必要になる。
その匙加減が上手くできないカルトールは、意見の相違から何度かアスラやその他の神々とも衝突が絶えない。それでは他神との溝はますます深まるばかりだ。さらにはカルトールを恐れる他神が度々アスラを仲介にすることも、カルトールとアスラが正面から衝突する構図を作る原因でもある。
結果として、カルトールとアスラは傍目からひどく仲の悪い兄弟に映っていた。
アスラが己を嫌っている、とカルトールが思い込むのも無理はない。
「貴神はつくづく難儀な性格だな。アスラ神から直接、そのように言われたのか?」
卓上に頬杖をつくなり、スグルはカルトールの言い分を鼻で笑った。
「いや……聞いていたらもう立ち直れない」
カルトールはしおしおと項垂れた。予想通りの返答にスグルは呆れ返る。
「なるほど。つまり全て貴神の被害妄想か。やはり貴神も『神』だな。自意識過剰な上に傲慢と来たものだ」
「わ、我は何か間違いを犯したか……?」
狼狽えるカルトールを尻目に、スグルは去り際に己を鋭い眼光で睨みつけたアスラの姿を思い起こす。
あれはカルトールへの憎悪を滲ませているというよりは、嫉妬にまみれた者が好意を寄せている者の傍にいる輩に向ける眼差しに近いように思う。とはいえ、それをわざわざ指摘したところで目の前で落ち込む神は信じようとしないだろう。
「一度、アスラ神ともしっかり向き合ってみたまえ。神々の兄弟が、人間世界の上流階級どものように権力を得るために常に殺し合い、憎しみ合わなければならないわけではない。兄弟神が仲良く協力し合い、場を収めるというのも、貴神たち兄弟にとって理想的な形ではないかな?」
スグルはそう助言することが精いっぱいだった。
「周囲がそれを許さぬだろう。何より……アスラが我の手を取るとは思えん。それに……我は権力などに興味はない。『死』の神として淡々と決まった役割をこなす。それで十分だ」
カルトールの主張は、スグルにとって予想済みの答えだった。
他神を黙らせるほど絶大な力を持ちながら、それを行使すべき立場をあっさりと放棄する。所詮、冥界の主神も、異世界間連合に集う神々となんら変わらない。
変化を厭い、現状に甘んじ、異物を遠ざける。
スグルは咄嗟に表情を繕う。危うく、目の前の主神を他の神々同様、軽蔑の眼差しで見るところだった。しかし再び口を開いたカルトールの言葉は、スグルの度胆を抜くに十分だった。
「――そう、今までは思っていた。だが最近では我にも……この手が届く限り、守ってやれる存在がいるのだと知ったのだ。我にもできることがある。そのために、もっと我に力があったならば……そう思う時がある」
「ほぅ……一体、どのような心境の変化だ?」
カルトールの言葉に、スグルは思わず手のひらに乗せていた頬を離した。目を丸めてまじまじとカルトールの表情を見つめる。
「我が治める世界で……花を育てている死神がいるのだ」
「花?」
思わず聞き返したスグルに、カルトールは小さく頷いた。
「最初の頃は鉢植えという小さい器に土を盛って、そこに植物の種を植えて育てていた。昼夜の区別なく光の差さぬ暗い冥界で、花を咲かせるにはかなりの労力を有する。最初の頃は、その死神が育てた植物は枯れてばかりで……花が咲いてもなんともみすぼらしいものばかりであった。最初、我は一瞬で消え去る命を何故、冥界で大事に育てるのだとその死神を相手にしていなかった」
冥界の主神は顔を伏せ、スグルの目を見ようとはしなかった。それでも、その口調にはアスラを前にした時の怯えようとは違い、どこか彼の強い意思のようなものを感じた。
「最初は誰もが見向きもしなかった。その死神も、咲いては枯れ、再び芽吹く様をただ眺めているだけのようだった。自己満足だったのであろう。それが最近になって、かの死神が育てる花が立派で、たいへん美しいと冥界でも評判になってきた。我も目にしたが……赤や青と色鮮やかな花を前に、何故だか胸が苦しくなった。その死神が言うには、異世界間仲介管理院で仲良くなった管理官に肥料を分けてもらっているという話だった。ついこの間も、かの死神が冥界の土地の一部を花の栽培に使用したいと言ってきたんだ」
「ほぉ……随分と奇特なことを思いつく者がいたものだな」
スグルは会ったことのないその死神に興味を抱いた。同時に、その死神に助言を与えた管理官が誰であったのか、気になった。スグルの表情が輝いたのを、カルトールは不思議そうに首を傾げていた。
「しかし、冥界の土は生命を育むには向かないのではないかね?」
「ああ。我もそう言った。そうしたら、その死神は管理官の友人に『冥界でも育つ花を自らの手で生み出してはどうか』と助言を受けたそうだ」
それまで無表情だったカルトールの顔に、かすかだが柔らかな笑みが浮かんだ。
「考えもしなかった。『死』から『生』を生み出そうなどと……」
カルトールの微笑を、スグルはまじまじと見つめる。長年の付き合いがある者でなければ、気づかないほど小さな変化である。しかし、表情の乏しい冥界の主神がこれほど柔らかな雰囲気を纏うことは今までなかった。
「我は……我ら冥界に住まう神は『死』そのものだ。何もかもを台無しにする。営みを絶つ存在として、常に万物の終焉として在った。そんな我らが……命を守り育むことなどできぬと思っていた」
カルトールの口元が綻ぶ。
「しかし、花を愛でる死神が冥界で小さな命を育むことができるのだと証明してみせた。我らにも命を奪うだけでなく、育むことができるのだとその管理官が教えてくれたのだ。ゆえに……我は今の異世界間連合のやり方を改めるべきであると思う。長年、目を背けてきたことに……我ら神々は決着をつけるべきだ、と」
「ああ……貴神らに、できぬはずがなかろう」
スグルはずばりと言った。カルトールの揺れる瞳が、スグルに向く。
「貴神は他のどの神々よりも、終える者の苦しみを間近で見知っている。命の尊さを真に知る存在は、その命に終わりを告げる貴神ら冥界の神々だけだ」
「……いつも思うのだ」
カルトールが卓の上へと崩れ落ちた。長い黒髪が、彼の表情を隠す。
「死を望まぬ命らがいつも口にするのだ。『もっと自分らしく生きたかった』と……その度に思うのだ。どうして、この世界は……この世界に生きる者たちに、そんなことを言わせてしまうのか」
カルトールが長い黒髪の隙間からその紅の瞳を向けてくる。その瞳には、紛れもない「怒り」が宿っていた。その眼光を前に、スグルは人知れず唇を笑みの形にした。
「生命を生み出すことのできる神々は、一体何をしているのだろうな?」
死を司る神が誰にも知られることなくそのうちに秘めていた「怒り」を、こうしてスグルの前にさらけ出している。
冥界の主神の変化に、スグルは興奮を覚えた。同時に、冥界の主神に変化をもたらした存在に感謝した。どこの誰だかはわからないが、神の考えを間接的にでも変えてみせたその手腕を、今は手放しで褒めてやりたい気分だ。
「我らの手を取れ、冥界の主神よ」
スグルはそれまで繕っていたような笑顔を大きく歪ませる。それはまさに獰猛とも呼べるほど、世辞にも穏やかさとは遠いものだった。スグルはまるで値打ちのある原石を見つけたような心地を味わう。
「貴神の抱いたその『想い』、声を大にして他神に訴えてほしい。貴神の働きかけが、やがては異世界間連合の行く末を正すことになるだろう」
スグルはカルトールの顔を覗き込むと、笑みを深めた。
「そのためにも、貴神はここで終わってはならない。これを機に、貴神は異世界間連合において盤石な足場を固め、相応の地位を得るべきだ」
スグルはカルトールの前に手を差し出す。カルトールの紅の瞳が揺れた。
「しかし……我に賛同してくれる存在などいるだろうか。誰も彼もが我を遠ざけようとする中で……」
差し出された手を、カルトールの紅の瞳がじっと見つめている。
あと、一押しだ。
「何も全ての神を味方につける必要はない。重要な役割、発言力のある神々を抱き込めばいい。あとは今まで通り、常任理事世界の神々との交流を続ければ十分貴神の助けとなるだろう。私や異世界間仲介管理院も支援を惜しまん」
スグルの力強い言葉に、カルトールが顔を上げた。
カルトールの瞳とスグルの瞳が、真っ向から見つめ合う。
「どうせ関わるならば……この世界の命運、我らで背負いきってみせようではないかね?」
カルトールの手が伸びる。体温のない冷たい手が、スグルのしわまみれの手をしっかりと握りしめた。
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