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僕がこの世界に初めて来た時、最初に出会ったのは戦闘形態のゴンザーズ(後のライオネル)だった。その時の彼は実に獣然としていて――つまり、四つん這いで、身体中から金色の光を発していた。鼻息も荒く、思わず身が竦んでしまいそうな(ぶっちゃけ竦んだんだけど)恐ろしい唸り声を上げながら僕を睨みつける。どうしてこんな世界に来てしまったのだと、僕は到着3秒で後悔した。
「魔王様、お初にお目にかかります」
どうせ無駄だろうと思いつつも、その場にしゃがみ込んで頭部を守るように丸くなっていた僕に浴びせられたのは、よもや目の前の恐ろしい獣から発せられたものとは到底思えない落ち着いた男性の声だった。恐る恐る声の方を見てみると、やはり目の前にいるのはぶしゅるぶしゅると鼻から煙のような白い息を吐いている大きな獣のみである。
「もしかして、この姿はお気に召しませんか」
その獣はそう言うと、僕がかすかに頷いたのを見て、一度大きく首を振った。彼を包んでいた光は消え、その名残のような金色の鬣だけが残る。僕はその時初めて、その獣が獅子であったことに気付いた。
次に彼はゆっくりと立ちあがり、今度は軽くふるふると首を振った。目の前で起こっていることが信じられず、僕は何度かゆっくりと瞬きをした。すると、僕の瞼が開閉する度に獅子の身体は人間のそれに変わっていく。とはいえ、全身を覆っている毛皮はそのままだったのだが。やがて、何度目かの瞬きで彼は黒の執事服に身を包んだ獅子頭の紳士になっていた。
ゴンザーズと名乗った彼は、情けなくもまだ立ち上がれないでいた僕を笑うことも無く跪き、目線の高さを同じにすると、優しい声で「参りましょう」と言ったのだった。
王宮に向かう道すがら、あの姿でいたのは、まぁ、魔族流の礼儀だったらしいことを聞いた。要は、目上も目上の魔王様と会うのに、弛緩した姿でいられるかってことらしい。
正直言ってそんな礼儀はいらないし、僕みたいに初めて魔族を見る人にとっては逆効果だよ、と教えると、彼は膝をついて深々と頭を下げた。
そんなファースト・コンタクトであった。よくもまぁあの時点で逃げ出さなかったと、自分を誉めてやりたい。ただ単に腰が抜けてて逃げられなかったという説もあるんだけど。
ほんの少し落ち着きを取り戻したコーナと別れ、僕はライオネルと共に王宮内にあるラグーンへと向かった。
フロージア・アイランドはアイスランド同様に火山の島である。
そのマグマが地下深くに流れ込む雪解け水を温め、程よい温度の温泉を作りだす。そうして作りだされた温泉はラグーンと呼ばれており、それに浸かれるのは魔族を統べる王のみであった。下々の者達がラグーンに浸かれば、その身体はたちまちに溶けてしまうのだという、何とも恐ろしい温泉(ちなみに、彼らが入れるような人工のラグーンもきちんとある)なのである。
柵をめぐらせ、注意を促す札を立てても、興味本位でラグーンの中に入ろうとする輩が後を絶たない。
毎月、最低でも2、3件はラグーンでの死亡事故が起こる。それも、うっかり足を滑らせて、といった本当の事故はほとんど無く、手作りの粗末な舟でラグーンを渡ろうとしたり、ジャンプで飛び越えようとしてみたり、上空から落下して如何にぎりぎりまで羽を閉じていられるかといったチキンレース的なことが原因らしい。そんな馬鹿げたことをするのはやはり向こう見ずな若者達で、どこの世界も似たり寄ったりだな、と僕は思った。わざわざそんな危険なことをしなくても、スリルが味わいたいんだったら前線に送り込んであげるのに。
まぁとにかく若者というのは無茶なことをしたがるものなのだとライオネルは言った。いや、無茶っていうか、身体張りすぎでしょ君達。ほんと馬鹿かと。
「はぁ……」
ラグーンは常に40℃に保たれている。僕にはちょうど良い温度だ。
25メートルのプールよりももっと広いそのラグーンの隅っこで、ごつごつとした岩肌を背もたれにし、僕はゆっくりと伸びをした。
リヒト王がまだヘクラカトラにいた頃、つまり、身体がいまよりも小さかった頃でも、このラグーンは彼にはかなり狭かったらしい。一体、父のサイズはどれくらいだったのだろうか。そして、この世界が狭く感じられ、魔界に居を移さざるを得なくなるほどの大きさとは果たしてどれほどなのか。僕は未だに自分の父に会ったことが無いのだ。
僕がこの世界に来た時、想定よりもかなり小さかったということで、急遽、各地のラグーンの底上げ工事が行われたものである。あのままだったら、僕はいまごろ海のど真ん中で漂流しているような気分を味わいながら必死に浮き輪をつかんでいただろう。とてもじゃないがこのようにのんびりゆったり出来る環境ではない。
「魔王様、いかがですか」
「いかがですかってのは、湯加減のこと? それならいつもと同じだよ」
「いえ、湯加減ではなく、お力の方です」
「あぁ、そっちか。どうだろう。疲れが取れる感じはあるけど、何かすごい力が湧いてくる感じはしないかな」
「さようでございますか」
「ねぇ、ライオネル」
「何でしょう」
僕は首だけを捻って、右斜め後ろに跪いているライオネルを見た。湿気で自慢の鬣がしおれている。
「僕の力が完全になったら、見た目も変わるのかなぁ。角が生えたりとかさぁ」
「どうでしょう。人間の魔王様というのは前例が無いものですから」
「父さんの時はどうだった?」
見たこともない、この世界での父。それでもどうやら血は繋がっているのだそうだ。
「リヒト様は……、まず、翼が大きくなり、目が5つになりました。それから、腕と尻尾の数が増えましたが、その腕は――」
「……もういいや」
僕もそうなるのだろうか。いまのところ、何の変化も無いんだけど。
僕はいつ身体が変化するのだろうとびくびくしながら業務の合間にラグーンに浸かった。さすがに何かしらの力は得ていると思うのだが、それを確かめる術が無い。ライオネルは手合わせをしてくれるのだが、明らかに手加減をしてくれているようだし、コーナでは隙あらば抱き付いてくるので埒が明かないのだ。まさか人間相手にこの僕が攻撃を仕掛けるわけにもいかない。
ということは、対勇者戦で初めて僕は自分の力を知ることになる。そんなんで本当に大丈夫なんだろうか。
一抹どころじゃない不安を抱えたまま、出発の日はやって来た。
旅の名目はあくまでも視察だ。最終日には勇者討伐という『予定』が組み込まれているものの、予定は未定である。ライオネルが時期尚早と判断したら、延期となる。その場合は冬休みにでもリベンジだ。
僕のいまの体力では重い防具などはかえって邪魔になるだろうとの判断で、僕は一番着慣れた服――学ランで行くことにした。さすがにそれだけでは、と、防寒用の天鵞絨のフード付きマントを羽織る。僕らの世界は真夏でも、このフロージア・アイランドは年中冬なのである。学生の象徴ともいえる学ランと、王の威厳たっぷりのマントの組み合わせは、なかなかにちぐはぐで、それが何だか良かった。
「魔王様、これを」
そう言ってライオネルが手渡して来たのは金の懐中時計である。
「時計ならいらないよ。僕、スマホあるし」
「いえ、重要なのは時計の方ではありません」
ライオネルは僕の手の中にある懐中時計をくるりとひっくり返した。裏には立派な角を持った闘牛のような獣と花が彫られている。実に精緻な彫りだ。
「何これ。牛?」
「ミノタウロスです。そしてこちらの花はドリアス。これは王家の紋章です」
「へぇ。これが」
僕は懐中時計を顔の前に持ち上げ、まじまじと見つめた。「でもどうしてこれを持ち歩くの?」
「魔王様のお顔が知られているのは王都キャヴィック周辺です。地方の者達は魔王様が人間であることを存じ上げません」
「成る程」
即位式は大々的に執り行ったのだがパレードに参加したのはキャヴィックとその周辺の町村民くらいだろう。郡部に住む者達がキャヴィックまで足を運ぶというのは翼を持つ者や、巨人族でもない限り、屈強な魔族の若者でもかなり困難なのである。加えてこの世界は携帯電話はある癖にテレビなどという便利な道具は存在しない。よって、地方に行けば行くほど僕の魔王としての威厳は失われていくのだった。
「つまりこれは印籠ってことね」
「インロー、ですか?」
「これを見せれば僕が魔王だって証明されるってことでしょ。でもさ、本当に大丈夫なの? 浸透してるの? これが王家の紋章だって」
「それは大丈夫です。この国に住む者で王家の紋章を知らない者はおりません」
「ならいいけど……」
僕は学ランの胸ポケットに紋章入り懐中時計を入れた。チェーンの先はボタンの穴に掛けるためのピンがついていたのだが、その時の僕はそれの付け方がわからず、どこにも留めないままだった。
当然それが後に厄介なことを引き起こすのだが、その時の僕にはもちろん知るよしも無い。
「魔王様ぁ、準備、よろしくて?」
いつもの軍服ではなく、軍から至急される特殊合金の胸当てに真っ白い獣の毛皮で作られた腰巻きを身に付けているコーナがカツカツと軍靴を鳴らして駆け寄って来る。一向に上達しない敬語は一体誰に習っているのだろうと疑問に思っていたが、もしかしたら独学かもしれない。「よろしくて?」というフレーズから僕はそう推察した。
かくして人間の魔王、獅子頭の秘書、セクシー近衛師団団長の凹凸凸三名による『ドキッ! 真冬の大視察ツアー ~ポロリもあるよ~』がスタートしたのであった。




