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第一、ここは魔界でも何でもない。
ここ、ヘクラカトラは僕らが住んでいる世界でいうところの『アイスランド』にある。ここでの名はフロージア・アイランドといって、一部の魔族と一部の人間が住んでいる。
僕がいるということは、つまり、ラスボスの住む島なわけだから、上陸困難且つ、生息している魔族の強さもトップクラス! のはずなんだけど、ここには整備された港があり、チケットがあって天候に恵まれてさえいれば案外容易に上陸は可能だし、下級から上級まで様々な魔族がごく普通の生活を営んでいる。人間達の村も、絶えず魔族からの襲撃を受けているなんてことは無い。ただ、先述した通り、人間達の方では僕らの持つクロナを常に狙っているため、むしろ僕らの方が脅威にさらされているのかもしれない。
ここ、フロージア・アイランドには『ギャオ』と呼ばれる大地の裂け目があり、その多くは雨水や雪解け水が溜まって湖のようになっているのだが、キャヴィックの中心部、つまり王宮の中にあるギャオは魔界と繋がっている。その魔界に住んでいるのは先代の王とその妻。要するに僕のここでの父母だ。ぬくぬくと隠居生活を送っている先代の王リヒトとその妻サイカが二人きりで住んでいて、ニュアンスとしてはほとんど地下室に近い。
そして祖父母や曾祖父母、それから他の親戚連中がどうしているのか、僕は知らない。ていうか、この世界の父母のことも僕はいまいちよくわからないし、実際に会ったことも無い。知っているのは、父であるリヒト王の身体が大きくなりすぎてこの世界が窮屈に感じられたために魔界へ引っ込んだらしい、ということだけ。その当時の勇者を倒し、引退を考え始めた頃から急に大きくなりだしたのだそうだ。定年を迎えたサラリーマンが抜け殻のようになってしまうのと逆の現象なのだろうか。妻である母の方はさすがにそういうことは無いらしいのだが、長年連れ添った夫婦なのだから一緒にいたいという何ともいじらしい理由で、彼女も魔界に引っ込んでしまったのだと聞いている。
まぁ、そんなことはいいとして。
「ねぇ、魔王様。ライオネルに言って、少しお休んだらいいんじゃない、です?」
「休みねぇ。ただでさえ僕はここにいるのが短いから、無理な気もするけど……」
「じゃあ、ライオネルも誘って、皆で行くのは?」
ケルベロスを食べ終えたコーナがまた肘をついて身を乗り出して来た。こらこら、食べてる最中に肘をつくものではないぞ。
「ライオネルも誘って、かぁ……。視察、ということなら、もしかしたら……」
コーヒーを一口飲み、顔をしかめる。コーナはそれをコーヒーの苦さのせいだと予測し、再度ケーキを僕に向けた。兄を失った愛らしい双頭のオルトロスがぽつんと一匹取り残されている。僕は笑顔でそれを辞退した。
視察かぁ。いいかもしれない。
「――視察ですか?」
休憩を終えた僕は、優秀なる近衛第一師団団長を伴って自室へ戻った。それを待ち構えていたかのように入室してきたライオネルに、早速先ほどの提案をぶつけてみる。
「そう。魔王として」
胸を張り、それらしく答えてみるが、恐らく僕の本心なんて透け透けだろう。
「承服致しかねます」
「言うと思った」
そう、ダメで元々なのだ。形だけでもしゅんと肩を落とす。しかし、僕のこの行為が次にどんな展開を生むかというと……。
「ライオネル! 貴様それでも魔王様の第一秘書かぁっ!」
案の定、僕の優秀なる近衛師団団長であるコーナの怒声が飛んだ。
「……このためにコーナを連れてきたのですね」
独り言のようにそう呟いてから、ライオネルはふぅ、と息を吐き出した。
「これでも第一秘書ですがね」
「魔王様がせっかく下々の暮らしぶりを見て回りたいと仰っているのだぞ! なぜ貴様ごときの許可を得なければならないのだ!」
コーナ、このテンションだと『仰る』って随分ナチュラルに使えるんじゃないか。
「私『ごとき』の許可が必要ないと言うのであれば、なぜ、わざわざお伺いを立てに来たんですかねぇ」
激昂しているコーナと比べ、ライオネルはどこまでも冷静にそう返す。この二人は正に『静』と『動』だ。
若くして(それは魔族の中では、という意味だけど)近衛師団の団長に任命されたコーナは魔王軍最強の戦士とも言われている。だからこそ、護衛という名目で僕にべったりとくっついているのだ。それに対して、ライオネルの方は、というと……。
――謎である。
僕は秘書としての彼しか知らない。どうやら先代の頃からずっと秘書を務めているらしいということと、とびきり優秀であるということしか知らされていないのである。猪のように鼻息荒いコーナがもし彼に攻撃を仕掛けたとして、それを彼が受けきることが出来なければ、僕らは多方面において多大なる損失を受けることになるだろう。いや、主に僕が、かな。
「まぁまぁコーナ落ち着いてよ。いいんだ、ダメ元で聞いてみただけだから」
コーナの7匹の尻尾蛇達まで口を大きく開け、威嚇している。僕は蛇達のご機嫌を取るべく、ひんやりとした白い肌をゆっくりと撫でた。
「しかし……ッ!」
コーナは紅玉のようなその瞳を大きく見開き、眉毛を逆八の字に吊り上げている。そんな恐ろしい形相の彼女と対峙している優秀な第一秘書は、そんなものどこ吹く風と涼しい顔だ。やはり何か仕掛ける気だったと見えて、彼女は固く握りしめた拳をライオネルに向けていた。
「コーナ。あなたは私よりも格下なのですよ。勝てない勝負を挑むつもりですか」
「ふんっ! やってみねばわからん!」
「やってみねばって……。あなたとは7,382回ほど手合わせしているはずですがね。もうお忘れですか?」
「うぅ……うるさぁいっ! 今日は勝ぁつ!」
ライオネルがコーナよりも格上ということに僕は驚くと共に、あぁ、これは絶対負ける流れだ、と思った。
多くのフラグというものがきっちりと回収されるように、やはり、コーナはライオネルに敗れ、医務室へと運ばれていった。
「全く」
汗一つかかず、また、表情も崩さずに、ライオネルはわずかに乱れたタイを直した。「感心しませんね」
「ごめん。それにしてもライオネルがあんなに強かったなんて」
「いざという時に魔王様をお護り出来なくてはなりませんからね。これくらいは秘書のたしなみですよ」
たしなみ? たしなみでこのレベルを要求されちゃうとなると、秘書課というのは一体どれほどの猛者が集まっているのだろう。だったら、秘書達だけで勇者討伐も事足りるんじゃないのか?
「そんなに外へ出たいのですか?」
「そりゃあね。『かごの中の鳥』なんてこれほど僕にぴったりの言葉もないと思うよ」
僕はデスクに肘をつき、ふぅ、と息を吐き出した。コーナほどではないが、『魔王様の落胆』はライオネルにもある程度有効だ。
「……もし」
案の定、態度を軟化させたライオネルは口を開いた。
「魔王様が長期間こちらの世界に来られるのでしたら」
「……長期間って、どれくらい?」僕は口を尖らせ、上目遣いで彼を見つめる。
「出来れば100日は」
「二週間ちょっとかぁ……」
母さんをどうやって説得しよう。
「……母さんをどうやって説得しよう」
「サイカ様を、ですか?」
心の声はつるりと喉を通過してしまっていた。ライオネルは不思議そうな顔で僕を覗き込み、彼の金色の鬣がふわりと揺れる。瞳の色は美しい琥珀色で、僕は、彼をとても美しい獣だと思った。
「違うよ、あっちの母親」
「ああ、成る程。もしよろしければ、私が参りましょうか」
「参るって、どこに」
「魔王様――いえ、紀生様の世界に、です」
「はぁ?」
「私にお任せください」
「いやいやいや!」




