苛立ち
ジークフリードの執務室から退出した後、ディアナは王宮内にある図書室に向かっていた。ジークフリードには、用があればベルで呼ぶようにと言ったものの、呼ばれるとは思えなかった。聞くところによると、ジークフリードは非常に慎重で、執務の合間に飲むお茶も信頼できる側近に入れさせているらしい。それでは侍女の仕事などひとつもない。実際、王宮に勤める侍女たちの間では、王太子付きの侍女は仕事がないことで有名なのだ。ただとある理由から、王族の侍女で、しかも仕事が楽という好条件にもかかわらず、ジークフリード付きの侍女は、誰もやりたがらない。
「ちょっと、そこの侍女。」
図書室に向かう途中、後ろから声をかけられた。その高飛車な物言いにで声の主に見当がつき、うんざりしながら振り返る。
「おまえがジーク様の新しい侍女?」
予想に違わず、そこには黒い髪に黒い瞳を持った、美しい少女がいた。
この少女こそが、侍女たちが王太子付きになることを嫌がる元凶である。
「はい。マリアンネ・フォン・ベルクヴァイン様。」
この少女ーマリアンネは、この国の現宰相であるベルクヴァイン侯爵の一人娘である。
この国の貴族の位は、上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となっている。公爵は、元々王族から分かれた者に与えられる位であるため、普通の貴族の中で最も位が高いのは侯爵である。現在、この国に公爵家はない。なぜかはわからないが、すべて取り潰されたと聞いている。その辺の事情を詳しく聞きたいのだが、王宮の侍女たちは、皆その話題に触れたがらない。今から行く図書室に資料があればよいけど…。
「おまえ、身分を弁えないのにも程があるのではなくて?」
いつの間にか思考に沈んでいた意識を、マリアンネの高慢な声が引き戻す。
「卑しい身でジーク様のお側にいるなんて。」
マリアンネがジークフリード殿下をお慕いしていて、その妃の座を狙っているというのは、王宮内では誰もが知っていることである。
マリアンネは王太子付きになった侍女に嫉妬して、様々な嫌がらせをしてくるのだ。おかげで、今まで殿下の侍女になった者たちは皆耐えられずに、1か月も経たないうちに辞めてしまっていた。そして、当然その後任に立候補する者もなく、孤児院出身で身分の低いディアナが押し付けられたというわけである。
最も、ディアナにとってはそれは好都合だった。普通の侍女は仕事が多すぎて、赤い瞳の男を探す暇がない。王太子付きの侍女なら、調べる時間はいくらでもある。
ーー必ず見つける。そして、お父様とお母様の仇をこの手で…
「ちょっと、聞いているのかしら?」
マリアンネの声で思考が止められる。イライラする。令嬢のくだらない話に付き合っている暇はないというのに。
「人の話もまともに聞けないなんて。やっぱり生まれの卑しさはどうにもならないですわね。」
「…もちろん、自分の身の程はよく存じております。王太子殿下にふさわしいのが、マリアンネ様であるということも。」
苛立ちから普段よりも幾分低い声でそう答えると、
「当たり前ですわ。私のお父様はこの国一番の貴族ですもの。」
という返事が却ってきたのには呆れてしまった。この令嬢は、永遠などというものが存在すると本当に思っているのだろうか。地位も名誉も財産も、どれひとつとして明日も自分のものである保証はないというのに。
「それではマリアンネ様。私はこれで失礼いたします。」
そう言ってお辞儀をし、図書室に向かう。時間を無駄にしたことに苛立ちながら。
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