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ライオネルとコーナは恐らく大慌てで僕を捜索してくれているだろう。
その一方で僕はというと、ヘクラカトラ最大の氷河、グリムス氷河に来ていた。アキュランで防寒具を揃えておいて本当に良かったと思う。ある程度この世界の気候には順応して来ていたのだが、この寒さは別格である。さすがにベースが人間の僕には厳しい。
「ねぇ、ヴァヴァさん。さっき息子さんの学費って言ってたけど」
僕はあれから一刻の暇もなく走り続けるアラクネの背中に向かって問いかける。アクレリまでは相当かかるし(もちろんそれまでに見つけてほしいんだけど)、少しでも友好関係を築いておきたかったのである。
「何だい」
彼女はくるりとこちらを向き、8つの目で僕をぎろりと睨む。
「大学生?」
「そうだ」
「どこの?」
「何でお前にそんなことを話さなければならないんだ」
「まぁ、そうなんだけどさ」
「……キャヴイックの国立大だ」
「すごい! エリートじゃん!」
僕の反応に、ヴァヴァという名のアラクネは幾分か気を良くしたようだった。キャヴィックの国立大といえば僕らの方でいうところの東大にあたる大学である。
「……まぁな。あの子はあたしに似ないで勉強が良く出来る子でね。大学で魔法医学を学んで、王宮の魔法医学者になるんだって、小さい頃からの夢だったんだ」
「すごいね」
「一度決めたら絶対に諦めない子なんだ。魔王様のお役に立つんだって、ねぇ。ここまで来たら親に出来るのは子が不自由なく学べる環境を作ることだけだからな」
「魔法医学科は卒業まで10年かかるから大変だね」
「詳しいな、お前」
「まぁね。でも国立だから、そんなに学費ってかからないんじゃないの?」
「馬鹿か、お前は。学費の他に教科書代、下宿代、それから小遣いだって必要だろうし、それに、来年からは実習が始まるから、それにも金がかかる」
「そうなんだ……」
「あたしは勉強が苦手だったからこんな仕事しか出来なかったけど、息子には危険な道を歩ませたくない。金であの子の将来が買えるんなら、安いもんさ」
「そう……だよね……」
こんな仕事というのは、つまり、森で人間を倒し、または勇者をアクレリへ送還することだろう。確かにこれは危険だ。何せ、人間達に倒される可能性がある。アラクネは大して力のある種族ではない。忍者を仕留めたハーピーだってそうだ。あれは彼が負傷していた上、僕を抱えていたから仕留めることが出来たのだろう。
悲しむ人がいるんだ。誰にだって。
もうこんな争いは止めにしないと。
「ヴァヴァさん、お願い! 僕、時間がないんだよ! お願いだからデティの森に戻って!」
「どうした、いきなり。何を言ってるんだ、お前は」
「ねぇ、お願い! 僕、戻らないと!」
巾着袋のようにぎゅっとすぼめられた口の部分に両手を突っ込み、力任せにこじ開ける。
「お~ね~が~い~っ!」
「何をする!」
ヴァヴァさんは手に持っていた糸を手繰り寄せ、僕との距離を縮める。こじ開けた口から脱出を図ろうとする僕の頭を押さえつけ、網の中に押し戻そうとした。
僕の力が完全となるまで、残るラグーンはあと5つもある。それでも、アラクネ程度の魔族など、僕の足元にも及ばない。しかし、頭を抑えられた状態で無理に飛び出せば、彼女が負傷してしまう。アラクネの細腕くらいならぽっきりと折れてしまうだろう。そんなことになれば、彼女は休職せざるを得ない。恐らく彼女が稼ぎ頭なのに。ヴァヴァさんが働けなくなったら、大学に通う息子さんはどうなる。
「ねぇ、お願いだから、放して! 怪我しちゃうから!」
「抜かせ!」
「お願いだよ。褒賞金は後で何とかするから! それにこんなとこ、あの2人に見つかったら……」
大変なことになるだろう。
何せ、『魔王様』がアラクネごとき下級魔族(たぶんコーナ辺りはこう表現するはずだ)に頭を押さえつけられているのである。ていうか、僕が魔王だと彼女に知られた時点で自害しちゃうかもしれない。魔族の魔王に対する忠誠心は並ではないのだ。
「あの2人、だと? 仲間がいるのか?」
「えーっと、まぁそうなんだけど、仲間っていうか、お付きの者……? とにかく、まずいんだよ!」
「ふん、好都合だ」
「あーっ、いま頭の中で、これで褒賞金が増えるとか考えてるでしょ! 違うんだって!」
「フハハハハハハ!」
「もぉ~っ!」
*
グリムス氷河に到着したライオネルとコーナはぐるりと辺りを見回した。真っ白い世界である。きりりと冷えた空気が頬に刺さる。
「ライオネル……」
「わかってます」
「ライオネル」
「わかってますって」
「ライオネル!」
「わかってますってば!」
2人の視線は地面に落ちている紀生の学生ボタンに注がれている。袖についている小さめの飾りボタンだ。裏には小さな発信機が取り付けられている。
「これがここにあるということは、少なくともここを通過したということです」
「それがわかったところで何だというのだ!」
コーナは語気を強め、ライオネルの襟首をつかんだ。彼はその手を難なく外し、やや乱れた襟元を直す。
「あのまま森を探すよりは無駄が無いかと思いますが。ここで問答していても始まりません。探しますよ」
「わかっている!」
そう吐き捨て、地面を強く踏み締めた。
確かに忍者を仕留めそこなったのはライオネルだが、さらにそれを取り逃がし、紀生を奪われたのは自分の失態である。だから、彼に当たるのは間違っていることくらい彼女だって理解している。
浮き足立っていた。王都から出るのは久し振りだったし、それに何たって四六時中魔王様と一緒にいられるのだ。訓練とは違うヒリヒリとした緊張感も心地よく、尾蛇達も数ヶ月振りの実戦で身の引き締まる思いだったろう。油断していたのだ。あまりに格下の相手だったから。それが自分の悪い癖だとライオネルからいつも指摘されていたのに。
「魔王様……」
彼女は下唇を噛んだ。尾蛇達も心配そうに彼女の顔を覗き込む。火傷を負った末摘花はライオネルの治癒魔法によって回復していた。
「アラクネが捕えているのなら、傷付けられる心配はありません。人間に捕まっているよりも余程安全です」
それもわかっている。しかし、彼女らの捕獲方法といえば、自身の糸で編んだ網を使う。あれで身体をぐるぐると巻き付けてみたり、包み込んだりするのだ。今回は捕食目的ではないので、恐らく、袋のようにして中に入れているものと思われる。どちらにせよ、魔族を統べる魔王に対する扱いではない。
お顔を知らなかったのだから、仕方がない。ライオネルはそうも言ったが、許せるものか! たかだかアラクネなど下級魔族ごときが魔王様をぞんざいに扱うとは!
それに何よりも――、
「アラクネは『女』ではないか! 許さん! 八つ裂きにしてくれる!」
コーナは嫉妬の炎に身を焦がしつつ、広大な氷河を駆け回った。




