File6-20「嘆き」
――寒い。
アラタは暗い闇の中で、ガタガタと体を震わせていた。
魔王の瘴気に飲まれ、アラタが全身に纏っていたエヴォルの加護は吹き消されてしまった。女神グロナロスの加護をその魂に刻んだ神竜の炎ですら、魔王の前では無力なのだろうか。
アラタは無力感に、身を縮ませる。
このまま、魔王に飲み込まれてしまうかもしれない。その恐怖と、自分を襲う不安や絶望による圧迫感がアラタの闘志をことごとく奪っていった。
「エヴォル、どこだ? エヴォル……」
アラタは頭を振ると、友の名を呼んだ。
魔王は「負」そのものである。神々が「信仰」を糧とするように、魔王はその暴力的なまでに膨れ上がった「負の感情」を糧とする。
それに飲まれてはいけない。
エヴォルはアラタが助けに来るまで、ずっとこの感情と戦っていたのだ。
アラタは自分を奮い立たせ、必死に友の名を呼び続けた。もはやエヴォルの魂を感じ取ることもできない。暗い世界の中を、足を動かして必死に探し回った。
――孤独には慣れていたつもりだ。
不意に、アラタの頭にエヴォルの「声」が聞こえた。
「エヴォル!?」
アラタが声のした方角へ振り返る。友の姿を探して、周囲へ目を向けた。
視界が唐突に開ける。
無数に浮かぶ鉱石と、足元に広がる水面がどこまでも続く空間に出た。太陽は見当たらない。周囲の鉱石が発光しているのか、辺りは昼間のように明るかった。
「ここは……魂の深部――『心核』か?」
アラタはぽつりと呟いた。
この世に生み出された魂は、その生涯の記憶を刻むための「核」を有している。「世界の記憶」とも呼ばれる魂の核は、異世界間仲介管理院では「心核」とも呼ばれ、言ってしまえばその魂が辿ってきた「縁」や「経験」の保管庫である。
人間世界においては「魔力源」とも呼ばれ、特に転生者が神々より与えられた「加護」や「才能」を執行する際、この「心核」に刻まれた「記録」を自分の表層意識へつなげることで「魔法」や「才能」という形で具現化している。
異世界間仲介管理院における転生者の記憶を消すということは、この心核から表層意識への経路を封鎖し、異世界の神々が干渉できないように処置を施すことを意味する。
「エヴォル……」
アラタは一歩、水面の上で足を踏み出した。その途端、再び頭の中でエヴォルの呟きがこぼれる。
――友と出会って、初めて……誰かとともに在ることのあたたかみと安心感を知った。
「ああ……他愛ない話ばかりだった気がするけど、それでも……俺もエヴォルと話していると理不尽な目に遭っていた頃の記憶を忘れられた」
アラタは穏やかな表情で頷いた。
独りで生きていたエヴォルと、一人で生きていこうとしたアラタ。
立場や境遇は違えども、アラタとエヴォルは心に抱いていた「根本」が似通っていたのだろう。
――友を失った後は、もはや地獄だった。
エヴォルの「声」に、悲しみの色が滲む。
――ぬくもりなど知らねばよかった。さすれば以前のように、女神の命にただ忠実に従っていられた。人間どもを見ても、女神に殺せと命じられても、心痛むこともなかった。友の面影を追うこともなく、己の境遇を嘆くこともなかった。
「エヴォル……」
アラタはエヴォルの「声」に顔を歪めた。
「そこまで……追いつめられていたんだな」
切なさがアラタの胸に溢れる。
「すまない、エヴォル。独りにして……君を置いて逝ってしまって、本当にすまない」
――ああ、恨むぞ、友よ。我よりも先に逝ってしまったお前を、我は許さぬ。そして、お前と出会ったあの瞬間に、浅はかな好奇心からお前との繋がりを持った己自身を恨むぞ。
「エヴォルッ……痛っ!」
アラタは全身を襲った痛みに膝をついた。エヴォルの深い悲しみが、アラタの中に流れ込んでくる。自分の内側から切り刻まれていくような感覚に、アラタの額から汗がにじんだ。
周囲の景色も変化していく。空中に浮いていた美しい鉱石が黒ずんでいく。そこから水面へ滴り落ちる雫は、真っ赤な血のようだった。辺りが暗く、光を失っていく。
エヴォルの魂が憎悪や悲嘆に染まっていっていた。それに引きずられる形で、アラタの魂に刻まれたエヴォルの加護がアラタを苦しめる。彼の抱く憎悪が暴走し、アラタの中で荒ぶる熱となって彼を苛む。
激痛に耐え切れず、アラタは悲鳴を上げた。
このままではまずい……。
朦朧とする意識の中で、アラタは腕をついて身を起こす。
焦燥と戦慄がアラタを支配した。
心核が歪んでいく。このままでは魂への負荷が増えて、砕け散ってしまうだろう。
「エヴォル! 俺はここにいる! 君を迎えに来たんだ! 別の世界で生まれ変わって、こうしてまた、君のもとに戻って来た!」
アラタは全身を襲う激痛に耐えながら、声の限りに叫んだ。
――お前と出会わなければよかった。そうすれば、我は苦しまずに済んだ。人間との繋がりを求めた我の行いこそ、愚かだったのだ。
「違うっ!」
エヴォルの後悔に、アラタはカッと頭に血が上った。
「エヴォル、君は俺を助けてくれた! 死んでも惜しくないと思っていた命を、初めて価値あるものにしてくれたのは君だ! そんな君だったから、俺は君を助けたいと思い、ここまで来た! そんな俺の気持ちまで、否定しないでくれ! 出会わなければよかったなんて、悲しいことを言わないでくれ!」
アラタは腕を掲げ、その指先に炎を灯す。エヴォルから受け取った、神竜の炎が暗闇に沈もうとするエヴォルの心核の中で小さく輝いていた。
――やめろ、我はもはやお前の助けを必要とせぬ。頼むから、もう永眠らせてくれ。友のおらぬあの世界で、何千、何万年と生き続けるのは耐えられぬ。もう、楽にさせてくれ……。
アラタの炎を見るなり、エヴォルの「声」が叫んだ。
――すべてを終わらせる。我は我に関するすべてを消して、この束縛から自由を得る。
「……ふざけるなよ」
アラタはふらつく足を叱咤し、立ち上がる。指先に灯した炎の火力を上げ、闇に塗りつぶされた世界を睨みつけた。
「エヴォル……君は誰よりも賢く、気高い竜だった。ともに過ごした時間は短かったけれど、俺の知っているエヴォルは大切な友人を前にして、『死にたい』なんてことを軽々しく言うやつじゃない! 女神や同族だけでなく、人間にも心を砕ける君は誰よりも優しかった! そのくせ素直になれないところがあるせいで誤解されることも多く、俺とも口論が絶えなかった。それでも、君は決して力で自分の意思を押し通すようなことは絶対にしなかった! 己が間違っていた場合はそれを受け入れるだけの器の大きさも持っていた! 良くも悪くも、君は誇りをもって常に正しく在ろうとしていた!」
アラタは炎の中から竜を象った双剣を生み出す。その切っ先を、もっとも闇が深くわだかまる虚空へ向けた。
「姿を見せろ、エヴォルの心に巣食う『魔王』よ。俺の友人はお前に食われてやるほど、脆くもないし、弱くもない!」
アラタの言葉に、闇の中から人の姿が浮かび上がった。顔に穴の開いた人物は、晒した素肌を長大な布でくるみ、虚空に浮いている。その全身を覆う禍々しい気配には覚えがあった。
「アヴァリュラスの防壁に宿った、古の魔王の気……お前がエヴォルの心を歪めたんだな!」
「……」
顔に穴の開いた人物は答えない。代わりに、腕を振って虚空に鋭い槍を生み出した。アラタに向けて放たれたそれらを、双剣に炎を纏って叩き落す。
「エヴォルは渡さない」
アラタは炎を纏って、顔のない人物へ突っ込んで行った。
「必ず、俺が助け出す!」
アラタの咆哮が、纏う炎の威力を高める。グロナロスで死ぬ直前まで、エヴォルとともに並んで立っていた時のようだ。
その熱を両手に握る双剣に乗せ、アラタは古の魔王へ刃を振り下ろした。
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