File6-12「神竜の見る過去」
それは、とても小さな存在だった。
己が住まいとして鎮座している神殿に、「人間」と呼ばれる種族が一人、迷い込んできた。
煤汚れた襤褸切れを身に纏い、やせ細った手足で賢明に地を駆けている。人間は地面の出っ張りに足を引っかけ、盛大に転んだ。荒い呼吸を繰り返し、ふらつきながらも立ち上がろうとする。
無数の足音が、こちらに向かってくるのが聞こえる。目の前のやせ細った人間を追ってきたのだろう。
静かな空間を乱された不快感が拭えず、思わず牙を剥いた。
「誰だ、我が領域に足を踏み入れた存在は」
こちらの言葉に、人間が伏せていた顔を上げる。
それは吸い込まれそうなほど黒い、澄んだ瞳だった。
その強い眼差しは、エヴォルの巨体を前にしても決して怯みはしなかった。むしろ、挑むように睨みつけてくる。
その気概が、ひどく気に入った。そんな目を向けてきた連中など、このグロナロスではその人間だけだったからだ。
「くそ、どこへ行った!」
背後から聞こえた怒号に、人間が振り返った。焦りを滲ませた表情を前に、エヴォルは咄嗟に動いた。
「おい、こちらだ」
気づけば、前足を僅かに上げていた。己の腹の下を示すと、人間は戸惑ったようにこちらの顔と背後を見比べている。
「そのまま連れていかれたいなら、好きにするがいい」
そう声をかければ、人間は意を決したように己の腹の下へ滑り込んだ。エヴォルは前足を地に降ろし、人間を隠す。
神官と思しき連中が、こちらを見るなり恭しく頭を垂れた。
「我らが守護神、世界の宝、神の寵竜に――」
「我が領域に無断で踏み込むとはいい度胸だ。消し炭になりたいのか!」
咆哮とともに神官たちに怒鳴る。すると、すぐさま委縮した連中は大きく首を横に振って謝罪の言葉を述べた。
その様子に、どうしようもない不快感が湧き上がる。
エヴォルは己の中で生じた不快感をグッと飲み込んだ。
この世界では、竜こそ至高。
そして、その竜の頂点に立つ己の存在は、この世界を治める神と同義であった。
嫌悪していたこの立場が、初めて役に立ったものだ。
「去れ、これ以上我を不快にするな! 二度と無断でこの領域へ足を踏み入れることは許さぬ」
「ははっ!」
神官連中はどこか未練がましそうに一度こちらを振り返ったが、そのまま領域の外へと出ていった。
「……行ったぞ」
前足を僅かに上げると、爪の間から人間が顔を覗かせた。前足から這って出てくると、真っ直ぐこちらを見上げてくる。
「どうして……?」
人間が問いかけてくる。
「ほんの気まぐれだ」
エヴォルは楽な姿勢で寝そべると、そっけなく答えた。
「……なぜ、追われていた?」
それもまた、エヴォルの気まぐれな問いかけだった。
「あなたへの……暴言を吐いた、と言われて」
人間はなぜか、眦を下げて押し黙った。
「ほぅ……我への暴言とは聞き捨てならぬな。一体、何と言ったのだ?」
ニィッと口角を吊り上げ、エヴォルは人間に向けて頭を寄せる。
竜への暴言はこの世界では「死」を意味する。何より、目の前にその暴言を向けた相手がいるにもかかわらず、正直に話す目の前の人間の度胸に興味がわいた。
人間は震えていた。竜を前に、すぐさま失神しないだけマシである。それでも、不愉快ではあった。人間は震える声で言った。
「だって、おかしいだろ……一匹の竜にだけ、世界のすべてを決める権利があって。竜ばかりが我が物顔でこの世界を牛耳って。この世界に住んでいるのは、竜だけじゃない! それにも関わらず、『人間』ってだけでこんな扱いをされて……それを間違いだって言って、何が悪いんだよ! だから俺は、あんたが嫌いだっ!」
人間はキッとこちらを睨みつけた。その眼光の鋭さに面食らう。
目の前の人間は、エヴォルへの恐怖に震えていたのではなかった。この世の制度に対する怒りで、身を震わせていたのだ。
「頂点にいるあんたにはわかんないだろうけどさ! 飢えに苦しむこともなく、自由にこの世界を飛び回れるんだからっ!」
人間の訴えに、エヴォルもムッと顔を顰めた。
「それは違うぞ、人間」
竜には竜の苦労がある。エヴォルは人間相手にムキになった。
「竜とて自由はない。常に女神グロナロス様の意志が我らを縛り付ける」
人間のように飢えで死ぬことはなくとも、同族への監視や女神より課せられた制約が常に付き纏う。女神グロナロスにとって、竜もまた己が好き勝手に扱える『駒』でしかないのだ。それが何百、何千年と続くと思えば、エヴォルは短命である人間をひどく幸せ者だと思った。
エヴォルが言葉を発すると、人間は口をつぐんだ。表情は未だに不満そうであるが、一応こちらが何か話そうとするのを遮る無粋さはないらしい。
エヴォルは落ち着きを取り戻した。
「我は女神グロナロス様の命でのみ、世界に介入する。それ以外では、自由にこの神殿の外を出歩くことも叶わぬ身だ」
「……それじゃ、あんたはここから外へ出たことがないのか?」
「女神がそれを望まぬからな。女神の意に従うのが使徒の務めだ」
人間は再びムッと表情を険しくした。
「おかしいだろ、それっ! あんただって、嫌だとは思わないのかよ! それだけの力があるのに、堂々と世界へ出ていけないなんて、そんなの罪人と同じ扱いじゃないか!」
「……ククク、ハハハハハッ!」
人間の言葉に、エヴォルは堪らず笑い出した。
「な、なんだよ……」
たじろぐ人間に、エヴォルは目を向ける。
「先程、己が『嫌いだ』と言い放った竜に対して、その境遇に異を唱えるなど……呆れた奴だ。そこは普通、『それみたことか』と嘲笑するのが正しい反応ではないか?」
「俺はそんなクズにはならない……」
気分を害した様子で、人間は顔をそっぽへ向けた。
ますます面白い、とエヴォルは目を細める。ここまで正面切ってエヴォルに物申してきた人間は目の前の彼が初めてだった。
「名乗るのが遅くなったな。我が名はエヴォルだ。人間、名前は?」
「……俺の名前は――」
エヴォルは目の前の人間に顔を寄せる。
「どこにも行く当てがないのであれば、しばしこの神殿に留まることを許可しよう。貴様は話していて面白い」
エヴォルは魔法陣を生み出すと、全身を強張らせた人間に加護を刻んだ。
人間は己の全身を見回し、目を見開いている。傷は消え、押さえた腹部から空腹を訴える音も途絶える。
「案ずるな、我との感覚を共有する魔法を貴様にかけた。女神より賜った加護で、我が気を許した相手にのみ付与することができる。空腹ではロクに話もできんだろ?」
「それを……なんで俺に?」
戸惑っている人間に、エヴォルは言い聞かせるように諭した。
「何、一人は退屈であったからな。お前も行くところがないならちょうどよかろう。竜と話すだけで身の安全が保障されるのだ。まぁ、しばしの時を付き合え」
エヴォルは人間を見据えた。
「これで我は貴様がどこにいても、そして貴様もまた我がどこにいようとその居場所を感じ取ることができる。まぁ、人間の言葉に置き換えるなら我らは今この時より『友』となったのだ」
「と、も……」
二人の視線が交わる。
それが、エヴォルと友との出会いだった。
薄れる意識の中で、懐かしい過去を見た。
あの日から、それまで空虚でしかなかったエヴォルの記憶が色づいていった。
その記憶がどんどん遠のいていく。
全身を襲う激痛と、意識を蝕む『声』がうるさい。
薄目を開ければ、己を包む闇ばかりが広がる。その闇の中をじっと見つめる。
とうとう、我も終わりか……。
エヴォルは思わず自嘲を浮かべる。
今、懐かしい友の気配がした気がする……。
女神よりこの世界から追放されてしまった友が、再びこの地に立つことなどできないと知っていながら、エヴォルはあの真っ直ぐな黒い瞳を探し求めていた。
このまま永眠れば、お前のもとに辿りつけるだろうか……友よ――
エヴォルは諦めにも似た心地で瞼を下ろした。
神竜の目は固く閉ざされ、再び開かれることはなかった。
Copyright(C)Itsuka Kuresaki 2021