5 涙のわけ
「チーちゃん、ごめん。ごめんなさい……」
初めて目にする、ユカの泣き顔。私は呆然と立ち尽くすことしかできない。
知り合ってから一ヶ月と少し、私はユカの笑顔ばかりを見てきた。
だけど、笑っているユカと同じくらい、泣いているユカもキレイだ……ぼんやりとそんなことを考える間に、周囲の景色が淡くぼやけていく。両手で顔を覆ってしまったユカの姿さえも。
「ユカ……どーしたの? 何で泣くの?」
泣かないでと励ましたいのに、喉が詰まって言葉が出ない。しっかり見つめていたいのに、私の涙腺は勝手に緩んでしまう。そんなはずないと笑い飛ばしたいのに。
今ここで謝るという行為が何を意味するのか、もう私には……この場に居た全員には、分かっていた。
「おい……ちゃんと言えよ。どういうことなのか説明しろよ」
サヤマは、ユカの想いを知る数少ない人物。
それだけ仲が良かったからこそ、ユカの涙に動揺を隠しきれないようだ。手にした出席簿を鈴木先生の足元へ乱暴に放り出すと、ギリッと唇を噛みしめる。
ユカはゆっくり立ち上がると、さらさらのショートカットを揺らしながら、深く一礼した。
いつもはピンと伸ばされた背中を猫背に丸め、机の上に幾つも涙の粒を落としながら、ユカは告白した。
「私……先輩のこと、鈴木先生にも相談してたの。鈴木先生、バレー部で、自主トレのコーチしてくれて、優しくて……」
途切れ途切れの短い言葉には、ユカの抱く確かな信頼が滲んでいた。
皆の視線が一瞬だけ鈴木先生に戻る。鈴木先生は、苦しげに表情を歪めて自分の足元を見ている。
スーツを着ていなければ、大学生か高校生にも間違えられそうな外見。生徒のプライベートな相談に乗ってくれそうな、優しい人だというのも分かる。
でもユカがそこまで頼っているなんて、全然知らなかった。
「この前ね、チーちゃんが試合、見に来てくれたでしょ? あの後、先輩が私に、初めて話しかけてくれたの。でも私、すごくショックで……チーちゃんには、そのこと言えなかった。もちろん、サヤマ君にも……だから、鈴木先生に頼ったの」
絶え間なく流れる涙を拭いもせず、唇をわななかせながらユカは告げた。苦しい胸の内を吐き出すように。
「先輩はね、こう言ったの。試合、見に来てた子、可愛いねって……どんな子か、詳しく教えてって……」
途切れ途切れに告げられる言葉に、嘘は一つも混ざっていない。なのに私は、無意識に首を横に振っていた。「そんなはずがない」と。
驚きに満ちた皆の目が、私とユカを行ったり来たりする。
先輩という言葉だけで、分かる人には分かるだろう。入学してから何人もの告白を断ってきたユカが、胸の奥に隠してきた大切な想い人が。
「さっきの、体育の前にね、鈴木先生にメールで……チーちゃんはズルイって、愚痴ったの。だから鈴木先生は、私のために……」
ユカはそこで一度押し黙り、俯いていた顔をあげた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたユカが、私の目を真っ直ぐ捉える。覚悟を決めた人間だけが放つ、心を貫くような眼差しで。
「鈴木先生にね、『チーちゃん、佐山君と、早くくっつけばいいのに』って言ったんだ。だって、そうでしょ? チーちゃんには、佐山君が居るのに、ハッキリしなくて、先輩からも好かれて……小さくて、可愛くて、私ずっと嫉妬してた……馬鹿だね」
私は、ユカと同じくらい大量の涙を流しながら、強く首を横に振り続けていた。
ずっと羨ましかったのは、私の方。ないものねだりと分かっていたけれど、私だってユカに嫉妬してた。
でもそれ以上に、ユカのことが好きだった。
皆に聞かれていても構わない。ユカには誤解されたくない。
私の気持ち、伝えなきゃ。
「あのさ、ユカ……私、先輩とは一言も喋ったこと無いんだよ? それなのに好かれるとか、ありえないよ。あとサヤマのことだって、一方的に犬扱いされてるだけで、別に……」
「チーちゃん、さっき私に、授業のノート貸してくれた……あそこに、チーちゃんの気持ち、書いてあったよ?」
意味が飲み込めず、私は首を傾げる。『さっき貸したノート』という言葉を頭の中で何度もリピートした結果、浮かんだのはおろしたての抗菌加工な大学ノート。
その瞬間、私の涙はピタリと止まり……一気に頬が発熱!
そうだ、確かに私はノートの隅に書いた。サヤマの名前と、その隣に私の名前を。
まさかあれを消さずに、ユカに渡しちゃったなんて――!
「オッケー、それ証拠品ね。はい、出して? ユカちゃん」
いつの間にか、教卓から教室の最後部へ移動していたサヤマ。慌てて追いかけても、時すでに遅し。
ユカは、サヤマの命令にすんなり従ってしまった。サヤマの大きな手が、真新しいノートの表紙をめくる。
「ヤダー! 見ちゃダメッ!」
証拠が記されていたのは一ページ目の最上部。余白に並んだ二人の名前を、サヤマはあっさり見つけてしまった。
憎たらしい、いつも通りのニヤケ顔を浮かべたサヤマが、ノートを取り返そうと必死でまとわりつく私の頭上から手を伸ばし、ポニーテールのリボンのあたりをワシワシと撫でまくる。
「ふーん……チビ子、俺の名前ちゃんと知ってたんだ。偉いぞ。ヨーシヨシヨシ」
「バカッ! 犬扱いするなっ!」
ああ、どうして神様は私に、高い背と長い腕とジャンプ力を与えてくださらなかったのだろう。腕を高く突き上げた『自由の女神』ポーズのサヤマの先端に、私の手が届くわけがない。
それでもひたすらジャンプする私を軽くかわして、サヤマは教卓へ戻る。
と……私は一気に現実へ引き戻された。
そこには、力無く肩を落としたままの鈴木先生。サヤマのニヤケ顔も消え去り、再びクールな裁判官の顔に戻って。
「だいたい事情は分かった。この事件、やっぱ犯人は鈴木先生だな。ユカちゃんは何も悪く無い。こんなことを黒板に書けって、ユカちゃんが命令したわけじゃないんだろ?」
ユカは「違う」というように首を横に振ると、苦しげに眉根を寄せた。
それを確認したサヤマはスッと目を伏せる。長い睫毛が、サヤマの瞳に影を落とす。
「でも、動機は理解できなくもないかな。好きな子の力になりたかったなら、ね……」
サヤマの呟きは、神様が与えた赦しのよう。
犯人へ向けられていた皆の怒りが、その一言でするりと解けていく。
鈴木先生の気持ちは、たぶん純粋な好意だった。ただやり方を間違えてしまった。
本当にユカを想っていたなら、こんなことをするんじゃなく、ユカの悩みを親身になって聴いてあげるだけで良かったのだ。
それを三年間続ければ……もしかしたら可能性はゼロじゃなかったかもしれないのに。
非難と同情の入り混じった複雑な感情が、見えない刃になって鈴木先生へと向かう。虚ろな眼差しでそれを受け止めた鈴木先生は、ふうっと大きく息をついて。
「相川、佐山……馬鹿なことをして、申し訳なかった」
そして居住まいを正すと、皆に向かって深々と頭を下げた。
そのまま、どのくらいの時が経ったのだろう?
鈴木先生は頭を下げたまま微動だにしない。耐えかねたユカが叫ぶ。
「違う! 私が悪いの! 私が自分で、チーちゃんに言えば良かったの……!」
すると、静かに頭を上げた鈴木先生は、また涙が止まらなくなってしまったユカに優しげな笑みを向けて。
「いや、そうじゃないんだ。全部俺が間違ってた。最初から最後まで……これ以上皆に恥は晒せない。本当にすまなかった。今から辞表を出してくる」
今までとは違う落ち着いた大人の声色でそう告げて、短い黒髪をくしゃりと撫でる。
「やだ、先生……お願い、辞めないで!」
ユカの慟哭は私の胸を強く打った。
クラスの皆も、一様に悲痛な面持ちを浮かべている。鈴木先生を舐めまくっていた派手女子軍団も、今度こそ本気で涙ぐんでいる。
皆が見守る中、鈴木先生は無理矢理作ったと分かるぎこちない笑みを浮かべた。
「ごめんな。でもこれは俺なりのケジメなんだ。バレー、頑張れよ。お前ならできる」
いやです……と声にならない声で呟き、糸が切れた人形のように机に突っ伏してしまったユカ。鈴木先生は困ったように微笑むと、クラス全員の顔を一人ずつ見つめた。
そして最後に、私とサヤマへ辿り着いた。
「佐山、相川、本当にすまなかった」
「もういいです……全然、たいしたことないんで」
言葉が上手く出ず、私ははがゆい気持ちで強く首を横に振った。サヤマはぶっきらぼうな口調で問いかける。
「俺も別にいいけどさ……先生これからどーすんの? このご時世、再就職つっても厳しいんだろ?」
素直に「辞めるな」と言えない、皮肉屋のサヤマらしい発言。鈴木先生にもサヤマの本音が伝わったのか、元々細い瞳をさらに細めてサヤマを見上げた。
「そうだな……たぶん皆には、もっと違う意味でも謝らなきゃならないんだろうな。ずっと自分の夢が見つからなくて、なんとなく大学を出て教師になった俺には、皆が眩しかったよ。教師って仕事は、中途半端な気持ちじゃ続けられないってことも良く分かった。俺もこれから自分の夢を見つけて、一からやり直そうと思う」
鈴木先生の表情には、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。
私はこの間見に行ったバレーの試合を思い出す。力を出し尽くし、惜しくも負けてしまった選手たちがこんな顔をしていた。
きっとこれは、逃げるわけじゃなくて、前に進むためのケジメなんだろう。
「そっか……だったらまぁ、いいんじゃねーの?」
サヤマはふっと微笑むと、皆に向かって「今日のことは全部忘れるように」と命じた。当然分かってる、とばかりに全員が頷く。
一致団結した生徒たちの態度に、鈴木先生は大きく目を見開いて……最後にもう一度深く頭を下げた。
「ありがとう。短い間だったけれど、皆と出会えて本当に良かった」
鈴木先生はとても先生らしい言葉を残して、教室を出て行った。
すれ違いざま、サヤマの肩にポスンと手を置き「お前も早く素直になれよ」と囁いた気がした。