暁の魔王の子守唄
短編『彼は勇者 私は災厄』『彼女は災厄 俺は勇者』とストーリーが繋がっております。
しんしんと雪が積もる。
軽く、淡く、儚く。己の身に降り注ぐ冷たい結晶は、見上げる鈍色の空から止めどなく生まれている。
これが〝冷たい〟のだというのは、ずいぶんと昔に感じて以来、今はもう思い出の中の感覚しか残っていない。
掌の上に乗る雪は溶けず、払えばまたふわりと舞った。
見渡す限りの白銀。
動く拍子に時折視界をかすめる己の赤い髪だけが、寂しいこの場所で確かに色付いていた。
ここが寂しく、どこかもの悲しい場所だと教えてくれたのは、自分と同じ程に世界に忌み嫌われている存在であった。
黄金色の天然石のような瞳と、雪のように混じりけのない白い髪をもつ女。
災厄の名を持つ彼女は、それでも世界に抗っていた。
暖かさを忘れた地に一羽の鳥が訪れた。
容赦なく吹雪に打たれた羽は、見るも無残な姿になっている。
ようやく荒々しい極寒を乗り切った小鳥は、ゆるやかな冷気をまとうこの凍てついた泉へと転げ落ちた。
「大丈夫か?災厄の」
みるみる人間の姿を取り戻す彼女の体。そこには、いたるところに血がにじんでいた。
真っ白の髪から除く瞳は忌々し気にこちらを睨んでいる。
「死ぬかと思った!事前情報ってすごく大事!」
強く頭をはたかれた。
聞かなかった自分が悪いではないか。という言葉は、彼女の気迫に飲まれて喉に詰まってしまった。
理不尽である。
「下見がてらマオーの体の安置所にきてみれば、死にかけるなんて本末顛倒だわ」
「安置所ではない、不良の事故だ」
「ああ、気づいたらカチカチに凍ってたんだっけ?魔王のくせにうっかりが過ぎるよ」
「魔王は関係無いではないか」
「あなた以外は大いにあるのよ」
足元を二人で覗けば、本来の私の体は泉の中で凍りついていた。
自分の身から溢れ出る歪みの残骸があまりに煩わしくて、どうにかならないものかと試行錯誤している内に体が氷漬けになってしまったのは、今はもう懐かしい話である。
はじめてこの話を彼女に話したとき、上手く言い表せない表情で見返されてしまった。
「とりあえずは、何とかたどり着けそう。シュテートって言うんだっけ?評判良くないわね、ここ」
「寒いからな」
「それだけじゃないわ、ばかちんが。その理解力の無さが私を殺しかけたのよ」
そんな事をする訳がないではないか。
言い返しても、はいはいそうですか、と辺りを見回す彼女はろくに話を聞いていない様子であった。
やはり理不尽である。
災厄である彼女が、私の本体がある場所を訪れたのはここまでの道のりを覚える為である。
勇者一行。彼らを魔王の元へと導く為に。
彼女は世界に抗った。
そして、魔王を消滅すべく己の価値を利用しようとしていた。
私が私という個体を認識したのは、もうずいぶんと昔のことである。
時間をかけて鮮明になってゆく意識とともに、己の存在意義も理解していった。
世界の歪み。それが私だった。
一言で歪みといっても、それは様々な歪の掃溜めである。
魔力の暴走による時間や空間の捻じれだったり、消えずに残る魔力の残骸でもあった。また、ふとした切欠で起こった生体バランスの崩壊による無理な修正も、ツケは全て歪みの一部と化した。抑えきれなくなった人間の不の感情もここに集約する。偶発的に発生するおぞましい感情のはけ口は、やはり歪みとなった。
人間に気づかれない程度の調和を保って、彼らの心は守られていた。
私の存在が、世界の安定。
私の消滅が、世界の均衡。
いつかやってくる己の終わりの時まで、私は静かに世界を眺めてゆくのだろう。
意識を確立させる中、世界の片隅で私は澄み渡った空を見上げていた。そこは人の来ない高山の連なる絶壁の頂上であった。
日の入りから、日の出まで。青々とした空を流れる雲の行方を目で追い、時が過ぎれば赤く染まる山肌を眺めた。暗くなれば幾重にも煌めく星が瞬き、遠くの空を鳥が渡った。
時に立ち尽くし、時に岩肌に腰掛け。雨にさらされても繰り返す移り変わりを目に映していた。
幾重にも季節が巡った時。遠くの地に大きな落雷が直撃した。
己のいた場所からわずかに見えた閃光に、気づけば無意識のうちに意識のみを彼の地へ飛ばしていた。
小さな農村であった。落雷は近くの山を少々えぐっただけで、住まう人間たちは皆無事であったようだ。
この時初めて見た人の子らは、様々に表情を変えて忙しない様子であった。
興味が湧いた。世界に。
そしてそこに住むものたちに。
私が調和を守っているものとは、何なのかに。
まずは近くにあった川に己の顔を映してみた。どうにかこうにか試行錯誤しても村に住む者たちのように豊かに動かない顔に落胆した。
ならば世界を見渡してみようと思った。
体から意識だけを切り離し、世界各地を巡った。
老婆がいた。
前後に揺れる腰掛けに座り、柔らかな表情で編み物をしていた。たまにやって来る小さな子供たちにお菓子を配る時は、顔の皺が一段としわくちゃになった。
片脚の無い男がいた。
朝から晩まで酒を飲み、たまに酒場の亭主が注意するだけで他は誰も声をかける様子は無かった。男は誰も見ていない所で、無い足を殴りながら嗚咽を漏らしていた。
花を売る少女がいた。
僅かに白い花が入ったカゴを持ち、賑わう街の片隅にひっそりと立っていた。騎士が一輪買って少女の髪に花を飾った。少女は泣きながら満面の表情で騎士に笑いかけた。
王冠を被る初老の男がいた。
豪奢な椅子に座り、ぼんやりと濁った目を何処かへと向けていた。その手を取る柔らかい物腰の女がいた。男の瞳に確かに光が宿った時、武器を持った男たちが部屋へとなだれ込んできた。
数え切れない程の人間の人生の断片を見てきた。
廻りまわる年月は生命の誕生と死を繰り返し、私が興味を抱いて覗き込んでいた者たちは、今はもう一人として残っていなかった。
生命は皆老いる。そして次の命に紡がれてゆく。
歪みもまた、消滅すれば新たな器が誕生する。
己の手を見た。人間とは違うもので作られているそれは、それでも人の手にしか見えなかった。
世界の移り変わりを眺めているだけにも少し飽きてきた頃、衝動的にシュテートへと訪れてみた。そこは私の前の歪みが根城を築いた場所であった。
ただ一つの生命とも触れ合ったことのない私は、世界のあぶれ者である災厄とともに暮らしていたという前歪みの痕跡を辿ることにした。
意味などなかった。ただ、そこに何があったのか知りたかった。
その時にはもう、私の中の歪みは抑えきれなくなってきていた。
シュテートは人間たちの中で〝忘却の彼方〟と呼ばれていた。生命が立ち入ることを許さない極寒の地は、今はもう古い文献でしかその内部は語られない。
たどり着いてみれば、根城といっても住居は地底深くに作られており、猛吹雪の劣悪な環境を思えば、確かにと言わざるを得ない。
直接的な冷気は吹き込まなくとも、ひんやりと冷たい場所であった。中にはいくつも枝分かれした通路があり、その内の一つは広い空間に繋がっていた。
何もない。ただ広いだけの洞窟。
指の先を光らせ、ゴツゴツとした壁を撫でる様に足を踏み入れた。
最奥へと進んだ時、壁に文字が書かれているのを見つけた。
光に照らされた一言だけのそれは、私の中を何度も反響した。
ーーどうか世界を憎まないでーー
にくむ。
憎むとはどういう事なのだろうか。
憎むという感情を知識として知っていても、それが己の中に存在するとは思えなかった。
この文字を書いた者は前の歪みか、歪みと共にあったという災厄の二人のどちらかである可能性は高い。
しかし何故か、私には前歪みがこれを書き込む姿が想像できるような気がした。
私と同じでありながら、歪みは憎むという感情を知っていたのだろうか。世界を憎悪し、激情に支配され、それでも次の歪みにこの言葉を託したのだろうか。
分からなかった。
ただ、己はやはり孤独なのだという事だけは理解できた。
世界が世界として機能する為に、不必要な部分は一つの歪みとしてまとめられた。
この原理を知っているのは、世界と歪み自身。
それと今はもう一人、災厄のみである。
ゆるやかに生まれる歪みは霧散せず、ひととこに集まる。歪みは徐々に個体としての意思を持ち、成熟すれば巨大な世界の汚点となった。
完全なる意識を確立させた時、歪みは機能を崩壊させる。世界の不を仕舞い込んでいた箱は受け止めきれなくなった歪を溢れ出し、溢れ出た歪は暴走する。
一度決壊してしまえば元の調和は取り戻せない。世界中に歪みが萬栄し、ようやく生き物たちはその異変に気付くのだ。
あぶれた歪は一部魔物に変化し、見境なく破壊を繰り返す。歪を多く浴びた動物達は、異形の姿へと形を変え自我を失った獣へと成り替わる。人間もまた、歪に支配されれば狂気を生んだ。
これは幾度となく繰り返してきた。
機能を果たさなくなった器を、歪みとともに消滅させることにより世界は本来の姿を取り戻す。
人々は過去の歴史を繰り返す。突如現れる世界の危機である魔王。そこに理由などいらない。
人間たちは世界を守る正義なのであり、脅かすものは敵であり悪であるのだ。
世界を滅ぼさんとする魔王に打ち勝つ為に人類は立ち上がる。
生命と魔王の因果関係。それは世界の理であった。
『何よそれ。そんなの貧乏くじ引かされてるだけじゃない』
『びんぼうくじとは何だ?引いた覚えはないぞ』
『損な役回りのことよ。だから男前のくせに幸薄いのよ』
『…………』
『あ、もしかして幸薄いの意味も知らない?』
『知っている』
なに知ってるの、変な顔。と頬杖をつく姿が様になる。
いつかの何気ない会話である。
彼女はずいぶん強かな女であった。
異世界からの落ち人である彼女は、何も持たないままこの世界に打ち捨てられた。
突如現れた不穏分子。透明な水面に黒い雫を一粒落として波打つように、その異変は世界を伝った。
その時の私は、凍てついた泉の中で起きた異変を感じ取っていた。
突如入り込んだ不穏分子が、無理矢理この世界の一部に組み込まれてしまったのを感じながら、しばらくは様子を見る事に決めた矢先。わずかにもならない内に、その灯火が消えかかる。
それはいけないと思った。なぜなら彼女は、あの災厄なのだから。いつか消滅するであろう魔王の、最後まで近くにいた存在。
本体を離れ意識体になった私は、死にかけていた彼女を助ける事となった。
黄金色の瞳と白い髪に姿を変えられてしまった点を覗けば、彼女はどこにでもいるような人間なのだろうか。
真っ赤な髪に二本の角を生やした明らかに人間ではない私を見て、「悪魔が私を迎えに来た……親不孝者でごめんなさい」とのたまった。
しかし死後の世界などでは無く、異世界にいるという悪夢からも覚める事は無かった彼女は、大切だという者の為に強くあろうとした。
弱さを知らないわけではない。彼女は弱さを持っているからこそ、己を認め、強くあろうと努力した。
でなければ、右も左も分からなかった当時の彼女はあんなにも声を枯らして咽び泣く事は無かったであろうに。
彼女に衣類を与え、言葉を与えた。迷子になっていた災厄の道案内をする事となった時に、私たちはようやく言葉を交わした。
『あなた、私の守護霊?』
初めこそ怪訝な目を向けられていた私も、この時には彼女に少なからず信用されていた様であった。
『私は魔王だ』
『ラスボスきたー……』
ラスボスとは何かを教えて貰ったが、彼女の想像の中のものと私は概ね似通ったものであった。
しかし私は、人の生き血など吸わないし、一度敗れた後に急に強くなって復活したりなどしない。そなたの世界には末恐ろしい魔王がいたものだ、と返したら力強く肩を叩かれた。
何もない私の日常に、一人の人間が入り込んだ。
動物や昆虫ですら殆ど触れ合った事が無かった私に、それは当たり前のような顔をして言葉を交わした。
世界の国地域やその特性、基本的な知識を根気よく教えてやった。森の最奥にしかいない一角獣に妙に懐かれてしまった彼女を助けた事もあった。誤って毒性のある植物を食してしまった彼女を治癒してやったり、代わりに彼女がいた異世界の話を存分に語って貰った。
そこかしこで文献や過去の歴史を紐解こうとする彼女を少しばかりの手助けを加えて見守る。
正直、勇者の帰還の方法は知っていても、災厄の事までは分かっていなかった。上手くいけば勇者と共に帰れるかもしれない。その程度だ。
もしかしたら以前の災厄も魔王の元でその方法を探していたのだろうか。
生まれながらに備わっていた私の知識では、彼女の助けになるには不十分であった。
彼女の隣で不思議な感覚に首を傾げた。
今まで感じていた不可解な胸のつかえは無くなっていた。
災厄が落ちてきてから少し時間が経った頃、世界に再び異分子が呼び込まれた。人間たちが魔王を打つ為に異世界から勇者となり得る者を召喚したようだった。
召喚の儀は数年発動し続けてきた。発動してから感じ取っていた召喚の力は、いつまで経っても探し人を見つけてくる気配は無かった。異世界との道は常に開かれており、その力は私を消滅できる者を延々と探し続けていたのだったが……。
ついに適材が招かれた。私に終わりを迎えてくれる者を。
ようやくかと思う反面、何とも言えない感覚が体を支配した。
思い出すのは災厄の姿であった。
自分と同じように異世界から来たという勇者の存在を知っても、災厄は自分の事に忙しいのだと直ぐに興味を無くしていた。
勇者は同じ召喚の穴に落ちた恋人を探しており、確認せずとも相手が誰なのか火を見るよりも明らかであった。
そんな彼女が鬼の形相で私に突進してきたのは、勇者一行の勇姿が世界各地に轟いた時である。
危うさを宿す彼女は、激情を抑えながら事のあらましを私に尋ねた。
『……そう、それで私と数年の時差を生んで、彼はここに呼ばれてしまったのね』
『勇者は変わらずお前を探していると聞く』
『……私が姿を現せば、どうなると思う?』
自分で質問をしておいて、彼女は目を沈めたままだった。
『勇者の様子を思えば、魔王討伐どころではなくなるであろうな。良くて、お前たちのどちらかは消される。悪ければ、世界ごと全てが消滅することになるだろう』
彼女が思い描いていた希望は絶たれることとなる。
頼りなさげに揺れる琥珀の瞳は、強くつむった瞼の向こうへと隠れてしまった。深く深呼吸を繰り返すと、いつもと同じ輝きを取り戻した眼差しが私を見据えた。
『5日後、リリースェナで凱旋パレードだって聞いたわ。教えてちょうだい。何処に行けば彼を見られる?』
『王城に向かってパレードは行く。ランガード通りの時計塔に行くが良い。塔の番人は私が何とかしておこう』
ありがとう。と立ち去ろうとする彼女を思わず引き留めた。
いつにない不可解な行動をする私を、彼女は少しいぶかしみながら振り返った。
彼女の表情を読み取って、私自身も内心驚いていた。彼女に何と言うつもりだったのだろうか。災厄として、勇者の恋人として、彼女がどのような行動を取ろうとも私が口出すべき事では無い。
私の全ては、自身の終わりを迎える事。
たとえ世界とともに崩壊する最期であろうとも、その願いは変わらなかった筈であるのに。
長年変わらなかった自分の中の何かが覆ってしまっている。
『時計塔は高い。当日は双眼鏡を持っていきなさい』
『……ご親切に、どうも』
また変な顔をして去っていく彼女の後姿を黙って見つめた。
空を見上げることは、空虚な世界での僅かな楽しみであった。
遠ざかってゆく無垢な白い髪は、いつも見ていた流れてゆく雲を思い出させた。
その後、勇者の姿を確認した彼女は変わらず強かであった。
恋人を守る為の力が欲しいと言った彼女に私の力の欠片を埋め込んだら、その身を彼女の知る動物に変化できる力となって孵化した。人間の悲願!と言って小鳥の姿で飛び回っていた彼女は、次は鷲に姿を変えて飛行しようとしたら木の枝に絡まっていた。
次から次へと姿を変えては体を触って奇声を発したり忙しなく動き回ったりする様子は一見はしゃいでいるようにも見えたが、言動の端々で勇者の為であることが伺えた。
急いで力を自分のものにした彼女は、今日ようやくシュテートへとやって来た。
今は、傷だらけの腕で寒さに震える体を摩っている。
大型動物の毛皮を差し出せば、狩人の形相で飛びつかれた。
「お前は本当に不思議な女だ。魔王を前にして、平然どころか食って掛かる人間などきっとお前くらいなものだろう」
「人を魔王以上の存在にしないでくれる?」
「それもこれも、お前の住む異世界に魑魅魍魎も逃げ出す程の極悪な魔王が幾人も存在するからなのであろうな」
「マオーの中の異世界像って、すんごい事になってるんだろうね。面白いから訂正しないけど」
違うのか、と彼女を見下ろせば、シュテートの寒さなど感じさせない爽やかな笑顔で見返されてしまった。
「正直、大して詳しくない私がこんくらいは知ってるって事は、魔王は数えきれない程いるんじゃないかな」
「数えきれないほど……」
「中にはうっかり魔王になっちゃう奴もいるし、酒池肉林な魔王もいるでしょ?他にも幼女魔王とか、勇者ラブな変態魔王とか」
「なんともはや……」
「魔王の宝石箱やー」
謎の言葉で締めくくった彼女をなんともいえない気持ちで見つめた。
改めて思う、異世界とは末恐ろしい。
「じゃあマオー、そろそろあたし行くね」
「災厄よ、気を付けて行くがよい」
鋭利な雰囲気の獣になった彼女の体に、先ほどまで使用していた毛皮を巻き付けてやった。
気に入ったのか、嬉しそうに見える動きで豊かな尻尾を動かしていた。
「次に会った時は、またお前の世界の魔王の話をしてくれ」
彼女が〝オオカミ〟と言っていた動物の姿で、災厄は小首を担げた。
「お前の世界の魔王の話は興味深い。私と同じ名を持ちながら、様々な者が共存する世界に私も行ってみたいものだ」
鈍色の空を仰いだ。
この世界ではたった一人の存在の魔王は、彼女の世界には沢山いるという。
それはとても、----。
私の指に触れるものがあった。オオカミの姿の彼女が湿った鼻を擦り付けていた。
不思議な気持ちでその姿を見下ろせば、頭をコツリと手の甲に打ち付けて彼女は今度こそ帰っていった。
禍々しい黒い焔が舞い上がる。
ごうごうと燃え上がり、辺り一帯を黒く染めていく。
私の中に納まる世界の掃溜めよりも強い意思で、身を焦がす程の純粋な憎悪が世界を死に至らしめようとしていた。
焔が天高く空を駆ける。鈍色の雲は瞬時に霧散し、徐々に空に闇が広がる。
散り散りに燃え上がっては生き物のように蠢く黒い焔は、無数の虫が蠢くような醜悪さであった。
何とか維持していた白の女魔法使いのシールドは、今にも力尽きようとしていた。
守られている仲間たちは、勇者に力の限り声をかけているが届いている様子はない。着実に迫る己の死に、中には膝を折る者もいた。
今まさに世界を破滅へと導いている者は、世界を再生させる役目を負っていた勇者であった。
勇者たちは、魔王の影を追い求め、災厄の痕跡を辿り、勇者の恋人を探し辿り着いたこのシュテートで、己らの手によって崩壊を招いた。エルフ族の男の私怨により災厄は弓に射抜かれ、彼女の時を止めてしまう事となった。
勇者はこの世界で、たった一つの大切なものを失う。
希望を失い、自我を失う。あるのは、絶望、憎悪、悲哀。後は、憎むべき世界を呪う心。
混沌に身をゆだねた勇者の懐には、動かない彼女の身体が大事そうに収められていた。
災厄よ。そなたの望んだものとは、このような末路では無いだろう。
意識体である私は、勇者を中心として吹き荒れる焔にも難なく彼に近づいて行った。
勇者、と呼ぶが、やはり一向にその耳に届く様子は無かった。
勇者の胸に刻まれていた『奴隷の刻印』が、焔によってじりじりと焼き切れる。
呪縛が解かれた力は確かな刃となって、勇者のパーティーメンバーを襲った。
その瞬間、仲間を守り続けていたシールドが大きな音を立てて消滅した。白の女魔法使いの体は弓なりに弾け、慌てた褐色の肌の男が受け止めた。
時を待たずして彼らに襲い来る焔の前に、深緑のローブの男が守るように立ちはだかる。
始まった力の押し合いも、勇者メンバーの劣勢にて長くは続かないように見えた。
私は光を纏わせた指で丸く円を描く。
勇者一行の周りに防護壁を作ると、彼らは呆けたようにそれを見つめた。
「お前たちは、しばしそこで待っていなさい」
私の姿を目にし、彼らは一貫して色を失った。
瞬時に状況を把握した者から状況の打開を試みようとしているようだが、彼らを囲んでいる防護壁は外からも内からも傷つけることは出来ない代物で、全ては無駄に終わってしまっている。
何かを叫ぶ彼らを無視し、触れられるまでに勇者に近づく。
虚ろな目は何も映していなかった。冷たくなった恋人の頬を撫で、時折彼女の名を呼んでいる。
私は低い位置にある勇者の耳元へ、そっと囁いた。
「女の骸は暖かいか」
勇者の体が震えた。
「勇者よ。そなたの手は、生温く、愚かで、卑しい。口先と態度だけは達者で、大切なものなど何一つ守れていないではないか」
空虚な眼差しは、何もない空を捉えて涙を溢れさせた。
勇者は言葉にならない声で、意味のない唸りを上げている。
「ただただ、勇者を待ちわびていたこの女が、不憫でならないな」
勇者の砲叫が駆け巡る。
岩肌を砕き、地を割く。
亀裂の中からは地鳴りとともに冷気が吹き上がった。
薄暗い目が私を捉えた。
瞳に宿った僅かな輝きは、強固な憎悪の煌めきであった。
「憎いのだろう、この世界が」
獣のような理性のない叫びがビリビリと空気を震わせる。
そうだ、勇者よ。それで良い。
剣を取り、振るえ。お前にしか出来ない目的を成し遂げるのだ。
「諸悪の根源は目の前におるぞ」
食いしばる歯の隙間から血が滴る。
彼女の身体をゆっくり横たわらせて、勇者はゆうらりと立ち上がった。
後は彼女が考えてくれた、ラスボスの決め台詞とやらを言えば最後だ。
「〝我は、破壊を司り、死を呼び込む暁の魔王なり。哀れな世界に慈悲を。全てを無に。そなたらに、逃れ無き煉獄の業火を与えようぞ〟」
私はそなたの言う立派な魔王に見えているのだろうか。
終わりは、もう直ぐである。
災厄よ、退屈であろうがもう少しの間眠っていなさい。
闇よりも深く黒い炎が勇者の剣を覆った。
地を蹴って一瞬にして間合いを詰めると容赦無く私の体を切断する。
しかしこれは意識体である。まるで水を切るようなもので、手応えこそあっても私自身には全く影響はない。
一度二つに分かれた胴体は、初めから切り離されていなかったかのように元に戻った。
次から次へと繰り出される攻撃は、地を粉砕させるだけで一向に私自身を傷つける事はできない。
時折、反撃ともつかない力を勇者へとぶつけ、彼の体を誘導した。
次の瞬間、私の体に確かな衝撃が走った。
本体がある場所を振り返れば、勇者が付き立てた剣から走った亀裂が、凍った泉の中に横たわる私の体を横断していた。
私の様子に、勇者はようやく実体がどれなのか気が付いた。
瞬時に漆黒の焔が私を覆う。視界を奪われ、腕を一振りさせ突風を起こした。
開けた視界で見たのは、私の本体へと剣を振り下ろす勇者の姿であった。
『〝待っておったぞ、勇者。脆弱な人間ごときが、ようここまで来れたものよ。この最果ての死地の舞台で我と踊ろうではないか……死の乱舞を!ぐわっはははははー!〟とかどうよ?』
ちょっとありきたりかなー、等ともらしながら災厄は眉間に皺を寄せた。
その台詞は、異世界ではありきたりな台詞なのか。真実は何となく聞けなかった。
『口上は必要ない』
『何言ってんの!無かったらどこタイミングで戦えばいいんだっての。あ、こいつ魔王だなー、突っ立ってるけど殺っちゃっていいのかなー、いくよー?いっちゃうよー?っていう、グダグダな展開になることは目に見えているじゃない』
『……そういうものなのか』
『ビシッと身も引き締まるでしょ。魔王め、恨みはらさでおくべきか。って士気も上がるし。ふわっとした空気の中戦う事ほど苦痛なものってないわ』
とは言いつつ、一番楽しそうなのは災厄である。
反論する気も削がれて、その様子を見守った。
『〝泣き叫べ、躍り狂え。その身を切り刻み、我に血を浴びさせろ。こんなにも愉しませてくれるのはお主だけぞ、勇者よ。もっともっと我を満たしてくれ……!〟……完全に頭いっちゃってるね、これ。マオーの無表情にドエスは向いてないわ』
悩むわー、と言って口をとがらせる彼女の姿は全身赤く色付いている。
体を丸めてうーうー唸る彼女の隣で、夜が明ける街並みを眺めた。
家も、道も、人々も。皆等しく赤い布を纏っているようだ。
我々もまた、同じ色に染まっている。
『〝暁の魔王〟』
私を見上げる災厄は目を細めた。
『とってもぴったり。名乗る時、そう言ったらいいわ』
『暁とは?』
『夜明けの色よ。マオーはオレンジがかった綺麗な赤い髪をしているから、夜明けの赤が染まる景色に溶け込んでて一枚の絵みたい』
いい事を思いついたとでも言うように、彼女は微笑んだ。
暁の魔王。
口の中だけで咀嚼した。
今代の、私だけの魔王の呼び名。
『無意味な』
思わず口をつく。
不満気に顔を歪める災厄から顔を背けた。
『なに、気に入らない?』
『そうではない。名を付ける事に、必要性が無いという事だ』
それでも納得いかないと言い返す彼女を視界の隅に追いやる。
『先日もそうだ。私に笑っていて欲しいなどと、お前はたまに意味のない言動をする』
我々魔王とは、そもそも人の子とは違う。実体の無い掃溜めの集合体でしかない。
人間のように豊かに彩る感情は、初めから備わってなどいない。
もし私たちが物事に感じ入る事があるとすれば、それは世界中から己の中に集められた歪みに潜んでいた誰かの感情の欠片から学んだ感覚なのである。
だから理解できない。
私の表情は動かないと分かっている筈の災厄が、それでも私に笑顔を求める理由が。
『意味が無いなんて言わないでよ、マオー。意味を求める事だけがすべてじゃないわ』
静かな声だった。
膝に顔をうずめる彼女の表情は、こちらからでは見えなかった。
『だから、私の心を無かった事にしないで』
一度大きく息を吸い込むと、彼女は勢いよく立ち上がった。
夕日に照らされた横顔はいつも通りの彼女であった。
『ほら、笑っていた方が楽しいでしょ?私も、マオーも。眠ったときに、夢の中でまで思い出せる楽しい記憶があったら、とても幸せな事よ』
笑って話す彼女にとって今この一瞬が楽しいと感じているならば、それでいい話なのかもしれない。
魔王は夢など見ない。
だからそれは、彼女に伝えるべきではない。
冷たい。
ゆっくり瞼を開けると、しんしんと雪が降り注いでいた。
軽く、淡く、儚く。
雪とは、こんなにも魅入ってしまうものだったのだろうか。
目覚める前、眠る中、私は何かを見ていた気がする。
ーーとても幸せな事よーー
それが夢なのだろうか。
思い出しかけたが、どんな内容であったのか、その感覚はどんどん薄れていった。
そもそも、今そのものが、誰かの夢なのかもしれない。
息づく世界があり、暗がりに災厄がひっそりと存在し、誰にも気づかれず魔王は世界を眺める。
誰かの夢というならば、早く覚めてもらわねば。夢の住人は今にも、傷つき、涙の海に沈みかけている。
「……災厄よ、本来のお前はそのような色をしていたのだな」
横たわる私の上で、黒い艶やかな髪の災厄が震えていた。
私に覆い被さって涙を流す彼女からは、この世界の匂いが消えていた。
災厄とは、異世界からの迷い人の事である。
勇者と違い、招かれざる客である彼ら落ち人は無理やり世界に順応させ、組み込まれてしまう。
迷い込んだ体は一度世界に取り込まれ、世界によって新たな身体を与えられる。作られた身体は一貫して、白髪に黄金色の瞳をしていた。
元の体は世界にとって不必要な排他物 。歪みとして認識された身体は、掃溜へと集約された。
私の中に、彼女の身体が眠っていた。
己の役割りを終えて、ようやく気が付いた。
今降る雪のように、私の体中から世界の歪が外へと揺らめき出て、ふわりと浄化されていった。
次から次へと。
ほろほろと溢れては、私自身がどんどん欠けてゆく感覚を感じていた。
彼女の本来の身体は消滅する前にあるべき形へと戻った。
身体は彼女の魂を受けて命を吹き返す。
あとは、他の歪み同様世界から消滅しなければならない。その証拠に、彼女の身体は淡くぼやけていた。
故郷に、帰るのだ。
「何を泣く。これは、お前と、私の、願いなのだ」
「違うよ、バカ。これは、嬉し涙だよ」
魔王であった私でも分かる。
お前のその顔は、嬉しい時の顔では無い。
感情の無い筈の私ですら、気付ける程には一緒にいすぎた。
彼女のすぐ隣で、勇者であった男が私を見つめていた。
恋人の体を支え、理性が宿った瞳をしていた。
その姿に、僅かに力が抜ける。
間違わなくて、良かった。
「ねぇ、マオー。……マオーは、ちゃんとマオーだったよ」
無理して笑う顔は、見れたものではない。
もう災厄では無くなった彼女は、黒曜石のような美しい瞳に涙を溜めて、溢れさせた。
今まで見てきた涙とは違う。
拭ってやりたかったが、身体は全く動かなかった。
それにその役目は、隣にいる男のものだ。
「お前の言う、魔王然としていたか」
ようやく及第点を貰えたのかと思ったが、彼女は首を横に振った。
「違う。マオーは、世界を守る暁の魔王だったよ」
自分の胸の内に柔らかな何かが灯る。
それが何なのか分からないまま、世界を去らなければならないのが、何とも口惜しかった。
もし、私が人間であったなら。この感覚に名前をつける事が出来たのだろうか。
まあ、でもそれは必要ない。
今、とても、静かだ。
終わりの瞬間まで、この感覚をゆっくり味わっていたい。
勇者の体の輪郭から光の粒子が湧き出て空へと舞い上がってゆく。
役目を終え、世界の理の元、勇者はあるべき場所へと戻ってゆくのだ。
災厄であった彼女もまた、世界の修正により故郷へ戻るべく体が徐々に透き通り、残された時間はいくばかりも無い。
ゆらゆらとゆらめいては、淡くはでる歪。
ぼんやりと眺めて、その軌道を目でなぞる。
「……私はいま、笑っているのだろうか?」
結局、私の顔は動かないままだった。
気持ちというものも、私が知る限りずっと平坦であった。
でも今、今までで一番穏やかだ。
一番、幸福なのでは無いだろうか。
彼女はしきりに頷いた。
眼を真っ赤にして、鼻水を垂らして、その顔は拭っても拭っても綺麗にならずグチャグチャに汚れている。
幼児でも、もっとましに泣くであろうに。
彼女は消える瞬間、ありがとう、と囁いて帰って行った。
最期まで、彼女らしい。
私こそ、願いを叶えてくれてありがとう、ユイ。
いつの間にか雪が止んでいる。
鈍色の雲の隙間から、幾千も光が差し込む。歪みが消滅し、シュテートに僅かな春が訪れるのだ。
私が消え、しばらくすれば、ここはまた寒さを宿す地となるだろう。
ただ、今しばらくは。
魔王と同じように世界に見放された地に、僅かな暖かさを与えてほしい。
かつり、と近くで音が鳴る。
目を移せば、深緑のローブの男が私を見下ろしていた。
「……魔王よ。お前は、何故世界を破滅至らしめんとする」
揺れる男の瞳は、私の答えに怯えていた。
世界は、世界に優しくできている。
しかしそれは、黒いものをひたすら隠して得る幸福である。
今さら人がその責を追う必要はない。
これは因果で、世界を回し守るのものなのだ。
だが今、この男は答えを知ろうとした。
知った先で、世界がどう変わっていくのか。
それはとても、興味深い。
「意味の無い質問よの、魔法使い。何故、我らが世界に終焉を招くのか」
「それはいま僕が聞いて……!」
まるで不安にかられた幼子のようであった。
己で考えなければ、答えなど見つからない。
「魔王とは、世界が作るのだ」
凍てついた泉に、次々に音を立てていくつもの亀裂が走る。
魔法使いの足場が崩壊し、男は陸地まで飛躍した。
私の体は粉砕した氷から溶けた泉へと投げ出される。支えるものが無くなった体は、水の中に沈んでいった。
きらめく水面は光に瞬いていた。
思い出した。
以前、本体を氷漬けにしてしまった時、私はこれと同じ光景を見ていたのだ。
たゆたう水の中で、ずっと見ていたくなる光景であった。
そうか。私は、この眺めを気に入っていたのだな。
水に包まれ、大地に抱かれ。
世界の輝きを、おそらく、愛していた。
新緑のさざめきが頬をかすめる。
初夏の暑さも相まって、服と肌の隙間を通り抜ける風がとても気持ち良かった。
平屋の縁側で、大きく育った梅の木を眺めた。ざわりざわりと葉がかすれ、耳にも賑やかな様子である。
「陽くん、ごめんなさいねー。せっかく久しぶりに顔を出してもらったのに、何も無くって」
顔に乗ったシワを深くさせ、それでも若々しく可愛らしい笑顔を浮かべる女性が障子の向こうから顔を出した。
「こちらこそ、ずっとご無沙汰してまして。ご挨拶にも伺えず、すみませんでした」
お盆から、麦茶の入ったグラスを渡される。
氷がカランと鳴り、手から伝わる冷たさが心地良い。
「もうーっ。もっと気軽に話してくれていいのよー」
バシバシと背中を叩かれ、相変わらずだなと苦笑いが漏れた。
「梅の木、ずいぶんと大きくなりましたね」
幼い頃、よく遊びにきていたこの家も、訪れなくなって十年あまり経とうとしていた。
空白の時間は、穏やかな変化を感じさせるに充分な年月であった。
「そうよー。そろそろ剪定して整えようって言ってるのに、あの人ったら断固として切らせてくれなくってね」
ふふふ、と笑いをもらして、女性はおおらかに笑った。
懐かしい笑顔に、思わず釣られて笑ってしまう。
「母さんも、きっと同じ事を言いそうです」
「姉さんは昔から、この木がお気に入りだったからねー」
母さんの妹である貴子さんは、奥から聞こえた電話の音に慌てて戻っていった。
小さくなった氷が、カランと崩れた。
こんな穏やかな静けさは、あの頃を思い出させた。
自然の音に耳を傾け、誰も寄り付かない辺境の地で孤独に世界を眺めていた時を。
まだ、魔王、と呼ばれていた前世を。
おおらかな両親の元、是永陽として生を受けた俺は、物心が付く頃、世界の様子に違和感を覚えた。
歪みとして消滅した筈の自分が、暖かな人たちに囲まれ、見た事のない場所で生活している違和感。
ここが、あの世界とは違う世界で、自分が人間に転生したのだと気付くまでにそう時間はかからなかった。
残ってしまった記憶のせいで、昔はずいぶんと変わった子供だった。
自我が芽生えるまでの乳児期と打って変わって、幼児期は表情が乏しく、会話の受け答えは子供らしからぬ簡潔さであった。
そんな俺が奇異の目を向けられる事が無かったのは、ひとえに両親のお陰である。
気味が悪そうに俺を見つめる遠縁の親戚には、これは個性だと言って黙らせた。
ーー人は皆、見る世界が違うのよ。
私たちの子供は、私たちには見られない聡明な世界を見ている。
それは決して後ろ指さされるものでは無いし、潰してしまうにはあまりに惜しい。
とても、素敵な事じゃない。ーー
眠ると、たまに魔王であった頃の夢を見た。
ひたすら孤独な世界で、遠くの彼方に楽しそうに笑う人たちを眺めていた。その中には勇者や災厄はもちろん、現世での両親たちも含まれていた。
夢を見ると、決まって悲鳴を上げて目を覚ました。涙は決壊し、自力で震えを止める事は出来なかった。
泣き叫ぶ俺を、両親はいつも左右から挟んで抱きしめてくれた。
しばらくすれば夢も見ず、泣き疲れて眠ってしまう日々は小学生になるまで続いた。
生活の合間に魔王の残影がまれに入り込む。
土砂降りの雨が弾ける様子を見た時に。留守番を余儀なくされ、一人でテレビを眺めていた時に。
薄暗い記憶に飲み込まれないよう、家族の姿を思い出しては、やり過ごしていた。
ランドセルを背負うようになってから訪れた、5度目の春。
叔母が第一子を出産した。
この頃は、魔王であった頃と現在とを混同させてしまう事も無くなり、当初に比べればずいぶんと是永陽としての感情を出せるまでになっていた。
相変わらず魔王の夢は見たが、別の人格として捉えられるようになった。
両親と共に、母の妹である貴子さんの元へ、出産のお祝いに出かけた時の事。
赤ん坊は女の子だった。うちは俺一人だった為、貴子さんの子供が女の子だと分かって、母は猫可愛がりする気満々で可憐な洋服を大量に購入していた。
かさばるプレゼントを持って貴子さんの家に行けば授乳中とかで、俺と父親へは少し遅れてからのお披露目となった。
今寝ちゃったのよ。と言う貴子さんに案内された部屋で見たのは、とても小さな赤ちゃんだった。
大人の指の先ほどしかない小さな手のひらを丸め、安らかに眠っていた。
その赤ちゃんを見たとき、自然と涙がこぼれた。
とめどなく溢れ出て、拭う事もせずに見つめた。
ああ、君だ。
前世の俺と出会う前の君が、無垢なまま眠っている。
災厄と呼ばれ、尊厳を踏みにじられ。それでも希望を失わなかった彼女。
よく、分かる。姿かたちはまだ程遠いけれど、面影はよく残っている。
それは確信。
魔王の隣で、唯一笑っていた野花のような人。
まさか、自分が彼女とこんなにも近い場所で転生を果たしていたとは。
人間とは不可思議なものと思いつつ、魔王自身は何とも人間に近い感情を持ち合わせていたではないか。
あまりに欲深い。魔王は死の直前、己の消滅を願う以上に人間の生き様に恋い焦がれた。
人として生きてみたいと、彼女にまた笑ってもらいたいと。
一瞬でも、願ってしまった。
神は気まぐれで、暇を持て余して何をしでかすかわからない。
その結果がこれならば、感謝しなければならないのかもしれない。
頬をつつけば暖かな弾力があり、手のひらを伸ばすと俺の指を小さな手で握りこんだ。
赤ちゃんを見て静かに涙を流す俺を見て、両親はどう思ったのか、俺一人を残して皆部屋を出て行った。
柔らかな髪をなでながら、歌を口ずさむ。
昔、母が歌ってくれた子守唄。
この世界に命を与えられ、一番最初に己に感情が巡るのを感じたのは、子守唄を歌ってもらった時だった。
なんて、優しくて暖かいのだろう。
嬉しくて、嬉しくて。ずっと聞いていたくて、何度もせびった。
だから今度は、彼女に。
俺が、幸せだと感じたものを送ろう。
あの孤独な世界で、ただ一人、寄り添ってくれた存在。
切に願う。次は君が幸せになる番だ。
だって俺はもう、幸せだ。
勇者であった男が現れるまでは、俺が守っていこうと誓う。
成長すれば雛鳥のように懐いた彼女を見守ってきた。
彼女は7歳になり、俺は海外の大学に進学する事となった。日本を離れる時は、泣いてすがる彼女に愛しさが募った。
たまに送られてくる葉書から、元気で過ごしている様子が伝わってきて思わず笑顔になる。
彼女の身に何かあれば直ぐに帰国する気でいたが、逞しくもたおやかな周囲の元、結局何もないまま今日まで来てしまった。
それに、来るべき日まで、彼女に成人した自分の姿を見られなくなかったというのもある。
彼女の身を案じる反面、あの出来事を無かった事にはしたくはなかった。
守ると誓った筈の俺は、彼女に起こりうる未来を変える事だけは出来なかった。
「あの子、もうすぐ着くそうよ。久しぶりに陽君が来てるって教えてあげたら、もう大喜び。小さい頃は、ずっと貴方の後について回ってたくらい大好きだったからねー」
スキップでもしそうな貴子さんが戻ってきた。
楽しそうに話しながら、俺が飲み干したグラスをお盆へと乗せる。
「俺のことなんか忘れてるのかと思ってました」
「何言ってんの!高校を卒業して陽君が留学で海外へ行ったあと、大変だったんだからー」
最後は力技で理解させたわ。と笑う貴子さんの遺伝子は、しっかりと彼女にも受け継がれているようだ。
女性は強か過ぎるくらいが丁度いい、が口癖の哀愁漂う父の顔がチラついた。
「もう、十三年、ですか」
「あの子が7つの時だから、そうなるわね。陽君、会わな過ぎてきっと顔忘れちゃってるわよ、結衣」
「面目ないです」
日本に帰ってきても、仕事の関係でトンボ帰りばかりである俺は、彼女とは日本を旅立ってから一向に会えていない。
十三年ぶりである。
忘れられてしまっていると思っていたが、杞憂だったようで安堵した。
「そういえば叔父さんが見当たらないんですが、出掛けてるんですか?」
「今日ね、あの子。彼氏連れて来るんだってさ」
その一言だけで合点がいった俺は、思わず噴き出しそうになった。
貴子さんは俺の顔を見て、小悪党のように口の端を吊り上げた。
「厳格な父親像を貫いてるけど、あれでいて内心、かなりテンパってんのよ。笑っちゃうわ」
金融機関の重役として働いている叔父は、厳格さに服を着せたような人である。
そんな人を笑い飛ばせる貴子さんに、とうとう笑い声を上げてしまった。
チャイムが鳴る。
ウキウキと見えない花を飛ばしながら玄関へ向かう貴子さんの後を追った。
「お母さーん。ただいまー!」
元気のよい懐かしい声を聞いて、思わず笑ってしまう。
玄関口では、先に向かった貴子さんと、その向こうで彼女が話している。
奥から背の高い男が現れて、緊張した様子で挨拶をしていた。
ふと、彼女がこちらに気付く。
徐々に目を真ん丸くさせる彼女へ笑顔を返した。
正直、自分でも驚いている。
色は違えど、成長するにつれ今世の俺は姿形が魔王の時と瓜二つであった。
だから気付いてくれると確信があった。
声を詰まらせ、目にいっぱいの涙を溜める彼女へ、こう言うのだ。
「俺は、笑っているだろう」