黄昏に目立つ少年
まだ肌寒さの残る季節だったように思う。
その日の夕焼けは、本当に美しかった。
当時、俺は幼稚園児。
台所仕事をしている母が、窓の外を見ながらあまりの美しさにため息をついていた。
言われて空を見た俺も、なんと美しいのだろう、と、そう思った。
消え残る太陽の周りには濃く鮮やかな黄色みがあり、薄くたなびく雲が周囲をピンク色に染め上げている。そこから次第に紅へと変わった空は、更に深い橙色から紫、群青色へと変わり、その向こうを振り向くと、そこにはもう夜の闇が迫っていた。
その見事な色合いは、今も心に焼き付いて離れない。
これ以上の夕焼けは、もう二度と無いのではないか、そう思わせるような空だった。
夕焼けには、人の心を狂わす何かがあるのかも知れない。
俺は、思ったのだ。
この色を、どうしても残しておきたいと。
間もなく帰ってくる姉や父に見せてあげたいと。
そして、夕食の支度をしている母に向かって口をついて出た言葉は、今思えばなかなかシュールだった。
「ぼく、とってくる!!」
「え? 何言ってるの!? ちょっと待ちなさい!!」
夕食を作っている母は手が離せない。
あわてて呼び止めようとした時には、もう、俺は玄関の外へと飛び出していたらしい。
母の声を背中で聞きながら、俺は夕焼けを採る道具を探した。
夕焼けをとるといっても、さすがに素手では無理だと思ったからだ。
俺の目に、いいものが飛び込んできた。
それは、巨大なひしゃくである。
何に使うモノなのか。それを知っている人は、かなりの年配であろう。
俺も当時知らなかった。
それは、汲み取り式便所の、汲み取りひしゃくであったのだから。
もちろん、俺が物心ついた時にはもう、我が家は水洗式であった。
だが、もったいながりの祖父は、用のなくなった汲み取りひしゃくを捨てずに、庭の水まきなどに使っていたのである。
長さは二~三メートルであったのだろう。
それが、子供の俺には、天にも届く長さに思えた。
俺は巨大なひしゃくを担いで裏道を駆け抜けた。そして自宅近くにある城の堀端にまで行くと、空に向かってひしゃくを振り始めたのであった。
真っ赤に燃えて美しく、すぐにも手の届きそうな夕焼け。
しかし、何度ひしゃくを振ってみても、その中に夕焼けは入ってくれなかった。
それでもあきらめずに、一所懸命ひしゃくを振り続ける俺を、仕事帰りの人々が不思議そうに見ていく。
もちろん、中には声を掛けてくる人もいた。
「ぼうや、何してるの?」
「うん。夕焼けをとってるんだ」
「いや、たぶん無理なんじゃないかなあ……」
「だいじょうぶ、とれるよ」
道行く人とそんな会話をしながら、ひしゃくを振るうちに、次第に空が暗くなってきた。
このままでは、あの美しい色が消えてしまう。
こんなに頑張っているのに、どうしてとれないのか。絶望しそうになった時。
「あんた。何してるの!?」
声の主は姉であった。母に言われて、探しに来てくれたのだ。
俺は、泣きそうな顔で姉に言った。
「お姉ちゃん。夕焼けがとれないんだ。ぼく、小さいからとれないんだ。お姉ちゃんとってよ」
「え゛……いやその……無理だよ。やめようよ」
「いやだ。とってよ。お父さんに見せるんだ」
「う゛……」
ついに泣き出した俺のため、姉は大ひしゃくを空に向かって振ってくれた。
もちろん、とれるはずなどないが、振るたびにひしゃくを確認して、とれてないねー、と言ってくれた。
そして、またこんな綺麗な夕焼けが出たら、今度はもっと長いひしゃくでとりに来ようと約束したのであった。
あれから数十年。
いまだに、あれ以上に美しい夕焼けには出会っていない。
姉は遠くに嫁ぎ、ここ数年会っていない。
だが、もしもあんな夕焼けに出会えたら、今度は画像にして姉に送ろうと思っている。
あの日のことを覚えているかどうかは、分からないが。