美しく純粋な怪物の誕生
――美しい。
「好きです。結婚してください」
「……なに?」
「結婚してください」
純真な眼で、虚空を見つめる少年。彼の言葉が誰に向かって放たれたものなのか分かる人間はいない。
あくまで、人間は。
「あなたのことが好きです」
「ちょっと、意味わかんない」
業務連絡を伝え損ねた彼女は、少年のパワーワードに圧倒されていた。彼女が仕事を始めて、もう150年。今までに、こんなことをいう人はいなかった。
「とりあえず、人が少ないところいこうか」
「分かりました」
意外と従順な少年を連れて、寂れた裏通りに歩く。響く足音は一人分。彼は何を考えているのか、爽やかな笑顔だ。
「なにから話そうか」
「返事をいただきたいんですけど……」
「それはちょっと置いとこう」
ペースに乗せられたくない一心で、彼女は話し始めた。
「まずね、私はあなたの担当になった死神」
「僕の、担当ですか?」
気にしてもらいたいワードはそこではなかったが、会話の糸口が見えたことに満足して続けた。
「まずあなたは、1週間後に死にます」
その言葉は、幾人もの人を絶望に叩き落としてきた。何度告げても、まだ慣れないフレーズ。それでも、彼女はそれを語り続けなければいけない。
「それまで、私が見守って。時が来れば然るべき手段であなたを殺します」
ぽかんと口を開けている少年。意味が分からないのか、それとも理解を拒んでいるのか。
「それはつまり、僕はあなたに殺されるんですか」
「簡単に言えばね」
「へぇ……」
イマイチ薄いリアクションに、眉をひそめる死神。理解できていないのかとも思う。
「これから1週間、好きに過ごして貰えばいいんだけど……万一他の人に危害を加えようとした場合は、繰り上げて執行するから」
それが、彼女の本来の仕事。運悪く早死にする人々を、正しく送り届けること。
自暴自棄になった人は、時に自分自身も理解できないような行動を取る。それが何よりも、恐るべきこと。
「じゃあ、そういうことだから。心して生きてください」
なにも言わない少年を残して、彼女は姿を消した。少しばかり面倒な仕事になるかもしれないが、仕方ないことだと割り切るだけの胆力は持ち合わせていた。
一人、いや、最初から一人だった少年は、ぽつんと立ち尽くしていた。
この少年は、決して幸福な人間ではなかった。しかし格別に不幸でもなかった。それは単に境遇の問題ではなく、彼の性格に由来するものだ。
彼は、無感動な男だった。親しい友人は数えるほどしかいなかったが、特に気にすることもなかった。進んで人と関わろうともしなかったし、周りもそれほど近づいても来なかった。彼にとってそれは極めて自然なことであった。
両親は共働きで、話したり、食事を共にすることも少なかったが、不仲というわけではなかった。裕福でない暮らしの中で、彼のために資産を使うことを躊躇することはなかった。
――お父さんやお母さんに、なんて言おうか。
彼は、そう考えようとしていた。というのも、彼の頭の中はどちらかと言えば彼女の美しさで満たされてしまっていたからだ。
何が美しいかなど、考えたこともなかった。花畑も、山からの景色も、周囲の女性も、美しく見えたことなどなかった。
そういう意味では、彼は不幸だったかもしれない。
結局、両親に伝える方法も内容も決まらず、ぶらりぶらりと街中を歩くしかなかった。何かを考えようとしても、彼女の顔がそれを邪魔する。彼には、この感情を制御するだけの経験はなかった。
――どうしたら、もう一度あの人に会えるのだろう。
彼はまだ、自分が1週間後に死ぬことがどこか他人事のように思えていた。体力に自信があるわけではなかったが、健康に不安もなかった。事故だろうか、それとも何か事件に巻き込まれるのだろうか。考えたところで分かるはずもなかった。
それよりも、なによりも、彼女に会いたい。
その一心で、少年は考え続けた。
「何を考えているんですか」
「予想通りだね。やった」
彼の頭にあったのは、思いつく限りの悪行。
「私を呼び出すためにですか」
「うん。会いたかったから」
率直に好意をぶつけてくる少年が、彼女には理解できなかった。確かに人の面影はあるものの、現代人の好みが理解できていなかったし、人に愛されることなど忘れてしまっていた。もう、150年も。
「やめてください。私はできることなら天寿を全うして欲しいんです」
「こうでもしないと、会えないと思って」
死神には、人の心は手に取るように読める。なのに、この時彼女は漠然とした不安に包まれていた。少年の純粋な愛と、それに伴う狂気が十分以上に伝わってくる。
――この少年は、本気だ。
彼女に会うためなら、本当に罪を犯しかねない。
一種、怪物なのかもしれない。この若さで死ぬことを運命付けられる程度には。そのことは、彼女にしか感じられなかったとしても。
「それで、私に会うためにあなたは死ぬの?」
「それしか手段がないのなら」
なんでもない事のように言う少年は、人を捨てて長い彼女にも恐ろしく思えた。彼には、他に望みも大切な物も何もないのだ。他人と同じような暮らしをしているのに、本当に欲しいものなど一つだって見つけていないのだ。
「変わった子ね」
「嫌いですか」
――嫌いになれれば、いいのに。
彼女は想った。彼を恐れ、嫌い、断罪できるのならば何も問題はなかった。だが彼女に残っている心は、確かに喜んでいた。
150年の時の中、彼女は常に恐れられ、嫌われていた。報いだと言うことは分かっている。苦しいと言える相手もいないまま、ひたすら耐えてきた。
――私を愛してくれる人が、いる。
それは、失いかけていた冷え切った心を動かしてしまった。彼女は、殺したくない、と思う自分が存在することを認めていた。どれだけ罪深いことだろうと、彼だけは殺したくない。そう思う自分を、確かに認めていた。
「死神ってのはね、ちゃんと死ななかった人間なの」
「それは、あなたもですか」
「もちろん。私はちゃんと死ななかった。だから、このままいけばあなたも、こうなる」
それは、願望だろうか、それとも絶望?
彼女には、もう分からなかった。
「私は、あなたの望みを叶えたい。だけど、それは間違ってるの」
「間違っていたら、いけないんですか」
彼の瞳は、最早人のものではない。
「僕は初めて見つけたんです。この世に僕と言う存在があることの意味を。これを失うなら、僕は最初から必要ない」
まっすぐ、ひたすらにまっすぐな想いをぶつける少年は、一見すれば美しい恋に溺れる若者だった。
「あなたが見えないなら、目は必要ない。あなたの声が聞こえないなら、耳は必要ない。あなたがいないなら、世界は必要ない」
それは、果たして愛だろうか。巨大な自己陶酔の塊だったのだろうか。しかし、暗い海の底に沈んだ彼女には、それすらも輝く太陽の欠片に見えてしまった。
「罪だろうと、呪いだろうと構いやしない。私はあなたを止められない。それは私の望みじゃない」
「限界まで、あなたを見ていたい。僕にとってはそれだけが世界だ」
一致してしまった、悲しい意志。その結末は、二人ともはっきりと分かっていた。
真夏の広い都会、焼けただれたアスファルトの上、怪物は希望という牙を剥く。そして恐怖は連鎖していく。