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クラスの四割はどこかの世界を救いに行ってます。   作者: 宇部 松清
第2章 金獅子、強敵に邂逅す
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 きっかけは父の不在だった。

 近所でもおしどり夫婦と呼ばれるほど仲の良い(実際のおしどりはそうでもないらしいが)夫婦である父と母は、離れてからも毎日夕食後に2時間以上の長電話を日課とするほどであった。

 しかし、愛する旦那様に会えないという寂しさは、声だけでは埋まるものではなかったらしい。母は日に日に弱っていった。だったらついて行けば良かったのに、と思ったが、僕は恥ずかしながら1人では食事の用意はおろか、洗濯機の扱い方さえもわからないといった始末で、つまりは僕のせいで母は家に残るはめになったわけである。


 そんな母にお隣の高村さんが一本のDVDを手渡して来た。

 彼女は単なるお節介というか(高村さんごめんなさい)、仲間を増やしたかっただけというか、まぁそんな動機だったのだと思う。それが宝咲歌劇団の『ロミオとジュリエット』だったのだ。

 駆け落ち同然で父と一緒になった母は(それは僕も初耳でした)、そのミュージカルを自分の過去と重ね合わせまくり、そして、どっぷりとはまった。さらに悪いことに、その時のロミオ役である京極芙蓉さんという方が若かりし頃の父にそっくりなのだという。


 本当か? と僕は現在の父の姿を思い出す。最近少し丸くなってはきたが、授業参観の度に『お父さん恰好いいね』と女子から耳打ちされる程度にはイケメンだと思う。思うけど、果たして、そうかなぁ? 僕は目をハートにさせた母親から手渡されたDVDを見ながら思った。どぎついメイクをした男装の麗人と父とをどうにか重ね合わせようとしたが、僕の乏しい想像力では無理だった。


 それはともかく、この宝咲歌劇団のおかげである意味、心の均衡を保てるようになった母は思い出したように息子である僕に構い始めた。心が満たされたことで活力を取り戻し、これまで以上に気合いの入った料理を作り、家中をぴかぴかに磨き上げた。そして家事が一段落つくとTVの前に正座をして宝咲歌劇団のDVDを鑑賞する。それで愛する妻が元気になるのなら、と父が宝咲歌劇団のDVDBOXを購入したのである。浮気みたいなもんじゃないのか、と僕は思ったが、所詮相手は女性だ。

 ここまでどっぷりはまったとなると、父への愛は薄まってしまうのではないかと僕は危惧したが、甘いものは別腹とスイーツをむさぼる女性のように、芙蓉様は芙蓉様、父は父なのだった。この場合どちらがスイーツに該当するのだろうか。


 かくして母は、宝咲歌劇団のような(?)清く、正しく、美しい男女交際というものを僕に求めるようになってしまったのだった。

 だいたい僕みたいなのが可愛い彼女を(金の力以外で)連れて来られるわけもないのだから、期待されても困るだけなのだが、悪いことに今回はイオーネがいる。


(魔族だけど)清く、

(魔族だけど)正しく、

 そして(魔族だけど)美しいイオーネが。


 いや、この場合、『清く、正しく、美しく』というのは人物を修飾する言葉ではないと思うのだが、そんなものはそれを体現してしまうような存在の前では些末なことである。

 家に着いた僕らは、母に勧められるがままにリビングのソファに腰掛けた。さすがのイオーネも母の挙動には驚いたと見えて、宝石のように美しい大きな瞳をさらに大きく見開いて僕を凝視している。


「びっくりしたでしょ」

「ええ、少し。商魂たくましいゴブリンの叩き売りよりもパワフルなお方ですね」

「それって絶対褒めてないよね。罵倒かな?」

「まさか」

「どうする? これでもあの通りプレゼンする?」

「そうですね……」


 顎に拳を当て、イオーネはしばし考え込んだ。そこへ、エコバッグの中の整理を済ませた母がトレイの上にマグカップと客用のカップを乗せてやって来る。タイムアウトである。


「いえ、あのままいきましょう」

「……そうだね、『ダメ元』だしね」


 僕は、目の前に置かれたマグカップに視線を落とす。中身は紅茶だろう。色的にほうじ茶の可能性もあるけど、鼻孔をくすぐる芳しい香りは紅茶のそれである。芙蓉様が紅茶派なのだと言って、母もその日から紅茶派になったのだった。


「いただきます」


 そう言って、イオーネはカップをソーサーごと胸の辺りまで持ち上げてから、ゆっくりと紅茶を飲んだ。ほぅ、と息を吐き、軽く首を傾げて食器をまじまじと見つめる。確かこれはナントカというスウェーデンの陶磁器メーカーのもので、母のお気に入りだ。白地にコバルトブルーの花が咲いている。このデザインは僕も嫌いじゃない。


「美しい食器ですね。ロイヤル・スカンディナヴィアですか」

「あらぁ、やっぱりおわかりになるのねぇ」


 イオーネがにこりと微笑むと、母は胸の辺りで手を合わせ、恍惚の表情を浮かべた。少女のような女性である。僕はたまに彼女が37歳のおばさんなのだという事実を忘れそうになる。

 そして、なぜイオーネが僕らの世界の陶磁器メーカーまで知っているのかと驚いた。どうせ彼女のことだから、ここへ来る前にありとあらゆることを頭に叩きこんできたのだろうが、まさかこんなことまで学習してくるとは恐れ入る。さすがは有能な秘書。


 リビングには穏やかな空気が充満している。父と過ごしている時のような幸せそうな顔の母を見て、僕は、いつ例の話を切り出したものかと迷った。いまか? いまがベストタイミングなんだろうか。


「母さん、あのさ……」


 おずおずと僕がそう切り出すと、母は胸の辺りで両手をパンと合わせた。


「ああ、そうだったわ。芙蓉様、ちょっとごめんなさいねぇ」


 すっかり『芙蓉様』で定着してしまったイオーネはそれに異を唱えることもなく、かしこまりました、と頭を下げる。

 母はスカートのポケットから、小さく折り畳まれた紙を取り出し、それを広げながら僕の前に置いた。



「――で、のんちゃんは、一体何を願ったの?」


 目の前の用紙を確認する前に差し込まれたその発言に驚いて僕は顔を上げた。「えっ?」


 時が止まったようなこの空間の中で、規則正しく聞こえてくる時計の音がきちんと時間が流れていることを主張している。


「紀生様、これを」


 イオーネの言葉で我に返る。彼女は先ほどまでテーブルの上にあった用紙を僕に手渡して来た。

 1年前の日付と共に、保護者各位、と左上に書かれたその用紙には、それよりも少し大きめのフォントで『1年3組の生徒について』という見出しと、現在、僕らの身に起こっている様々な事象についての概要が述べられていた。


「母さん、これ……」

「去年の保護者会の後でねぇ、ウチのクラスだけ特別にって小会議室に呼ばれたのよねぇ。皆半信半疑だったんだけどぉ、賀川くんだっけ、あの、真面目な子」

「ああ、賀川ね。賀川がどうしたの?」

「高階先生と一緒に入ってきたのよねぇ。肩に小さい女の子を乗せて」

「あ……っ! ペレ……!」

「そうそう、確か、そんな名前だったわねぇ。賀川くんがその子を見せながら一生懸命言うのよ、クラスの全員が何かしらの『秘密』を抱えてますって。中には親御さんの理解が必要なものもあるはずですって」

「あいつ、そんなこと……」


 やるじゃん、賀川。

 こういうのは普段の行いがものを言う。これがチャラ男の草皆くさかいだったら、いくら彼のアンドロイド・リカを連れて来たところで、どうせ人間でしょなどと軽くあしらわれて終いである。

 まぁ、人間と見紛うほどの精巧なアンドロイドと誤魔化しの利かない小人とじゃ草皆の方が分が悪いのは確実なんだけど。


 それにしても、高階先生も意外と思い切ったことするなぁ。てっきり僕らが卒業するまで黙ってるんだと思ったけど。来年定年だし。


 僕は彼のかなり薄くなった頭髪を思い出し、どうか僕らのせいでそれの進行が早まったりしませんように、と祈った。


「だからね、のんちゃんもいつかその『秘密』を打ち明けてくれるはずってずぅーっと待ってたのよぉ? そしたら、ほらぁ、こんなに素敵な子を連れて来たから」


 成る程。母さんはイオーネに対して、僕が自力でゲットした『彼女』という望み薄の可能性よりも、賀川のペレや草皆のリカのように何かしらの『願望』によって生み出したものだと思っていたのか。正しい。息子のこと、よく理解していらっしゃる。


 これなら何とかわかってもらえそうかな。

 僕は安堵の息を漏らし、イオーネを見た。


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