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「どういうことだ……?」
なかなかセージが戻ってこないことにしびれを切らしていたキルヒャは、蛇女が勇者を抱えてこちらへ走って来るのを見た。予定では勇者を抱えているのはリュシュカのはずだったが、と思い、彼は草むらにその身を隠す。彼は予定外の事態にうまく対処出来ないのである。
しばらく様子を見ていると蛇女の尻尾に向けてリュシュカの『炎の矢』が着弾した。
――もらった! と彼は思った。何だか予定とは違うが、これでリュシュカは勇者様をお救い出来るだろう。傷を負った相手とやり合うのはいささか卑怯な気もしたが、致し方ない。さて行くか、と腰を浮かせたその時である。
蛇女はその腕に自身の尻尾をくるくると巻き付け、その先端から銀色の水を発射させた。それは生きた蛇のように大木を昇り、恐らくそこに潜んでいたであろうリュシュカのもとへと真っ直ぐに向かって行く。
大丈夫。大丈夫だ。リュシュカは女だてらに自分達をまとめ上げるほどの実力者で、町一番の魔法戦士なのだ。あんな妙な水ごときに負けるわけがないのだ。ほら、もうじき大木ごと焼き払うぞ。見てろ、見てろ……。
しかし、一向に彼女の得意とする炎の魔法は繰り出されず、大木はただただ小刻みに揺れ、葉を散らすばかりである。
彼は背中に嫌な汗をかきながら揺れる大木を凝視していた。ほら、いまだ。もうじきあの大木が炎に包まれるのだと、半ば祈りながら。
しかし、彼の祈りは届かず、ぴたりと揺れの収まった大木から、巨大な塊が降ってきたのだった。
「何だよ、あれ……。まさか……、違うよな……?」リュシュカじゃないよな? 違うよな?
信じたくない気持ちと、たしかめたい気持ちがない交ぜになり、彼は無防備にも身を乗り出した。
「さて――」
勇者と向かい合っていた蛇女がくるりとこちらを向いた。「もう1匹だったな」
「ひぃっ!」
爛爛と光る2つの大きな目は柘榴の実のように赤い。
キルヒャの身は竦み上がった。身体が硬直していくのを感じ、慌てて目を逸らす。しかし、完全に逸らすわけにもいかず、彼は彼女の足元に視線を移した。
魔物とは何度も対峙してきた。こないだは自分の倍はあろうかというトロルも仕留めた。死線など何度もくぐってきたのだという自負があった。――この時までは。
違う、違う。こんなもんじゃなかったんだ。この魔物に比べたら5メートル程度のトロルが何だというのだ。ヤバい。ヤバい。殺される。リュシュカ、セージ……!
*
コーナの視線の先にいたのは重厚なプレートアーマーを装備した戦士だった。
コーナが彼に向かって歩みを進めようとしたその時、目にも止まらぬ速さで彼女の前に黒装束の男が立ちはだかり、口から火炎を吐き出す。
「火遁!」
不意を突かれ、目を焼かれたコーナは忌々しそうに舌を打ち、不明瞭な視界の中、手探りでその人間を探す。しかし、彼女の手はむなしく空を切るばかりである。「ライオネルの野郎っ! 逃がしたなっ!」
「キルヒャ、逃げろ! お前の敵う相手じゃない! 煙遁!」
どこかから聞こえるその声と共に煙幕が上がる。視界は完全に遮断され、数センチ先も見えない。コーナはどこだ? それに、ライオネルは無事なんだろうか。
ぐい、と袖が捕まれる。コーナか? 僕はホッと安堵の息を漏らした。
「御無事ですか、勇者様……」
「――は?」
耳元で聞こえたのはコーナに火炎を吹きかけた男の声だった。「いま安全なところへお連れ致します」
「えっ、いや、ちょっと……?」
彼は煙から守るように薄い布で僕を包み、軽々と担いで飛び上がった。今日は何でこうも抱きかかえられる機会が多いのだろう。僕がうら若き女性だったら、間違いなく恋に落ちているシチュエーションだ。
「いやいやいやいや! 下ろしてよ! ねぇ!」
僕は手足をばたつかせ、彼から逃れようとした。何とか自由になった右手で、ぷはぁ、と顔を覆っていた布をはぎ取る。僕を抱えているのは声の感じからして恐らく若い男だろう。彼は顔に黒い布を巻き付けており、目元しか露出していない。いかにも忍者という出で立ちの彼は音も立てずにひょいひょいと枝を渡っていくが、見ると全身に酷い怪我を負っていた。
「あ、あの……怪我……」
「あぁ、獅子の魔物にやられました。寸前で逃げ切るはずだったのですが、少々かすってしまいまして」
絶対かすった程度の傷じゃない。いや、仮に本当にかすった程度だとしたら……、あな恐ろしや、雷の雨である。
「勇者様、リュシュカは、ざ、残念っ、でしたが、まだ自分や戦士が残って……います。戦士はキルヒャと言いまして、これがまぁ、なかなか見どころがあるやつなんですよ」
彼は時折声を詰まらせながらも努めて明るく言った。さっきの人間はリュシュカというのか。名前を聞いてしまうと途端に罪悪感が込み上げてくる。
彼らにだって家族や仲間がいるのだ。僕らと同じに。
僕が険しい顔で俯いたのを見て、彼は少し焦ったようだった。
「ま、まぁ、見どころはあるんですが、これがどうにもおっちょこちょいと言いますか……ハハ……。そ、そぉーだっ、こないだなんか、酷かったんですよ! あのですね……」
そう言うと、軽い衝撃と共にぐらりと彼の身体は傾いだ。
「ちょっ、ちょっと?」
バランスを崩した彼の身体は数10メートルはあろうかという枝の上からずるりと滑り落ちる。がくりと垂れた頸椎には刃が深々と突き刺さっていた。
「ヒョホホホホホホ! 20万ゲットぉっ!」
頭上から甲高い女性の声が聞こえる。ハーピーという鳥人だ。
さて、僕は現在絶賛落下中なわけですけれども、この場合、助かった、と思うべきなのでしょうか。
バサッと僕らの身体は大きな網の上に落下し、地面との直撃を免れた。先ほどのハーピーが準備してくれたのだろうか。ナイス。
「とりあえず、助かった……。彼は気の毒だったけど……」
僕はぴくりとも動かない彼の身体に軽く振れた。黒一色のように見えていたその装束はところどころが切り裂かれ、むき出しになった肌にはすっかり乾いた彼自身の血がこびりついていた。それは砂埃と混ざり合って本来の色を失っている。
「それにしても何で僕を勇者と勘違いしたんだろ」
僕は網の隙間から地面を見た。これくらいの高さなら僕でも飛び降りられるだろう。そう思って少し粘つくその網の上を移動する。
「逃がさないわよ」
「――はぁ?」
その声で振り返ってみると、僕の遥か背後にいたのはアラクネという蜘蛛女である。成る程、この網は彼女が作ったものだったか。ていうか――……、
「あのさ、僕が誰だかわかってる? 僕は……」
そこまで言って、もしかしてこの森の魔族達の中にも僕が魔王だって知らないやつらがいるんじゃないかと思った。そうかそうか、こういう時に使うんだな、アレは。僕は胸ポケットに入れていた懐中時計を取り出し……、取り……、あれ?
「無い! 懐中時計っ!」
落としたんだ! 一体いつ? この忍者に攫われた時? それとも、木の上から落ちた時? いや、でもこの下には無いし……! もしかしたらもっと前かも!
『ドキッ! 真冬の大視察ツアー ~ポロリもあるよ~』
ポロリもあるよ……、ポロリも……、ポロリ……、ポロリ……?
ポロリってこれかよ! 畜生! あったよ、確かに!
「恩に着る、デンバー。これで息子の学費が払える」
「いいってことよ、ヴァヴァ。私も20万だもの。独り占めなんてしたら悪いわ」
どうやらこの2匹は顔見知りらしい。僕は何だか呆然として彼女らの会話を聞いていた。
どこの世界でも子どもの学費を捻出するのに親達は必死なのだ。僕は褒賞金制度を作って本当に良かったと思ったし、こんなに早く森中に広めてくれたリウナス隊長の仕事ぶりも大変好ましく思った。ただ、気になるのは、その『息子の学費』に充てられるのが恐らく、というか絶対、僕を殺した褒賞金のことだろうという点である。何度も言うように、僕の身体は魔族には傷を付けることが出来ない。だから、いくら頑張っても、20万クロナは彼女の懐には入らないのだ。
懐中時計が無い状態でどう説明したものかと、いやそれ以前に何なら逃げられないものかと思案していると、身体がふわりと浮いた。ヴァヴァという名のアラクネが網の四隅を束ねて、ぐい、と持ち上げたのである。
「――えぇぇぇっ?」
彼女は隙間から忍者の死体を取り出し、ハーピーに向かって放り投げると、袋状になった網を肩に担ぎ、2本の脚で口をしっかりと持って、残る6本の脚で走り出した。
「ちょっ、ちょっとぉ? どこに連れてくのぉ?」
「決まってるだろ。アクレリだよ!」
蜘蛛とは思えぬ速さで、彼女は森の中を疾走していく。アクレリって……。えぇっ? 30万の方でしたか! いやいやいやいや!
「待ってよ! 僕勇者なんかじゃないよ! 魔王! 魔王なんだってば!」
「貴様ごときが魔王様の名を騙るな! 汚らわしい!」
「いや、汚らわしいのはどっちかって言うと……そっち……?」
「何ぃっ?」
「……何でもないです」
こうなったらこの森を抜ける前にコーナかライオネルに見つけ出してもらうしかない。あの2人なら懐中時計無しでも僕が魔王だとわかってくれるだろう。いや、わかってくれなきゃ困る。
「……だから言ったんだ」
僕は激しく上下左右に揺れる網の中で、怒りの収めどころがわからず、結局回収されてしまったフラグを立てたライオネルを憎々しく思った。




