File6-22「約束」
光に満ちた場所に佇み、アラタは周囲を見渡した。エヴォルの心核内にわだかまっていた闇が消え、いくつもの光の筋が天へと伸びている。光を受けて輝く鉱石の先に広がるのは、遮るもののない青空だった。足元の水面に、澄み渡った青が映る。
美しさを取り戻したエヴォルの心核内においても、暴走する魔王の瘴気がアラタを飲み込もうと絶えずこちらへ迫ってくる。しかし、己を取り戻したエヴォルの加護が瘴気を焼き消して行く手を阻んでいた。
「ああ――広い、空だな」
アラタは己の傍らで同じように空を見上げていたエヴォルに振り向いた。
「エヴォル、すまなかった。俺はお前を置いて……」
「お前が謝ることはない。人間の一生は竜のそれよりもずっと短い。それを承知していながら、お前に傍にいろと言ったのは我だ」
エヴォルの目がアラタに向く。
「我こそ、軽率であった。お前とともに過ごすうちに、使徒としての役割を放棄した。結果として女神の粛清がお前に向き、グロナロスからお前が追放されることになってしまった。本来であれば、役目を放棄した我が責められるべきであったのだ」
アラタは寄せられてきたエヴォルの顔に、そっと腕を伸ばして触れた。つるりと滑らかな、磨き上げられた紅石のような鱗だ。懐かしい感触に、アラタは微笑む。
「それでも、俺は嬉しかったよ。だってエヴォルは人間を守ろうとしてくれたんだ。俺がエヴォルの傍にいたばっかりに、女神が人間を一から作り直すと言い出したのは明らかだ。女神が人間たちを始末するようエヴォルに命じた時……エヴォルは『それは間違いだ』って女神に反論してくれた」
「だが……結果は変わらなかった。我はお前が殺された瞬間、己を見失い……お前を殺した竜どもと、人間を大勢殺めた」
エヴォルの表情が曇る。
アラタも目を閉じてエヴォルの鱗に己の額を押し付けた。
「我が『魔王』に身を堕としたのも道理よ。お前を失ったあの瞬間、我は確かに心からこの世界のすべてを恨み、崩壊を望んだのだから」
「エヴォル、それでも俺は……君に生きてほしいと思う」
アラタは額を離し、友の顔を見上げた。
「俺は今、異世界間仲介管理院で『アラタ』という名前の管理官として生きている。俺はそこで、エヴォルのように苦しんでいる人々の魂を救うため、傷ついた魂を新しい世界へ送り出す仕事をしているんだ」
アラタの言葉に、エヴォルがフッと表情を和らげた。
「そうか……今のお前は『アラタ』というのか。ふふふ、お前らしい仕事だ。お前の様子からして、仲間も大勢できたのであろう?」
「ああ、君にもみんなを紹介したいくらいだ」
笑顔のアラタに、エヴォルも笑った。
「ならば、我のことは気高き竜として紹介するのだぞ? 神竜として活躍した武勇伝の一つ、二つくらい語って聞かせるのも許してやる」
「わかった。自分の住んでいる神殿で迷子になった神竜ってのは、そうそういないからね」
「おまっ、それは断じて言うでない! 即座に忘れろ!」
「あははは」
笑うアラタを、エヴォルは眩しそうに目を細めてしばらく眺めていた。まるでアラタの姿をその目に焼き付けておこうとしているかのようだった。
やがて、エヴォルが決意した様子で切り出した。
「さぁ、そろそろ別れの時だ」
エヴォルの言葉に、アラタはぴたりと笑うのをやめた。その黒い瞳が、エヴォルをしっかりと見据える。
アラタの真っ直ぐな瞳に、安心した様子のエヴォルが続けた。
「礼を言うぞ、友よ。我はもう下を向かぬ。お前の友として恥ずかしくないよう、いかなることにも向き合おう」
「ああ、それでこそ神竜エヴォルだ」
アラタもエヴォルの鼻先をそっと撫でた。
「エヴォル、俺も約束しよう。俺は管理官として、今度こそお前のように心優しい魂が苦しまぬよう、世界や神々に働きかけていく。たとえ険しい道のりでも、俺は諦めない」
互いに頷き合うと、アラタはエヴォルから離れた。
「またな、アラタよ」
「ああ、またな。エヴォル」
互いに、「さようなら」は口にしなかった。
エヴォルの身体が光に包まれる。光に包まれた巨躯がだんだんと小さくなり、やがてアラタの両手に収まるほどの大きさの光の玉が浮かぶ。
「管理官権限執行、守護結界」
アラタはエヴォルの魂を結界で保護すると、そっと腕に抱いた。エヴォルの心核内の情景が消え失せ、アラタはエヴォルの炎に守られながら瘴気の中に一人佇んでいた。
保護したエヴォルの魂を抱きしめ、アラタの鋭い目が荒れ狂う瘴気へ向けられる。エヴォルから受けた加護「千里眼」によって魔力が増幅したアラタの目に映ったのは、傷だらけになって戦う仲間たちの姿だった。
魔王としての核を失ってもなお、魔王の力はなかなか収束しない。ましてやその核となったのは、女神グロナロスより数多の加護を魂に刻んだ神竜である。その威力は核を失ったと言っても、十分世界を滅ぼせるだけの脅威であった。
「エヴォルの力を、世界を破壊するために使わせるわけにはいかない」
それではアルファたちの思う壺だ。
この荒れ狂う魔力の波を、どうにか消し去らねばならない。
「管理官権限執行、記録照合」
アラタは己の中に刻まれた加護の中から、必要な情報を引っ張り出す。散らばる加護の効果を一本化し、時に統合を繰り返して変化させ、アラタが操れるように落とし込んでいく。
アラタが右手を掲げた。複雑な術式の魔法陣が虚空に展開する。
「〝魔力性質変換〟」
膨大な負の感情の力をそのまま、無害な生命力へと性質を変化させて循環を促す。発動した途端、魔王の魔力がアラタを飲み込もうとする。意識を必死に繋ぎ、エヴォルの魂を無意識に抱きしめた。
「エヴォルの力が誰かを傷つけるために利用されたなんて、そんなことは俺が許さない。だから――この場で全部消し去る!」
アラタは必死に魔王の力を誘導する。暴れ回る力の奔流を誘導するのは容易ではない。氾濫する濁流を、街への被害を防ぎながら舗装した河川へ流していくようなものだ。アラタは目に魔力を常に集めて、必死に魔王の力の流れを見据えた。
「エヴォル、やっぱお前はすごい竜だったんだな……」
腕を掲げ、魔法陣を維持しながらアラタは額に浮かんだ汗も拭わずに呟いた。
生まれたばかりの魔王で、この魔力量である。膨大な魔力の流れに飲まれないよう、アラタは必死に両足を踏ん張った。魔力の操作系・制御系の管理官権限や加護を総動員して、とにかく少しずつ魔王の力を削いでいくしかない。
最初は大きく抵抗していた魔王の力だったが、徐々にアラタの魔法陣へ吸い込まれるようにしてその力を変化させていく。やがてアラタを守ってくれていたエヴォルの炎も鎮火する。厚い瘴気の壁が消え、アラタは暗い岩の通路に佇んでいた。
「アラタ管理官!」
全身を負傷して膝をついていたツナギが、アラタの姿を認めるなり、声を上げた。ツナギの強張っていた表情が和らぐ。
「ただいま戻りました、ツナギ管理官」
ツナギの姿を目にし、アラタも緊張が解けていく。ツナギの他にも、ヒューズやオギナ、ジツも怪我を負ってはいるようだが、しっかりと自分の足で立っていた。仲間や友人たちの無事を、アラタは心から喜んだ。
「アラタ管理官、もしや……貴官があの魔王の力を消したのか? それに……その腕に抱えているのは……」
驚愕に目を見開いたヒューズに、アラタは腕に抱いたエヴォルの魂を示した。
「神竜エヴォルの力を借りました。大切な友の力を、世界の破壊に使われたくなかったんです」
アラタの言葉に、ヒューズたちは静かに頷いた。
「よくやったな、アラタ管理官」
ヒューズは朗らかに微笑む。アラタも表情を綻ばせた。
そこに、亜空間全体を揺るがす振動が伝わった。
身構えるアラタたちの前で、空間に亀裂が走っていく。
「さすがに、もう維持が厳しいか。急いでこの空間から脱出するぞ! 皆、全力で走れ!」
「はい!」
アラタたちは亜空間内を駆ける。崩れる空間の欠片を避けながら、アラタは石造りの神殿が見える出入口に向けて思いっきり飛び込んだ。
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